15. 狂乱

 無人の劇場はしんと静まり返っている。

 俺は板張りの舞台の上で、ぼんやり頭上の白いライトを見つめていた。

 来週からここで、俺主演の公演が始まる。若手俳優の俺にとり、今回の公演は非常に大きな意味をもっている。成功すれば実力派として認められるし、失敗すれば二度とチャンスはこないだろう。すくなくともそれぐらいの覚悟でいた。

 とことこ、と靴音が響いてきた。舞台袖から白い着物姿の男の子が歩いてくる。小学生くらいの男の子だ。平安貴族みたいな恰好をしていた。舞台衣装にも見えるが、今回の公演に子役はない。男の子は大きくて愛らしい瞳でじっと俺を見つめた。手にした金の扇を閉じ、ため息とともにこぼす。


「かわいそうに」


 かわいそうに? この子、どこから入ってきたんだ。関係者の子か? 男の子は意味不明な言葉を続けた。


「知っていますか? 動物は眠るために生きているんですよ」

「えっ」

「昔、生存に不都合があった一部の植物が、仕方なく動き始めたのが、動物の始まりなんだそうです。植物のように眠っている状態が、動物にとっては理想なんだとか。そりゃ、そうですよね。動かずに生きていけるなら、それに越したことはないですし。あなたも考えたことくらいあるでしょ? ああ、光合成できたらなぁーって。そしたら食べなくてもいいし、働かなくていいのに、って」

「な、なんの話だ?」

「あなたの話ですよ」


 意味がわからなかった。俺は昔、学生のときに大嫌いだった物理学の教師を思い浮かべた。つらつらと難解な言葉を並べたて、相手が理解したかどうかに関わらず喋りつづける。理解できない者を教師は見下していたが、この男の子は違う。この子はどこか異なる次元にいて、ペットの犬にでも話しかけるように俺に言葉を放っている。男の子は活舌よく、かってに話した。


「動物が起きているのは、本来、異常なことなんです。本当は眠っていたいのに、お腹が空いたり、眠る環境を整える必要があるから、仕方なく起きているんですね。夢も希望も、その過程で生まれた副産物でしかないのに。あなた方人間は、いつの間にか目的を入れ替えてしまっている。なかには、昼間のストレスで悪夢を見る人もいるくらいです……あなたみたいに。だから、かわいそうだなぁって思うんです。そんなことのためにうちへお参りに来るなんて」

「な、なんなんだ? なにが言いたい?」

「覚えてませんか? 昨日の昼のこと」


 昨日の昼のこと。

 ぞっとするような男の子の冷笑が、俺の記憶を呼び覚ました。

 昨日の昼、俺は劇場近くの神社へ行った。なんという神社か知らないし、どんな神が祀られているのかも知らなかった。ただ通りがかり、神社の看板に「一願成就の神」と書かれてあったから立ち寄っただけだ。公演の稽古がうまくいっていなかった。ラストシーンに大がかりな殺陣たてがあるのだが、俺は練習で一度もうまくできていない。恋人を殺された主人公が敵に恨みを晴らす場面で、十五人の敵を倒しラスボスと戦うのだが、どうしてもそこの殺陣で引っかかっていた。今のままなら内容を簡素化するしかないと、監督からは通告されていた。ぎりぎりまで練習させてもらえるよう頼みこんではいるが、スケジュール的にも厳しい状態だ。連日の稽古で心身ともに疲れていた俺は、ふらふらと神社へ吸い寄せられたのだ。

 ようやく思い出した俺に、男の子は「おや」と首を傾げる。


「ひょっとして、立て看板をよく読みませんでしたね? うちは一願成就。強く願えばなんでも叶えてさしあげますけど……」

「本当か? っ、じゃあ、俺の舞台を成功させてくれ!」

「いいですよ。そのために私が寄越されたのですから。私は神の遣いです。神はお忙しいので、私めが遣わされるわけですが──ではちょっと、やってみせてください」

「えっ?」

「うまくいかないという、そのラストシーンです。三夜の間に完璧に演じきれたら、願いを叶えてさしあげます」

「さ、三夜?」

「ここはあなたの夢の中ですよ。気づきませんでしたか? 一夜の終わりは、そうですね……あそこに月があるでしょう? あれが沈んだら、一夜は終わりです」


 舞台背景に作りものの月が現れた。金色の張りぼての月は、夜空をゆっくり左へ移動している。動く速度は遅いが、数時間もあれば端へ到着するだろう。男の子は舞台から降り、最前列の席にあぐらをかいた。気だるげな扇のひと振りで、空っぽだった舞台に問題の殺陣のシーンが現れる。十五人の敵役が立っている。最奥に階段のセットがあり、ラスボス役も一番上に待ち構えているようだった。俺は衣装を着た状態で、小道具の大鉈をいつの間にか握りしめている。左手の客席から、神の遣いだという男の子が手を振ってきた。気だるげに「はやくれ」と、無言で催促している。これは夢? 俺の夢の中だと、あの子はそう言った。三夜の夢で殺陣を演じきれたら、公演が成功すると──? そこまで考え、ハッとする。


「待て待て。演じきれたら?」

「はい」

「いや俺、それができなくて困ってるんだけど」

「なに言ってるんですか。ここは夢の中ですよ? 現実では無理でも、ここならなんとでもなります」


 心底あきれて小馬鹿にしたような声だった。現実のようなリアルさで、俺のカラカラの喉が鳴る。夢の中ならうまくいく? たしかにそうかもしれない。セットも小道具も現実と同じだ。他の共演者に気兼ねすることもない。夢の中でなら──……。


「あ、言い忘れてました。三夜の間に完璧に演じきれなかったら、あなた死にますよ?」

「え……?」

「俳優として、とかじゃないですよ。神社の看板にあったでしょう? 『一願成就。当祭神は、命を賭す覚悟を要す』って。なにぼーっとしてるんですか。今さら遅いですよ。じゃあ、やってみせてください」


 жжж


 結果として、俺は失敗した。朝、普通に起きて愕然とする。握りしめていた大鉈の硬さが、まだ手のひらに残されている。あまりにもリアルな夢だった。もやもやとした残滓ざんしを、俺はつかみとろうとする。夢の中とはいえ、昨夜は今までで最高のパフォーマンスができた。十五人の敵との殺陣──ジグザグに配された敵の間を、複雑なステップと薙刀さばきで駆けるのだが、何週間も訓練してできなかった動きを、夢の中では難なくこなせた。ひとり、ふたりと敵を抜き、俺は階段セットまで辿りついていた。あとは階段を上がり、ラスボスを倒せば終わりだった。一段目へ足をかけようとして、けれど俺は勢いよくつんのめってしまったのだ。なにかに右足を引っ張られていた。振り返り、俺は悲鳴をあげる。


『あなたのファンです』


 眼球のない黒いもや状の女が、足元でニタリと笑んでいた。舞台に這いつくばり、俺のほうに近寄ってくる。反射的に、つかまれた足首を振り払っていた。気持ち悪い。ニタニタ笑いの黒い影は怯まない。立ち上がり、何かをつぶやきながら近づいてくる。


『目黒のカフェにいました? あそこ、ワタシもよく行くんです』

「な、なんだよっ……こっち来んな!」

『住んでるの、あの辺ですよね?』

『ワタシ、テレビ局に友達がいて』

『昨日アップされてた店、ワタシの友達がやってるんですけど』


 いつの間にかわらわらと、舞台に黒いもやが這い上がってきていた。全員ぽっかりと眼に穴があき、耳まで割けそうな笑いを浮かべている。キイキイ声で黒いもやはくり返した。ファンです、ファンです、あなたのファンです、いつも応援しています、だから、だから──。俺は本能的な恐怖から動けなくなった。自分のファンだという女性が、俺は苦手だ。これまでトラウマレベルの迷惑行為を、一部のファンから受けていた。「ファンです」と言ってくる人全員が悪いわけではないが、まだそのときの恐怖が根強く残されている。


「もてますねぇ」


 ほうほうのていで後じさる俺を、神の遣いだという男の子が宙に浮かび、見下ろしていた。


「なんだよこれ!?」

「ほら、はやくしないと。完璧に演じ切ってください」

「できるわけないだろ!? こんな……」

「そうですか。これはあなたが招いた事態です。私はなにもしてません」


 ファンです、と近づいてきた黒いもやに腕をつかまれ、ぞわりと肌が粟立つ。俺は勢いよく大鉈で振り払っていた。黒いもやは床を滑り、うずくまる。額に俺の腕時計が当たったらしい。黒いもやの頭からは血が出ていた。スタッフが何人か走ってきて、倒れた彼女の周りに集まっている。黒いもやは悲しげな声を出した。


『ひどい……なんでこんなことするの?』

「ッ、るせぇ! 邪魔するな!」


 自らが発した声にハッとした。世界が色を変え、景色を変えて、現実に戻ってくる。俺はテレビ局の廊下に立っていた。ほんの刹那、自分がどこにいるのかわからなくなる。目の前に、俺に殴られてうずくまる女の子がいた。集まってきたスタッフたちはやや茫然と、批難の目で俺を見ていた。ここは現実。夢の中ではない……? マネージャーがすっ飛んできて、俺を壁際へ引っ張っていく。


「なんでこんなことしたの! たかがファンでしょ、いつもみたいに軽くあしらえば──!」


 いつから。茫然と自分の腕時計を見下ろした。午後九時十分。今朝のことだ。目覚めて俺は、スタジオへ向かった。それから舞台稽古へ行き、休む間もなくテレビ局へ向かった。収録が終わって、夜、廊下を歩いていたのだ。夢のことを考えていて、夢の中にいるような気分になって……わからない。もう一週間以上ろくに休めていない。疲れて朦朧としていたのかもしれない。マネージャーが「とにかく休め」と、強制的に俺を自宅へ帰した。どういう風にことを収めたのか知らないが、数時間後にはSNSで、俺がファンを殴ったことが話題になっていた。殴ったわけじゃない、振り払ったんだ。まとわりつかれて混乱したから──そんな主張は誰も信じてくれない。深海に沈みそうなため息とともに、俺は自室のソファーで目を閉じる。


 

 жжж



「じゃあ、やってみせてください」


 夢の舞台だった。また同じ夢を見ている。神の遣いだという子供が、退屈そうに舞台の下から俺を見ている。


「夢、だよな……?」

「言ったでしょう。夢です。二夜目ですよ」


 早くも目覚めたい気分だったが、考え方を変えるしかない。夢の中ですらうまく演じきれなくてどうする。本当に願いが叶うかはともかく、イメージトレーニングにはなるだろう。無理にそう押し上げた気持ちは、舞台を見て盛大にそがれた。


「これは……」

「増えましたね。私のせいじゃないですよ」


 昨日と同じで、舞台は完璧に整えられていた。十五人の敵と階段セットが、本番そっくりにセッティングされている。違うのは、例の黒いもやが七体うろついていることだ。舞台の上をさまよい、ぶつぶつと何かをつぶやいている。ファンです、ファンです、あなたのファンです──……。本能的な恐怖に俺は身を震わせる。気持ち悪い。それに、なにかがおかしい。夢であの黒いもやを振り払ったら、現実世界で無意識にファンを攻撃していたのだ。


「……ひとつ、確認なんだが。あの黒いのに危害を加えると、現実にも影響が出るのか?」

「そうですね。まあそんなこと、どうでもいいじゃないですか」

「なに?」

「完璧に演じきれないと、あなた死んじゃうんですよ? 時間も限られているのに、そんなことを言ってる場合ですか?」


 舞台背景の月はすこしずつ傾いている。三夜の間にこのシーンを演じきれなければ、俺は死ぬ。そう男の子は主張している。夢だし真に受けるのも馬鹿らしいが、不思議と言われたことは本当だと感じていた。


「完璧にやれば、現実でも舞台は成功するんだな?」

「もちろんです」


 黒いもやは、まだ俺の存在に気がついていない。距離を縮めれば昨日のように襲ってくるだろうが、今は大丈夫だ。足首をつかまれたときを思い出すと、身震いしてしまう。だめだ、ここは俺の夢の中なのに。成功をイメージできなくてどうする。

 息を軽く吐き、俺は覚悟を決めた──勢いよく駆けだした。あの黒いもやには近づかなければいい。十五人の敵、七体の黒いもや。この狭いステージで、そんなことができるのかはわからないが──敵の攻撃をかいくぐった瞬間、目の前を黒いもやに阻まれた。立ちすくみそうになったが、慌てて向きを変える。次の敵の攻撃をかわし、練習通りに回転で足払いをかける。またしても黒いもやが邪魔をする。鼻先にニタニタ笑いがあり、全身の筋肉が強張った。すんでのところで避け、前へ。息つく暇もない。視界の端に見える黒いもやは気にしないようにした。近寄ってきたときには慎重によける。そうやって少しずつ進み、やっと階段セットに足がかかった。階段は二十三段あり、かなりの高さだ。落ちたら事故になりかねないと、監督からは重々注意されていた。駆け上がり、最上段で俺はラスボスと対峙する。

 俳優の城崎レオがそこにいた。スポットライトを受け、レオは自信たっぷりに輝いている。人を小馬鹿にしたような、いつもの笑みを浮かべていた。俺はこいつのことが嫌いだ。レオには大手事務所の太いパイプがあり、おいしい仕事をいつもかっさらっていく。見た目もいいし売れっ子なので、周りの人間を「自分より劣る」と、わけもなく見下している。今回の舞台にしたって、監督が演技を重視してくれる人でなければ主演を奪われていただろう。レオはゆったりと刀を構えた。引き締まった体と優雅な立ち姿は憎らしくも舞台映えする。俺は台本通りの動きを取ろうとした。最初はレオの斜め斬りだ。それを避けて数回打ち合い、最後に俺が奴を刺し、フィナーレだった。鋭い音とともに視界が反転した。


「えっ」


 俺はレオの足元に倒されていた。避ける間もなくレオに斬られた──そう理解するまでに時間がかかった。偽物の刀なので肉は斬れないが、固い金属で殴られた衝撃は大きい。目を白黒させていると、レオに肩を踏まれてしまった。憎たらしいことに、嘲笑はレオをいっそう美しくみせる。


「あんた、遅いな。息が合わねぇ」

「ちょ、まてっ……!」


 レオは俺を蹴り転がした。後方へと──背後には崖のような階段が待ち構えている。


「やり直し!」


 止める暇もなく、レオに勢いよく蹴落とされた。二十三段の落下は生死に関わる。頭が真っ白になった。夢の中なのだから、もっとやりようがあったかもしれない。けれど、とっさにそんなこと思いつけない。へばりつくように手足を伸ばし、階段へしがみついていた。摩擦の犠牲にした手のひらが痛いが、落下の勢いはなんとか殺せた。耳奥で鼓動がドクドク鳴る。危ない──死ぬところだった。なんてことしやがる。ステージライトを浴びたレオは、傲慢な笑みで俺を見下ろしていた。


「全然ダメじゃん。俺が主演のほうがいいんじゃね?」



 жжж



 いったん休憩入りますー。

 間延びしたスタッフの声に、俺はハッとした。昨夜の夢を反芻はんすうし、またぼんやりしていたらしい。舞台袖のパイプ椅子に座り、俺は男性スタッフから手当てを受けていた。今日の稽古で、階段セットから落下したのだ。まるで昨日の夢みたいに──幸い顔に怪我はなく、軽い打ち身ですんでいる。冷感スプレーを足にかけてくれていた男性スタッフが、言いづらそうに口を開いた。


「大丈夫ですか?」

「平気。ごめんね」


 ちょっと出てくると告げ、俺は外の非常階段へ向かった。階段の踊り場からはゴミゴミした町が見える。ビル、ビル、近くの中華屋の餃子の匂い、灰色の空──……俺は昨夜の夢でまたしても失敗してしまった。階段セットまでは辿りつけたが、最後がうまくいかなかった。レオのせいだ。奴と斬りあうタイミングがどうしてもずれてしまう。夢の中のレオは協調性のかけらもなく、俺に合わせようという気すらみせなかった。蹴落とされたときの、奴の笑い声が今でも耳に残っている。だから今朝、目覚めて稽古に来たとき、俺はすこし身構えていた。現実世界でレオに階段からつき落とされるかもしれない。夢の中のことが現実に起きるなら、十分にありえる。今朝の俺は疲弊を引きずり、警戒しつつ舞台の階段セットへ上がった。稽古を始めてしばらくたったときだ。レオが驚愕に目を見開いた。


「え」


 たたらを踏んだ俺の足が後ろへよろめく。そこに階段はなかった。一歩下は空中だ。夢の中とは違って、レオは俺をつかまえようとした。顔色をさっと変え、奴は必死の形相だった。俺が階段セットから落ちたのは結局、極度の疲労と睡眠不足のせいだったのだ。


「主演、変えたほうがいいんじゃないか?」


 かすかな声に俺は顔を上げる。上の踊り場に男性スタッフがふたりいて、立ち話をしている。俺の存在には気づいていない。


「レオのがいいよな。売れてるし。なんで主演じゃないの?」

「さぁ。監督がオーディションで決めたって」

「ファンとのトラブルもあったろ?」

「迷惑だよな。遊び気分かよ、公演前に……」


 彼らが立ち去るまで俺は息を殺していた。迷惑。レオのほうがいい。遊び気分……? 冗談じゃない。俺がどれだけ舞台を真剣に考えているか。体調が完璧でないのは事実だが、それは稽古の時間をこれでもかとつめこんだからだ。遊び気分といえばレオのほうだろう。女性スタッフと一緒にへらへら笑いながら舞台にやってきて、稽古への参加数も少ない。俺が必死に稽古していると、奴はきまって舞台袖でそれを眺めている。そんな暇があるなら、自分の稽古をすればいいのに。目の前の非常階段のドアが開き、俺は視線を上げた。スタッフが呼びに来たのかと思ったら、レオだった。窺うような瞳で奴は冷却スプレーを差し出した。


「……どぞ。冷やしたほうがいいですよ」


 無言で受け取ると、レオは俺の隣で缶コーヒーを開ける。なにか話したそうにしているが、いっこうに口を開かない。文句を言う気か、馬鹿にしてくるか。だんだん腹が立ってきて、俺はため息とともに吐き出していた。


「悪かったな」

「え?」

「稽古止まってるだろ。俺が落ちたから。もう戻るから、お前も──」

「っ、すこし休んだほうがいいです!」


 レオは罪を告白するような、弱々しい顔をしていた。常に自信満々で、俺様口調のあのレオがだ。口調にもびくびくと窺うような響きがある。


「あ、あの。俺、言わないほうがいいかと思ってたんすけど、誰も言わないし……あんな風にぶっ続けで稽古してたら、体もたないですよ」

「お前……テレビとなんか、キャラ違うな」

「じ、事務所の方針で。すみません」

「べつにいいけど」


 そういえば、レオとまともに話したことがない。向こうから近づいてきても、たいてい俺のほうが避けていたからだ。俯きがちだったレオは決然と顔を上げる。


「俺! 今回の舞台、絶対に成功させたくて! ずっと一緒に仕事できるの、夢だったんです!」

「は。お、俺と?」

「好きなんです! あっ、ひ、引かないでください! 俳優としてって意味で……だから、ラストの十五人斬りのとこ、袖からいつも見てました。あんな激しい殺陣なのに気迫が凄くて。俺も完璧にやらなきゃって」

「なんだよ、それ。めったに稽古来ないくせに」

「それは……恥ずかしくて」

「はぁ?」

「い、一緒にやるなら、せめて見られる演技にしたくて。ひとりで練習してました」


 こいつ本気か? 俺を油断させようと、持ち前の演技力を披露しているのか? 判別はつかないが、信じてもいいほどの必死さだった。


「とにかく、今日はもう帰って寝てください! 公演はなんとでもなりますから。最悪、動きを簡単にすればいいし」

「それは駄目だ」

「えっ」

「公演までに完璧にするから」

「っ、なら、休んでくださいよ! 舞台には他の俳優も、スタッフもいるのに。ひとりで全部背負わないで──もっと周りを頼ってください! みんな敵じゃないんですから」

「べつに、敵だなんて」

「思ってましたよね? 少なくとも俺のこと」


 言葉につまると、レオはくしゃっとした笑みを浮かべる。ゴールデンレトリバーが飼い主に向けるような顔だった。レオの外面が事務所の方針で、メディア向けに作られたものだと、俺は全然知らなかった。すこし話せばわかったはずなのに、話そうともしなかったからだ。同じ公演の俳優とはこれまでなるべく親しくするように心がけてきた。そのほうが本番でもうまくいくし、仕事もしやすい。それなのにレオのことは無視してきた。今まで自分がどれだけ己のことで手一杯だったかを、俺はようやく自覚した。レオは話せてほっとしたのか、いつもより数段輝きを増した顔で笑っている。


「主演が潰れたら公演自体終わりです。だから今日は帰って、もう休んでください」



 жжж



 俺はレオの助言を受け入れた。自宅のベッドに入った瞬間、すうっと意識が遠のく。疲れていた。ようやく休めると思ったのに、すぐに意識が浮上する。またあの夢だ。俺は舞台に立っていた。神の遣いだという子供が宙に浮き、淡々と言う。


「三夜目です。最後ですが、やってみせてください」


 舞台はいつものように完璧に整えられていた。十五人の敵と階段のセット、自分の立ち位置も台本通りだ。けれど、昨日とは違う点もある。黒いもやの数が明らかに増えていた。二十体はいる。元からいた十五人の共演者に加えて、舞台の上はかなりの密度になっていた。


「急いでください。時間切れになってしまいますよ」


 神の遣いが舞台背景を示した。時の経過を示す月は動き始めている。俺は目を閉じ、呼吸とともにイメージしてみた。ここは夢の中だ。想像ですべてがうまくいくはずなのだ。俺の考える「完璧」とは何だろう? 台本通りに動くのはもちろん、優れた演技でお客さんを喜ばせること──そう、俺の「完璧」には演技を観るお客さんが含まれている。けれど、夢の中の客席はからっぽだった。がらんどうを相手に演技しても意味がない──……そっと目をひらくと、左手の客席が満席になっていた。視線を舞台へ移す。黒いもやは遠くで、攻撃的な口調でつぶやいていた。


 ──ファンだったのに、ひどい、どうして、主演変えたほうがいいんじゃないか、最近落ち目だし──……。


 本当に、あの黒いもやには近づきたくない。生理的に無理だと感じるのは、おそらくあれが俺自身の恐怖心だからだ。ファンへのトラウマや舞台への不安、自らの実力への疑念、そういったマイナスの感情が、黒いもやとなり夢に出ているのかもしれない。つまり俺は、自分の役に入りきれていない。本当に役に入っていれば、不安なんて感じないはずだからだ。俺は役に集中しようとした。演じるのは恨みを晴らす復讐者だ。俺が感じるのは恐れではなく、爆発寸前の怒りでなければならない。すべてを捨てる覚悟と、相手を殺すという決意が必要になる。心で繰り返し唱えてみる──怒りで満たされている。憤怒に身を燃やし、世界を端から端まで憎んでいる。恐れるものは何もない。あるのは、強烈な殺意と破壊欲のみ──舞台の上から、黒いもやがすっと消えていった。一、二体はうろついているが、かなり遠い場所にいる。

 息を吸い、俺は駆けだした。呼吸すら怒りで燃えるようだった。ひとり目の敵を斬り、ふたり目をかわした。稽古で染みついた動きが自然と出ている。踏む一歩の重さに憎しみがこもる。足音がダン、と腹奥を揺らした。短く呼気を吐き、低い姿勢で知らず笑んでいた。全身が爆発するようだ。叫び出したいほどのエネルギーで満たされ、耳や頬が熱い。憎しみが臓腑ぞうふを内から炙っている。熱が、肌から外へ発散されるようだ。七、八人目。倒した敵の数を数えた。軽やかに獲物をふるい、九人目の敵までくる。慌てて身を引いた。稽古の動きと違っている。相手がアドリブを入れたのだ。崩れそうになる体をすんでで保ち、歯を食いしばる。腹底から湧き上がる怒りのまま、低く足払いをかけた。敵が派手に転ぶ音がしたが、見向きもしない。十五人目を倒し、階段をいっきに駆け上がる。この先に奴がいる。俺が殺すべき相手がいる。皮膚という皮膚が熱くなってくる。視界が真っ赤に染まり、階段が点滅した。握る大鉈が熱を発しているようだ。──あいつを殺す。殺す、殺す、殺す殺す──! 雄たけびに似た声が体の底から出た。怒りに呼応し、空気がビリビリ震える。レオは悠然と俺を待っていた。向けられた刃の切っ先が、ライトの光で攻撃的に映る。その豪胆な佇まいと余裕の笑み。思わず足がすくみそうになるが、柔らかなレオの笑みを思い出した。


 ──敵じゃないんですから。 


 どうして今、そんな言葉を思い出すのか。役への集中が解けたかと思ったが、そんなことはなかった。本来の俺は斜め後ろにいて、邪魔にならない程度にステージを俯瞰している。心にはまだ怒りと憎しみがあった。レオの動きはよく見えた。一、二、三刃。速いがぴったりと息が合う。レオは舞台の成功を願っていた。俺と同じだ。こいつは敵じゃない。今は同じ舞台を作り上げる仲間なのだ。レオは予定にない動きを入れてきた。こいつもアドリブか。傲慢な笑みは俺の嫌いなテレビ画面のレオを連想させた。煽られたようで自然と怒りがわく。役で作り上げた憎しみが体中で再燃し、殺意が頂点に達した。視界がカッと赤く染まる。憎しみのまま、俺はレオを刺しつらぬいた。びしゃりと、返り血が丸く飛んでくる。もたれるようにしてレオが倒れてくる。荒い呼吸で足元の死体を見下ろした。視界は酸欠で薄暗く、体の感覚がない。自分が今、両の足で立っているのかもわからない。顎にたれた汗を拭い、足元を見る。レオが死んでいた。当然だ、俺が殺したのだから。広げた指に、ぬるつく赤が入りこんでいる。殺した? 俺がレオを。本当に……?


 轟音が耳を打った。振り返ると、客席は総立ちになっていた。茫然としている間に、幕が下りていった。下りていく幕の動きですら一瞬に思える。


「行かないと! ほらっ」


 いつの間にか立ち上がったレオに手を引かれ、階段を降りていく。再び開いた幕の前に、俺はレオと並び立つ。真っ白な光が浴びせられている。鳴りやまぬ拍手と観客の笑みが、空気を輝きで満たしていた。肩を組んできたレオは目を潤ませていた。


「やりましたね! 俺たちやっと……!」


 ステージライトを見上げると、二階席の奥まで人でびっしりだった。今の今まで、夢のなかにいたはずなのに、これは──? すると突然、脳裏に公演初日までの記憶がよみがえってきた。稽古に明け暮れた日々のこと。レオと打ち解け、各段に演技がよくなったこと。なんとか見られる形に仕上げたラストシーン。そして今日、公演の初日で──これは夢じゃない。いつの間にか現実に変わっている。白いスポットライトの近くで、神の遣いの子供が宙に浮いていた。ひとつ大きなあくびをし、その姿は空気に音もなく溶けていった。

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