Layer_0/ Reboot(2)

 部屋の外は、部屋の中と変わらない材質の壁で囲まれた回廊だった、けれど。部屋と違うのは、そのうち一面と 天井が硝子張りになっているということだ。

 そして、硝子の向こうに見えたのは。

「塔……?」

 色のない空に向かって聳える、巨大な塔。

 ここが塔のすぐ足元だということもあるのだろうが、つるりとした窓ひとつない壁面を晒す塔の頂点は、どれだけ首を真上に向けても見通すことが叶わない。それが、たまらなくもどかしく、ちりちりとうなじの辺りが疼く。

 何故だろう、この感覚。息苦しいような、けれどどこか懐かしいような。

 そうだ、僕は、この塔を知っている――?

『この塔は、君の記憶だ』

「……え?」

 天から降ってくるダリアさんの言葉が、一瞬、全く理解できなかった。聞き間違えたのかと思ったけれど――ダリアさんの話し方を聞く限り、どうも少し言葉が不自由なようだから――、今ばかりは僕の聞き違いではなかったらしく、ダリアさんははっきりと言う。

『今、君から失われている記憶は、全て、あの塔の中にある。何故そうなっているのかは私も知らないが、あの塔は君のために存在し、ずっと君を待っていた』

 塔が、僕を待っていた?

 記憶という形のないものが、塔という具体的な形を伴っていることに非現実感を感じずにはいられなかったけれど、そもそも目覚めた瞬間から現実味からかけ離れた状況に置かれていたのだから、今更だとも思う。

 それに、僕が「現実」と考えているものは、本当に現実なのかという疑問もある。僕の頭の中にある常識は、果たして正しいのか。それすらも、今の僕には判断できないのだ。僕がそれらの知識を得るに至った「過程」が失われてしまっているのだから。

 そんな、あやふやな意識に、僕のものという実感のない身体。このままではいられない、という思いが胸の中に膨らんでいく。その間も僕は首を思い切り上に向けて、塔の頂上を探す。

 この塔の頂上に、僕の記憶が待っているのだろうか。

 それを取り戻せば、この、今にも崩れてしまいそうな「僕」を確固たるものにできるのだろうか。

「ダリアさん」

『何だ』

「僕があの塔を上らない、という選択肢は存在しているのですか?」

『上らないのは自由だろう。ただ、私が知る限り、今、君がいる回廊には出口が存在しない』

 まさか。

 部屋から出ることはできたが、結局僕は閉じ込められているままだ、というのか。

 いや、違う。出口はあるのだ。

 ただ一つだけ、ダリアさんのいる場所に続いている出口が――。

「塔に向かえば、記憶を取り戻せるだけでなく、この奇妙な空間からも脱出できるかもしれない、ということですか」

『……おそらく』

 ダリアさんは明確な返答は避けている。ただ、それは僕に誤った情報を渡すことを恐れてのことだ、と理解する。今までの問答で判断する限り、ダリアさんは僕の置かれている状況の全てを把握しているわけではないのだ。だから、はっきり確信できていることは言い切っているし、曖昧にしか把握できていない部分はそう示唆している。誠実な反応だ。

 正直、ダリアさんの立場がよくわからないが、それでも、ダリアさんの言葉は信じていい、という妙な確信があった。

 だから、一つだけ。どうしても、これだけは聞いておきたかった。

「もう一つだけ、質問させてください」

『何だ』

「ダリアさんは、どうして、僕に協力をしてくださるのですか?」

 ダリアさんは、『ふむ』と一拍置いた後、きっぱりと言い切った。

『君と顔を合わせて、言葉を交わしたいからだ』

「……それだけ、ですか?」

『それが理由ではおかしいか?』

 今度こそ、ダリアさんの声に不機嫌そうな響きが混ざった。これは、僕が悪かったのだろうか。僕にはどうにも判断ができなかったけれど……。

「ご、ごめんなさい。おかしくないです」

 つい反射的にそう言ってしまった辺りで、何となく、記憶を失う前からこんな感じだったのではなかろうか、と考えずにはいられなかった。

 小さく『ふん』と鼻を鳴らす声が、上から聞こえてくる。最初は冷静で感情の掴みにくい人かと思っていたけれど、その声の印象よりもずっと素直な人なのだろう。そう気づくと、不思議とほっとする。

『それで、どうするつもりだ?』

 ダリアさんは、すぐに気を取り直したようで、また淡々とした声音で問うてくる。

 まだ、僕を取り巻く状況はわかりきっていない。あの塔の頂上に辿り着き、記憶を取り戻したところで、本当にこの無機質な空間から抜け出せるのかもわからない。

 それでも。

「……確かめてみたいと思います。あの塔の先に、何があるのか」

 この、ちりちりとした感覚を抱えたまま、ベッドの上で膝を抱えているくらいなら、この先に何が待っているのかを確かめたいと願う。

 ダリアさんは、小さく息をついて『そうか』と僕の言葉を受け止める。

『ならば、案内しよう――と、その前に』

 足を踏み出しかけた僕は、首を傾げてしまう。

「何ですか、ダリアさん?」

 ダリアさんは、一拍置いてから、言葉を紡いだ。

『名前。君にもないと、不便だな』

「ええと、別に『君』でも全然構わないですよ?」

 今のところ、ダリアさん以外に話のできる相手もいそうになかったし、僕自身、記憶がないからか、名前と言われてもぴんと来ない。それでも、ダリアさんは『そういうものか?』とどこか不満げな声をあげる。もしかすると、ダリアさんにとって「名前」というものは大切なものかもしれない、と思い直す。

 それならば。

「なら、ダリアさんがつけてくれませんか?」

『私でいいのか』

「はい。ダリアさんが呼びやすい名前の方が、僕も嬉しいです」

 ダリアさんに見えていると信じて、天井辺りを見上げてみる。ダリアさんはしばし悩んだ後――僕の想像したよりもずっと早く、名前を思いついてくれたようだった。

『では、ユークリッド、と』

「ユークリッド、ですか?」

 ユークリッド。原語に近い読みだとエウクレイデス。旧時代の学者の名前、だったはずだ。けれど「旧時代」とは一体いつ頃を指した言葉だっただろう。どうも、残っている知識と消えた記憶が混線している感じがして心地が悪い。

 ダリアさんは、そんな僕の内心に気づいているのかいないのか、いたって堂々とした声で言った。

『私が昔飼っていた、兎の名前だ』

「う、兎?」

『白くて赤い目だから、君もユークリッドだ』

「は、はあ……」

 どう反応していいかわからず、気の抜けた声が出てしまう。ペットの兎。何だか釈然としない。

 それでも、口の中でその名を唱えてみると、意外なほどにしっくりと来る。「別の名前だったはずだ」という思いもあるけれど、それとは全く別の感情として、ユークリッドと名づけられたことで、僕が始めて「僕」という輪郭を得たような感覚。

 その、温かな感覚を抱いて、僕は目には見えないダリアさんを見上げる。

「ユークリッド。それでは、これから僕はユークリッドです。失くした名前を、取り戻すまでは」

『ああ。では、改めてよろしく、ユークリッド』

「はい、よろしくお願いいたします、ダリアさん」

 きっと、ダリアさんは微笑んでいたのだろう。声だけしか聞こえなくても、そのくらいは僕にだってわかる。

『では、行こうか、ユークリッド。まずは、この階層を案内しよう』

 ダリアさんの声に導かれながら、僕は裸足のまま回廊を進んでいく。ダリアさんによれば、この回廊は塔の周囲をドーナツ型に囲んでおり、真っ直ぐに歩いていけば僕が元いた部屋に戻るようにできているらしい。無機質な壁に触れるとさらりとした手触りとひんやりとした温度が伝わってくる。

 そうして、ゆっくりと、回廊の半周あたりまで歩いてきたところで、ふと、疑問が頭に浮かぶ。

「……この施設には、僕の他に誰もいないのですか?」

 僕の寝ていた部屋がそうであったように、この長い回廊にも、人の気配らしきものは感じられない。

『ああ、この階層には誰もいない』

「何だか、不思議な感じですね。世界に、僕一人きりになってしまった感じです」

 ダリアさんが見ていてくれていることはわかっているけれど、人の息遣いや衣擦れの音すら聞こえない息苦しい静寂は、そんな錯覚を呼び起こす。

 すると、ダリアさんがぽつりと呟いた。

『それも、あながち間違っていないのかもしれないな――』

「えっ?」

 僕が疑問符を投げかけたのと、いつの間にかすぐ横に現れていた扉が自動的に開いたのは、ほぼ同時だった。

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