9. 羊水のなか

 ユエはうつくしい少女だった。

 白く透きとおる頬は涙に濡れ、鼻がしらと瞼が腫れていても、そのうす紅ですら彼女の美を彩っている。


「まだ泣いてるの?」


 焔炎ファンは、真横からそっと囁くように声をかけた。

 彼女のすぐ近くにいるので、大声を出せば驚かせてしまうと思ったのだ。

 月は鼻をすすり、涙に濡れた黒瞳だけをこちらへ向けた。

 部屋の窓から入る星明かりに彼女のすべてが輝いて見える。

 長い黒髪がひと房こぼれ、磨きぬかれたようにつやめいていた。


「私たち、間違ってるって」

「うん。そう言われた」

「産まれないほうが良かったって」

「どうかな。それは父上の意見だろ?」


 月は涙をのみ、ほぼしゃくりあげていた。嗚咽を殺そうとして、彼女が痙攣のように肺を震わせるとこちらも息苦しくなってくる。僕らに肺はひとつしかない。


「落ちつきなよ。僕まで苦しくなってくる」

「ごめ、ごめんなさい。止まらな、くて……」

「大丈夫。君を責めてるわけじゃない」


 隣にいる月を抱きしめようと、僕は右腕を左へ伸ばした。

 左腕は月と共有のものなので、僕らのちょうど真ん中にある。抱きしめるのに邪魔だった。僕らの身体は繋がっているのだ。


「僕らはひとつの身体で、一緒に産まれた。こんな見た目だし、誰に嫌われてもしかたないよ。でも悪いのは、ぜったいに君じゃない」


 僕と月は、胸から下の全身を共有して産まれてきた、いわゆる双頭児だ。

 ひとりの人間に頭がふたつ、手は三本、足が二本。

 右にいる頭が僕で、左の頭が月だ。互いの真ん中にある肩と胸は完璧にくっついている。真ん中の手だけは共有で動かせるので、時々使いどころに悩む。両方が使おうとして譲り合ったり、喧嘩になったりもする。とにかくそうしてひとつの身体をふたりで扱ってきた。医者に十歳まで生きられないと言われたけど、僕らはくだされた余命をこえ十二歳にまでなった。そうして父上に疎まれ、ついにこの部屋に閉じこめられたのだ。

(もう一週間になる)

 この部屋に閉じこめられてから、月はずっと泣きどおしだった。これまでもけしていいとは言えなかった父の当たりがとみにきつくなり、彼女は傷ついている。

 けれど僕は逆にすっきりとしていた。これで父上の蔑むような目を見なくて済むし、誰の顔色も窺わずに月といられる。幸い家にはありあまるほどの富があり、僕らは唯一の後継者なのでまだ殺されることはないはずだ。逃げる算段を整える猶予くらいはあるだろう。


焔炎ファン、ごめんね。私が焔炎に寄生しなければ、私さえいなければ」

「だから、違うって。いつも言ってるだろ? これはどう見ても月の身体だよ。胸だってある、足だってほら細い――女の子の身体だ。だから悪いとすれば君じゃなく、僕のほう」

「ちがうよ! 焔炎は悪くない」

「止めよう、この話は。いつも終わらないじゃないか。僕、酸欠になってきた」


 うしろへ無理やり体を倒すと、座っていたベッドがやわらかく衝撃を受け止めた。

 一緒に倒れこんだ月は隣で天井を見て、懸命に息を整えている。

 そっと右腕で前髪をよけてやると、暗がりのなかで濡れた黒瞳がこちらを見た。

(ひとつの身体にふたりの頭の、僕と月。けれど体は月のものだから、寄生して産まれてきたのはきっと僕のほうだ)

 けれどそれを悪いと、彼女のように罪悪感をおぼえたことはない。ただ彼女を苦しめる周囲を、僕らを取り巻く大人たちが悪いとは思っている。


 ****


 物心ついた時、僕の隣には月がいた。

 顔を左へ向ければすぐに話せ、一緒に遊ぶこともできる。

 僕らの母は出産に際して死に、父は冷たく蔑むばかり。だから僕にとっては月が唯一の家族だ。

 大きくなって歩けるようになり、言葉や世界を理解していくと、父上や周囲のあたりはきつくなった。『なぜ産まれてきたのか』『化物』と、しだいにはっきり口にするようになり、それに多く傷ついてきたのは月のほうだ。


「仕方ないよ、こんな身体なんだから」


 そのたびに僕は彼女を慰めた。月はいつも瞳を溶かすほどに泣きはらし、悲しみに体を震わせた。横でそれをずっと見てきた僕はそのたびに大人を憎しんだ。

 ――なぜ産まれてきたのか、そんなの僕らのせいじゃない。こんな姿になったのだって、きっと神さまのせいだ。そうだろ?

 医者は元々、双子だと言っていた。それがどういうわけか胎内で別れられず、体を共有して産まれてきたのだと。『双頭の化物』、それが僕らに与えられた呼び名だった。医者も周りの人たちも、僕らをどうすることもできずに存在を見ないようにしていた。僕と月が息をするのを見たくないとでもいう風に、異形の体の存在を隠すよう、ついに僕らを塔の上のうす暗い部屋に閉じこめた。


「なにしてるの?」

 ようやく部屋にもなじんできた八日目の昼、窓の外を眺めていると月がふと僕に聞く。

「外を見てるんだよ」

「それって楽しい?」

 部屋に唯一ある格子窓からは外の田園がよく見える。

 僕は先ほどから、唯一自由になる右手の指を風景へ向け、おおよその距離を測っていた。指の長さと自らの身長、歩幅と比せば大体の方角やこの塔の高さ、距離感がつかめる。

「楽しいとか、そういうんじゃないよ」

 逃げるための算段をつけているのだ。僕は月ほどおっとりしてないし、彼女ほど甘い考えも持たない。いずれ近いうち、ここから逃げる必要があるから、その機会と情報を探しているだけだ。

「ふぅん」

 月は机に向かって先ほどから白い紙を折っていた。僕の左手も使われているので、いま僕が自由に扱えるのは右手だけだ。不便は感じないが、彼女が何をしているのかは気になった。

「君こそなにしてるの」

 月が複雑に畳んだ紙を膨らませると、球体に近い折り紙ができあがった。ひし形の面が三十個で構成された球体だ。

「この折り紙じゃ、ここまでが限界みたい」

「器用だね。ひし形が黄金比になってる」

「アルキメデス双対ね。ほんとは二十面にしたかったのに」

 僕はつい笑ってしまった。二十面なら一面は五角形だし、ひし形とは似ても似つかない。どうやって一枚の紙からそんなものを作れたのかもわからない。

 月は手のひらに小さな球体をのせ睨みつけているが、僕はすぐに窓の外へと興味をうつした。球体を折るくらいなら紙飛行機の作り方でも研究したほうがまだましだ。

 


 塔の部屋に閉じこめられて二週間が過ぎたころ、父上が夜に頻繁に来るようになった。

 最初は期待に顔を輝かせた月も、しだいに夜、父上がくると震えるようになった。

 父上はただ無言で僕らを叩いた。

 ある日は鞭で、運が悪ければ棒のときもある。

 僕は震える月をかばい父上に抵抗しようとして、いつも敵わず倒されてしまう。

 僕が自由に扱えるのは右腕だけで、左手はたいてい月がパニックになって彼女の耳を塞ぐのに使われている。踏ん張ろうとする足は細く頼りない、隣にいる月が身を屈め縮こまろうとするので、いつもバランスが崩れてしまう。

 はじめこそ抵抗していた僕も、しだいに抵抗するほうがひどい仕打ちを受けると理解した。ただ殴らせてやればいい。露骨に反抗すればまた殴られるので、できる限り自然に見えるように右腕と肩で向きを変え、月の頭部をかばうようにした。致命傷をさけ、弱っているふりをすればいいのだ。

(本当に大切なのは、その後の処置のほうだ)

 痛みも腫れも父上が去ってからやってくる。

 逃げる算段も、殺す算段も父上がいないときにやることだ。

 だから殴られている間はむしろなにも考えなくていい。なにも――ただ自分にかばわれ泣く月のことだけが、いつも心配だった。

 父上が部屋から出て行くと、きまって誰かが傷を手当てしにくる。

 その日来たのは、僕らと同じ歳くらいの少年だった。

 彼は僕らの顔を見ないようにして器用に傷薬を塗り、湿布をはっていく。

 より多く叩かれたのは僕の側だったので、僕の顔や腕の手当てをしながら、けれど彼の瞳は時おり気にするように、月の方を見た。

 月の顔形は綺麗だ。本人は憔悴して視線にも気づかないが、僕はすこしだけ腹立たしかった。

(月は僕だけのものなのに)

「なに見てるの?」

 腹立たし気な僕の声に、少年は慌てて下を向く。僕らが双頭であることをようやく思い出したらしい。僕が口を開くより、けれど月が言葉を発するほうが早い。

「たすけて」

 月はじっと泣きはらした瞳で少年を見ていた。黒瞳から涙がひと筋つたい、縋るような表情は誰しもを絆してしまうだろう。けれど少年は弱々しく首を振る。

「無理です。私には」

 その答えに月はひどく落胆したようだったが、僕は当然だと思った。身なりから彼が身分の低い下働きだとわかる。そんな彼が、言いつけを破り僕らを逃がせば、父上にどんな仕打ちを受けるかわからない。最悪の場合、殺されてしまうだろう。

 誰しも自分の命が一番で、だからこそ彼に助けを求めるなんて無茶だ。けれど、と僕は考える。目の前の少年は罪悪感でいっぱいといった顔で隣の月を窺うように見ている。

「なら、本を持ってきてくれないか?」

 僕の声に、怪訝と彼は顔を上げた。

 僕はうすく笑い、かんで含めるように言った。

「気晴らしに、月が読む本を持ってきてほしい。それくらいならいいだろ?」

 月のために。そう付け加えればしっかりと少年は頷く。

 茫然としている月の顔を最後にもう一度見て、力強い足取りで部屋を出て行った。

「何する気?」

 彼が消えてから月が不安そうに僕を横目に見た。

「べつになにも。君の気が晴れればと思って」

「嘘。それくらい、私にもわかる。彼に何を持ってこさせる気?」

 月は賢い。賢すぎるくらいだ。僕がなんのために「本を持ってこい」なんて言ったのか、その意図を完璧に理解している。

(人は一度禁を破ると、その先へ進みやすくなる)

 純粋で愚かなものほど使いよい、僕はそれを本能的に理解していた。

 最初は本。無害なものから運ばせて、同情を誘い色々な物を用意させる。一度ここへ足を運べた彼なら、これからも会う機会があるだろう。僕はうっすら微笑みながら、なんでもないことのように言った。

「そうだな。色鉛筆と画用紙なんてどう? 君の好きなお絵かきができる」

「……色鉛筆なら、鉛筆削りがいるわ」

「刃物は持ってこないさ。それくらい彼だって心得てる」

(残念ながらね)

 月は警戒するようにこちらを横目で窺っていた。僕が誰かを傷つけるのではと恐れているのだ。月は優しい。だから彼女にはわからない。きっと僕の心の奥底は暗すぎて、彼女にはとうてい汲みとれない。

(人を傷つけるだけなら、色鉛筆だけで十分だ)

 問題は確実性と段取り、機会のほうだった。もっと実践的な武器があればよりすばらしい。頭の中で実際的な算段をたてながら、僕は脱出手段について考えを巡らせる。新しく現れたあの少年をどう使うか、なにをいつ持ってこさせるか。この部屋の鍵の持ち主や塔の位置、抜け出してから後のこと――手段の幅が広がり、ずいぶんと晴れやかな気分になっている。駒を進める時が来たのだ。


 *****


 ――この部屋に閉じこめられ、ひと月がたつ。

 窓辺で格子窓の外を観察している焔炎ファンを、ユエは左からいつもこっそりと窺っている。

 体を共有する焔炎は、悲しんだりめげたりする気配がすこしもない。その顔はいつも希望に満ち、未来を見据え笑っている。泣きどおしだった自分とは反対で、焔炎はいつだって実利的なことを考えている。

(いったい何を見てるのかしら?)

 くっきりと太い眉、燃えるように赤い短髪。焔炎は性格どおりに凛々しい顔立ちだ。身体がこんな形で繋がっていなければ、きっとすらりとした少年の姿で、立派な領地の跡取りとして成長しただろう。けれど肩から下が自分とくっつき『双頭の化け物』として産まれてきたがために――。ため息をつくのをこらえていると、チチチ、と焔炎が外に向かって小さく鳥の鳴きまねをし出した。


「どうしたの?」


 焔炎はしぃ、と流し目で笑んでから格子窓の外へ右手を差し出した。

 鳥の鳴き声を繰り返すうち、青空から黄色い小鳥が一羽飛んできて焔炎の手へ静かに、なめらかに着地した。

 驚いて見ていると、焔炎は小鳥の片足に結ばれていた紙を取った。左手だけで器用に中身を読み、用意してあったのだろう餌を小鳥に与えると、また軽やかに空へ飛び立っていく。一連のやり取りを唖然と見ていると、手紙をたたむ焔炎が笑った。


「誰とやり取りしてるか、気になる?」

「それは、そうだけど」

(いつから?)


 あの小鳥への慣れた扱いは昨日今日で習得したものではないだろう。小鳥は西の方角へと去った。あちらには同盟諸国と、敵対国の両方がある。

「僕には友達が多いんだ。家の意向に関わらず、いろんな友を作っておくのはいいことだよ」

「大丈夫なの?」

 焔炎は片眉を上げてみせる。彼なりの「呆れた」という表情だ。

「僕に何ができるっていうのさ。それに、君のやってることに比べればまだ安全だよ」

「え?」

「それ」

 焔炎が顎でしゃくったのは、自分がずっと作業していたスケッチブックだ。びっしりと小さな式で埋めつくされた紙を、焔炎は目を細め見ている。

「そんなもの作ってさ。人類を滅ぼすつもり?」

「まさか」

 手すさびに計算をして遊んでいただけだ。空間を構成する素粒子パーティクル、それを使いすべての仕組みを変えられるかどうかを――延々と続く計算式は時を埋めるのにちょうどいい、机上の空論でしかない。

 焔炎は「ふうん」と唸って言う。


「その式を使えば、大爆発がつくれるね」

「そんな奇特な人いないよ。非効率だし」

「月。君が思っているよりずっと、みんな愚かで感情的だよ。いい加減にそのことを認めたほうがいい。とにかく、それはすぐに燃やしてしまったほうがいいね」


 貸して、と差し出された手に仕方なく紙を渡した。処分するのにためらいはないが、そこまで入念に消さなければいけないとも思えない。どうするのかと見ていたら、焔炎は右手の袖口からマッチ箱を取り出した。いつの間にそんなものを取り寄せたのだろう。

(彼に持ってこさせたんだわ)

 この部屋へ薬や食事を運んでくる少年だ。一度本を持ってきてから、彼は頻繁にこの部屋を訪れている。どうやら自分たちの食事係として任命されたらしい少年は、同情的でいつも優しく接してくれる。スケッチブックに色鉛筆、清潔なタオルにお湯、いい匂いのするポプリまで、焔炎は思うがままに彼をこき使った。刃物や火気を持ってこいとは言っていなかったし、さすがに気づけば止めたのに。

(ああ、だから)

 こちらの視線に気づいた焔炎は、決まり悪げにそっぽを向いている。

「本を使ったのね。私に気づかれないように」

 部屋に運ばれてきた本を焔炎は何度か読んでいた。次の本が運ばれてくる際に、そこに何かを記し少年に返したのだろう。

(迂闊だった。すぐ隣にいたのに)

 どうも自分はひとつのことに没頭すると、周りが見えなくなる。手の届く距離で焔炎は自分に隠れ、あの少年とやり取りしていたのだ。


「べつに、悪いことはしてないよ」

「じゃあなんで私に隠れてこっそり?」

「ほら。そうやって嫌そうな顔をするから」


 焔炎は他人のことをどうでもいいと思っている節がある。

 たとえばあの少年が父上の言いつけを破り、それで罰を受けてもなんとも思わないだろう。

(けれど私は違う。誰かが傷つくのは嫌だ)

 焔炎にそのことで強く怒れないのは、彼が自分を守るためにそうしていると分かるからだ。焔炎は自分にはとても優しい。それは身を分けた双頭の半身であるせいだろう、自分を唯一の家族だと認めてくれている。

(産まれたときから隣にいて、食べるのも眠るのもずっと一緒だった)

 横を向けば片割れの顔があり、同じ片腕を共有し、生きる時も死ぬ日も一緒なのだ。周りは『化け物』と蔑むが、月は焔炎がいてくれて本当によかったと思っている。自分ひとりではこの世を生きのびられなかったかもしれない。だから焔炎の体に寄生し産まれてきたのは、きっと自分のほうなのだ。それについてはどうしようもないほどの罪悪感がある。

「月」

 強い口調で呼ばれ、はっとすると焔炎はドアを見ていた。その表情は険しい。

「噂をすれば、彼が来たよ」

 月にも焔炎が警戒する理由がわかった。あの少年はいつも決められた時間にやってくる。朝のこんな早い時間に来るのはおかしい。


 ****


 勢い荒く部屋の鍵が開けられ、やって来た少年は息をきらしていた。汗だくでしばらく動けないでいるのを、焔炎は何事かと見やる。

(こんな時間に来るなんて)

 外で何か起きたとしか、焔炎には思えない。隣の月が窓際から体を動かしたので、焔炎も一緒に少年の元へ向かう。月を窺うと、ずいぶんと心配そうな顔をしていた。

 そのことにまたひどく腹が立ったが、焔炎は黙って成りゆきをみていた。


「どうしたの?」

 月の問いに少年は息を吸い、震え言う。

「逃げてください。領地が焼かれています」

「どういうこと? 誰に」

「戦火が迫ってるんです。じきにここも落とされる」


 月が弱り切った瞳でこちらを見てきた。彼女は外の世界についてあまり知らない。焔炎は答えとして首を振った。

「僕らは、まだここにいる」

 少年はびっくりと目を丸くしたが、焔炎にとっては自明のことだ。

(いま外へ出ても逃げきれない。敵に捕まるか、父上の隊に捕まるだけだ)

「ここで死ぬって言うんですか?」

 少年は青ざめ唇を震わせた。彼が見ていたのは、答えた僕の顔でなく隣の月の顔だった。

「心配には及ばないさ。ここで死のうなんて思ってない。ただ僕らが外へ出るのは今じゃないんだよ」

 困惑する相手に、むしろ僕は親切心から聞いてやる。

「君はどうする。戦場で死ぬか、それともいますぐ逃げる?」

「私は、……私は、戦います」

 月を守るために。そう彼の顔に書いてあり、僕は心底おかしくなった。

「ありがとう。頑張って」

「やめて! そんなことしなくていい」

 月が隣で悲痛に叫んでいた。少年は月を見て静かに屈むと、彼女の片腕に手を伸ばした。

(月に触るな)

 反射的に体を引こうとしたのを、僕はけれど思いとどまった。少年の手に握られている小ぶりのナイフ。彼はその柄を月に握らせようとしている。

「これを、持っていてください」

 月は怯えて身を引いた。

「いらない。必要ない」

「いずれ必要になります」

 床をじっと見つめる月から視線を外し、少年は僕の顔を見る。月でなく僕のほうへあらためて差し出されたナイフを、僕はしっかりと受け取った。

「ありがとう」

 心の底からの謝辞に少年は頷き、名残おしげに月を見て外へ出て行く。鍵をしっかりとかけていったのは僕らの身の安全を考えてのことだろう。事態は切迫している。

「どうして」

 月は閉まった扉を見て悲しんでいた。あの少年が遠からず死ぬとわかったのだ。

(なんの訓練もしてない子どもが戦場へ出ても死ぬだけだ。だから)

「月。次にこのドアが開いたら、目を閉じてじっとしていて」

「どうするつもり。それを使うの?」

「使わなくて済むようにしたい。大丈夫、心配しないで」

 月は僕の右手にある小ぶりのナイフを怯えた目で見ていた。そっと鞘を外してみると、抜き身の鋭い刃が銀色に輝いてみえる。

(これを使うのは相手に近接した時か、とどめをさす時になるだろう)

 大丈夫なはずだ。きっとこれまで進めてきた駒たちが、うまく立ち回ってくれるはず――……。

「君さえ協力してくれれば、誰も殺さなくてすむ」

 繋がったひとつの僕らの体、その真ん中で揺れる共有の腕を、僕は右手でそっと掴んだ。月は涙を浮かべた黒い瞳で、怯えながら頷いてくれた。彼女は僕を信じてくれている。


 ****


 敵の東の領地を攻め落としたと一報を受けたハノゥバは、急ぎ屋敷へ馬を走らせた。

 のどかな田園風景は煙にまかれ死体が転がり、部下たちが疲れた顔でこちらを見ては敬礼してくる。

 ハノゥバは、それに見向きもせずに全速力で馬を駆る。やがて自国の軍団と炎に包まれた屋敷が見えてくる。

 馬を止めると、すぐに見知った顔がやってきた。自分より年上の、この一群を任された将軍だ。皺のよる顔を苦々しく歪め、馬から降りた自分のほうへ近づいてくる。苦言が飛んでくる前にハノゥバは素早く聞いた。


「どうなってる?」

「領主は自害、領民の大半は抵抗したので殺しました」

「屋敷の者は」

「逃げたか、兵に殺されたか。ああ、鐘楼の塔に例の『双頭の化け物』がいるとかで。まだ誰も近寄ってません……どちらへ?」


 ハノゥバは苛々と足を速め、炎の隙間をぬい燃え盛る本館の前を通り過ぎた。

 馬小屋、電気小屋、庭園などはいずれも炎と煙につつまれている。目指すは尖塔、鐘楼のある石造りの建物だ。後ろへしつこくついてくる将軍が絞り出すように言った。


「なぜこちらへ? 僻地攻めに関心がおありだとは思いませんでしたな」

「誰の指示でこうなった。私は許可してないぞ」

「失礼ながら、あなたの許可など必要ありません」


 ハノゥバはカッとなり、足を止め勢いよく振り返った。こちらの剣膜に身構える将軍に、けれど息を吸い気持ちを落ちつけた。


「将軍。中央の私に前線の采配は任されている。今からは私の指示に従いなさい」

「しかし、……」

「あなたは過ちを犯した。それも大きな、国策に関わる失態だ」


 もの言いたげな将軍はそれでも口を閉ざした。自分の行いが何を引き起こすか、その巨大な影にようやく気づいたようだ。

 火を消すように言いおき、ハノゥバはひとり塔の中へ入る。

 狭いらせん階段を上がると、すぐ件の扉は見つかった。

 ノックしても開かない――鍵がこちら側から閉じている。

 しかたなく腰から銃を取り出し、一発撃って鍵を壊した。質素なつくりの鍵は吹き飛び、扉が内側へとひとりでに開いていく。

 暗闇に見えたのは、格子窓から入る外の火明かりだった。

 部屋は暗い。

 窓際に黒髪の誰かが、こちらに背を向け座っていた。

 ハノゥバは静かに息を吸い、一歩を中へと踏み出した――その足が、なにかに絡まった。

 バランスを崩し前へ倒れ、体勢を立て直そうと両腕を突き出したその瞬間に、ハノゥバは人影を見る。

 扉のすぐ脇、壁ぞいに息をひそめて子どもが立っている。

 大きな青い瞳、その両手に細い縄が握られている――そうか、倒れたのはこの子どもが足元に細工をしていたのだ。

 窓際の人影は、布で出来たまがい物だ。

 そう理解したときにはもう、背後から首を絞められている。

 ただ締めているのではない、的確に斜め上方向に圧をかけ、数秒で人の意識を失わせるやり方だ。

「て、きじゃ、ない」

 絞り出せたのは、そのひと言だけだった。すぐに目前が暗くなる。

 子どもはなぜか手をゆるめた。遠巻きにこちらから離れ、咳き込む様子をじっと観察している。

 ハノゥバはなんとか起き上がって、懐から書状を取り出した。子どものほうへそれをゆるやかに投げた。

「読んで。私はあなたを迎えに、助けに来た、……ハノゥバです」

 書状はハノゥバの上司の直筆だ。

 子どもは白く細い指でそれを取り、さっと一瞥して首を傾けた。静かに発された声は甲高い。

「すまなかった。誰が来るのか、わからなかったんだ」

 ハノゥバは立ち上がり、子どもの様子をまじまじと見る。少女――いや、少年だ。

 歳は十二、三。肩までの金髪に白い肌、蒼い瞳。容貌はおそろしいくらいに愛らしい、聞いていたとおりの出で立ちだ。

(彼が『双頭の化け物』か……?)

 頭がふたつあるわけでもない、一見して普通の子どもだった。なぜそんな通り名がつくのか分からない。ただハノゥバは彼を助けるように命じられここへ来た。丁重に、国賓のように扱えと言われている。

「ご案内します。どうぞ」

 片手を差し出すと、彼は平然とその手をとった。怯えた様子もない。

 ただ数歩進んだ時、その足がもつれたように大きくよろけた。ゆっくりとまた歩きだそうとするが、どうも左に体が傾いてしまうようだ。

「うまく歩けないや。月が目を閉じてるから」

「? よろしければ、私がお運びしましょう」

「頼むよ」

 背負ってみると少年の体はひどく軽い。

 服からむき出しの腕や足に殴られたあざが見え、ハノゥバは件の噂を思い出していた。

 ――領主は、最愛の妻が死ぬ契機となった自らの子を忌み『双頭の化け物』として塔へ閉じこめた。

 なぜ双頭なのかはわからない。

 けれど噂とはたいてい眉唾で、真実はその一部ということはままある。

 馬の背に少年を乗せ、自ら着ていた外套で彼を隠すように包んでやった。

「ありがとう」

 こちらを振り返った少年は、驚くほど可憐に微笑んでみせた。

 自分も馬に乗ろうとしていたハノゥバは驚いて見惚れてしまった。棒立ちになっていると、少年の目に険が戻り不機嫌な顔になる。

「早く行こう。寒いんだ」

「あ、……はい」

 ハノゥバは馬を走らせる。自分の前に乗る細身の少年のぬくもりが、なぜか急にもっとも大切な、守るべきものに思えてくる。それは任務とは別に特別な意味をもち始めている。けれどそのことに気づいているのは、件の少年だけだった。

 外套の隙間からのぞく少年の左目は周囲を楽しげに見て、右目はハノゥバの手を冷たく観察している。

 左にいる月が、はじめて見る景色に嬉々として笑っている。

 その右にいる焔炎は、ハノゥバが月に特別な興味を抱き始めたことを知り、苛つきながらもその利用方法を考えていた。

「あの。名前はなんとお呼びすれば?」

 馬を並足にしたハノゥバから静かに問われ、少年は弱り切ったように一瞬だけ困惑し、なぜか右側を見た。それから別人のように悠然と笑った。

「なんとでも」


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