2. あなたのことが嫌いです

 嫌い、嫌い、大嫌い。

 それがベアトリーチェの口癖であり、彼女に出会う者がまず耳にすることになる『挨拶』だ。

 ベアトリーチェは誰とも仲良くしようとせず、万事が万人にそういった態度の少女だった。当然、みんなから疎まれている。

 ブルネットの髪をくりとはねさせて、青く澄んだ瞳を勢いよく見開き、今日もすれ違った人にぶつかっては叫ぶ。

「あんたなんか、大っ嫌い!」

 彼女にとって不幸だったのは、その日それを受けたのがニールセンだったことだ。

 ニールセン・ヨハネ。

 我がグレイセン寄宿舎学校で「聖人君子」と名高い男、俺の親友。

 その横を奴と連れ立ち歩いていた俺は、人徳あるニールセンがどう反応するものか、ちらりと様子を窺った。

 ベアトリーチェの癇癪かんしゃくを受けた者はたいてい彼女を無視するか、不愉快そうに顔を顰めるだけだ。けれど優しすぎるこの友はその言葉を真に受けて傷つくかもしれない。

 俺のそんな心配の芽は、当のニールセンによりブルドーザーのごとき勢いでかき消された。

「ありがとう、嬉しいよ……!」

 奴は笑っていた。

 金髪碧眼、天使のような顔つきで心底うれしいと頬を染め、自分を嫌いだと言ったベアトリーチェへ笑いかけている。

 俺はその横で愕然としたが、もっと驚いたのは彼女の方だったろう。唖然とした顔で何か言いかけ、それを悔しそうに飲み込むと、猫が後ろ脚で砂をかけるようにして逃げていく。

「彼女、どうしたのかな。急用?」

 ニールセンは首を傾げていた。俺は真横で呆れていた。




 我らがイギリス、グレイセン寄宿舎学校には秋が来ていた。

 中庭の広葉樹は外套を着替えるように葉の色を緑から黄に変え、足元には脱ぎ捨てられた枯葉が積もっている。俺はそんな中庭の美しい景観を教室の窓から眺めながら、ニールセンをたしなめていた。

「お前はおかしい」

「そう?」

 俺の前の席で振り返ってきたニールセンは不思議そうな顔をした。窓から差し込む夕陽がきらきらと、奴の髪を金色に光らせている。

「あれは酷いぞ。いくらなんでも、あの子が可哀想だ」

「どうして可哀想?」

「どうして、って……」

 俺は言葉に詰まってしまった。ニールセンはきょとんとした顔だ。そう、こいつに悪気はないのだ。

 良家の長男として生まれたニールセンは、恵まれた環境で育ち皆から愛されている。その美しい顔立ちに優れた知性、何もかもを持ち得たのに特にグレることもなく、素直でとても良い奴だ。時々、度が過ぎるほどの優しさを発揮するニールセンは、この寄宿舎学校随一の人気者でもある。ついたあだ名が「聖人君子」。皆から愛されるこいつの姿を見ていると、俺は時々舌打ちしたくなる。行き過ぎたノブレスオブリッジぶりに、お前は聖職者になるつもりかと問いただしたこともあったくらいだ。

「ねぇ、僕はあの子に何かしたかい? 何が酷いんだよ」

 眉を八の字にしたニールセンに俺は内心で辟易した。できるだけ優しい口調になるよう、努めて言葉を選んだ。

「あのな、お前に悪気がないのは分かる。だが、普通に考えてみろ。『嫌い』と言って『ありがとう』と大喜びされたら、あんまり良い気持ちがしねぇだろ?」

 少し考えれば、いや考えなくても分かることだ。

 自分が嫌いだと言った相手が喜んだら、それはもう相手が自分を嫌っているということではないか。

「えぇ? あっ……あぁ、そうか」

 なるほど、と頷く奴の目は真剣だ。そう、こいつは人の害意というものに無縁なあまり、そういった物事にひどく鈍感なのだ。

 ニールセンに悪気がないのは分かっている。人を傷つけようと思うような奴ではない。でもそれならどうしてあんな風に「ありがとう」なんて言ったのか。

 俺がそう聞くと、奴は天使の微笑みを浮かべた。

「僕、うれしくて。だって『嫌い』って言われただろう」

「はぁ? お前、そこは……喜ぶとこじゃないだろ」

「そうだけどさ。僕、『嫌い』って言われたのが初めてなんだ」

 俺は開いた口が塞がらなくなった。

「はじめて? いや、だからってそれ、嬉しいか?」

「とっても。新鮮だよね」

 ニールセンの笑みは夢見るように潤んでいる。

 俺は時々、こいつが全部を分かっていて演じているのではないかと疑ってしまう。

 それほどまでにニールセンの純粋さは人の暗い面を浮き彫りにするのだ。

「おい、ニール。お前……『嫌い』の意味わかってる?」

 俺はそうひと言突っ込むのが精いっぱいだった。呆れを越えて頭痛を覚え、友のまばゆい笑みを避けるように眉間をもんだ。




 ベアトリーチェにとって不幸だったのは、ニールセンに「嫌いだ」と言ってしまったことだろう。普通なら負の意味をもつそれを、ニールセンはことのほか喜んだ。確かに俺が思い返してみても、誰かがそんな罵り言葉をニールセンに言っているのを見たことがない。奴と同じ教室にいる親友の俺が言うのだ、間違いない。

 晴天の美しい昼時に、図書館で本を読む俺はニールセンから質問攻めにされていた。

「それで、あのベアトリーチェは隣のクラスなんだよね」

「ああ……お前、そんなことも知らなかったのか?」

 読んでいた本から思わず視線を上げると、ニールセンは戸惑っている。

「君は、知っていたっていうの? 確かに美人だけどさ」

「そういうことじゃねぇ」

 我が友人はつくづく世事に疎い。

 ベアトリーチェはこの寄宿舎学校で、知らぬ者のいない有名人なのだ。

 理由は彼女のあの口の悪さにある。人と見れば会話する間もなく「嫌い」と言っては逃げまくる。彼女もニールセンとは反対の意味で名が知れていたが、それをニールセンが知らないというのは、誰もそういった話を持ち掛けないからだろう。かくいう俺だって、誰かの悪口や風評をこいつに伝えたいとは思わない。

 神聖なものの前ではみな悪事を働けないように、ニールセンを前にするとそういったことが後ろ暗く思えてしまうのだ。

「じゃぁどうして君は彼女を知っていたの?」

「――知るか。俺は読書中なんだ」

 俺は先の理由から言葉を濁したのに奴はしつこかった。その澄んだ青い瞳で必死に質問をされると、とても嘘は言えない。本を読むふりをする俺に奴は続けた。

「君が彼女を知っていたのは、彼女が美人だからだろう。なにも僕に隠さなくたって……」

「はぁぁ!? 違う! もういいから、ベアトリーチェの話はなしだ!」

「どうして。彼女の好きな物って何かな?」

「俺が知るか! 本人に聞け!」

 しまった。口が滑ったと思ったが、ニールセンは素直に頷いていた。

「それもそうだね。読書の邪魔をして悪かったよ、ごめんね?」

 ニールセンの行動は素早かった。止める暇もなく立ち上がると、爽やかな笑みを口許にいて図書館を出て行ってしまう。

「……ま、いっか」

 奴が何かしたところで困るのはベアトリーチェだ。もしくは、奴のことが好きな女の子たちくらいだ。少し心配ではあるが、あのニールセンのことだ。悪いようにはならないはずだと俺は放っておくことにした。




 それからの奴はベアトリーチェに猛攻撃をしかけ始めた。

 ベアトリーチェがひとりで歩いているのを見つけては、迷いない足取りで突っ込んでいく。俺は常に奴の横にいるわけではないが、クラスも寄宿舎も同じなのでその奇行を数多く目にすることになった。

 例えばこんな風だ。

 朝、寄宿舎から教室塔までの短い芝生道をベアトリーチェが歩いている。

 すると後ろからそれを見つけたニールセンは、顔を輝かせて走り寄っていった。

「おはよう! ベアトリーチェ、だよね?」

「っ!?」

 彼女は目を剥いた。爽やかな笑顔で話しかけてきたニールセンを、突然に現れた悪魔でも見るみたいに身を竦ませている。

「僕はニールセン・ヨハネっていうんだ。よろしくね」

 君の隣のクラスだよ、と能天気な自己紹介を続ける友に俺の眉間のしわは深くなる。

(その自己紹介も必要ないだろ)

 奴はこの学校の生徒会長なのだ。ニールセンのことを知らない人間など、この学校にいはしない。握手を求めるように差し出された手を見て、ベアトリーチェはきゅっと唇を結びニールセンを睨みつけた。

「あんたなんか、大嫌い!」

「ああ……本当に? すごい。もう一度言ってみてくれるかい?」

 その友人の言い様に俺は度肝を抜かれた。

(おいおいおい!)

 ニールセンは恍惚とした顔でベアトリーチェの片手を勝手に掴んだ。まるでどこかの国の王子が姫に求愛するように、見た目だけなら整っているニールセンとベアトリーチェは、とても似合いのカップルに見える。凍り付くベアトリーチェに、さらにニールセンはのたまった。

「僕は君が好きみたいなんだ。だからもう一度『嫌い』と言ってくれるかい?」

 ベアトリーチェは震えていた。顔を赤から白へと変え、俯きわなないている。さすがにこれはニールセンが悪い、ベアトリーチェが可哀想だった。

「おい、ニール」

 見かねた俺が仲裁に入ろうとしたとき、

「大っ嫌い!!」

 ベアトリーチェがそう大声で叫び、奴の手を振り払い突き飛ばすようにして校舎の方へ駆けて行ってしまう。呆気に取られた様子でよろめくニールセンの肩を、俺は叩いてやった。

「ま、なんだ。お前があいつを好きだったなんて……残念だったよな」

「最高だ」

「は……」

 ニールセンは喜びに打ち震えていた。

 彼女の消えた方角を夢見るように眺めている。

「また言ってもらえた。『嫌い』って」

「お前さ、なんなの?」

 俺は苛々してきた。こいつはいったい何を言っているのだ。

 するとニールセンは、こちらを振り返り力説してきた。

「君も見ただろう!? 彼女の顔――『嫌い』って言う時のあの表情が、かわいい」

 俺は奴への罵倒を頭の中で数個浮かべたが、結局ため息をついただけだった。

(馬鹿なのか?)

 ニールセンの言っていることが常人の俺には理解できない。

 唯一分かったのは、こいつがベアトリーチェに本気で惚れてしまったということだけだ。

(でもそれで『嫌い』と言われて嬉しいか?)

 俺なら嬉しくない。好きな相手には『好き』と返してほしいものだ、分からない。

 大体、奴は「嫌いという時の彼女の表情が好き」と言ったが、それにしたって謎である。ベアトリーチェは「嫌い」としか言わない人間なので、彼女のその他の表情もよく分からないし、そもそもなぜそんな点を好ましく思うのだろう。

 それからもしばらくの間、ニールセンがずっとベアトリーチェを追いかけ回したので、彼女の「嫌い」と言う時の顔を観察する時間が俺にはたっぷりとあった。

 例えば、ランチの時間に中庭のベンチで。

「ベアトリーチェ! 隣のベンチ、座ってもいい?」

「いやだ、嫌いです」

「君のそれ、手製のお弁当かい? 購買は利用しないの?」

「うるさい、嫌いだ!」

「うわぁ! 美味しそうだなぁ! 僕にも少しくれない?」

「黙れ! 嫌いです!」

 少し離れたベンチで様子を見ていた俺は、神妙に頷いた。

(奇跡的に会話になってるな)

 ベアトリーチェは「嫌い」としか言わないと思っていたが、おそらくそれは誰も彼女にこうまでしつこく食い下がらなかったからだろう。こうして見てみると、彼女の語尾が「嫌いです」なだけに思えてくる。

 しかし彼女の顔をつくづくと観察していて、俺は気がついた。ベアトリーチェは「嫌い」と口にするとき、怯えた猫のような顔をするのだ。

(うーん。実家で飼ってるクロに似てるぜ)

 猫が不審な物に尻尾を立てて威嚇するような、そんな表情だ。ベアトリーチェのそういったところをニールセンは気に入ったのだと言う。

(あいつ、猫好きだったか?)

 ぼんやりとサンドウィッチを頬張る俺の足元を、野良のぶち猫が鳴きながら通り過ぎて行った。




 そうして朝から昼にかけて行われたニールセンの猛攻撃は、午後になっても止まなかった。それどころか、次の日もまた次の日も続けられたのだ。そうして一週間が過ぎていく。

「おはよう、ベアトリーチェ! 今日も美しいね」

「……」

「お昼に君のクラスへ行ってもいいかな? 僕も君を真似てお弁当を作ってみたんだけど、一緒に食べよう」

「……」

 このころになると、さすがにベアトリーチェも気がついていた。

 ニールセン相手にいくら「嫌い」と言ったところで、奴は喜ぶだけだと。

 そう察した彼女は、ただひたすらに固い顔で俯き早足で歩いていく。その横を遅れじとニールセンが爽やかに早足で歩いていった。

 もう止めてやったらどうか。

 俺は遠巻きに二人を見ていてそう思った。

 明らかにベアトリーチェは嫌がっている。ニールセンに悪気はなくとも、これでは彼女に嫌がらせをしているようにしか見えない。周囲の学友たちの視線も、初めはニールセンを心配そうに見ていたが、今では彼女の方に同情的になっていた。ニールセンに片想いをしていたと思われる女子たちからの目線が、特に冷たい。

(いい加減に奴の友として、はっきり言ってやるべきか)

 放課後になると、ニールセンはベアトリーチェに会いに隣のクラスへ足を運ぶ。

 毎日飽きもせずにご苦労なことだ。俺はとりあえず、隣のクラスへ鐘の音とともに駆けていった友を追いかけることにした。すると何やら廊下の方から騒がしい声が聞こえてくる。

「なんだぁ?」

 騒ぎの原因はニールセンとベアトリーチェだった。どうやら隣のクラスで二人、言い合っているらしい。それを遠巻きに見物する学生たちで廊下に人だかりができている。

「ちょっと、すまねぇな。どいてくれ」

 俺はその人だかりを片手を上げ避けていった。

 何があったか知らないが、友として奴を止めねばならないだろう。

 教室へ足を踏み入れるとガラスの割れる大きな音がした。窓際に立つベアトリーチェが追い迫って来るニールセンに向かって、手近な花瓶を投げつけたところだった。

「こっち、来ないでってばーっ!」

 ベアトリーチェは蒼白な顔で窓枠を掴んでいる。その向かいでまた一歩と近づいたニールセンは困惑した顔だ。

「どうしてだい、今日は一緒に帰ろうって、約束……」

「してない! あんたが勝手に言ったんでしょー!?」

 教室内で遠巻きに二人を見守っていた者たちは、その場で静かにどよめいていた。

(あのベアトリーチェが、人とまともに会話をしている――!)

 俺はその周囲の動揺を察し頷きつつも、この騒ぎをおさめるにはどうすれば良いかと弱り果てた。

(とりあえずニールセンを止めるか)

「おい、ニール」

「ベアトリーチェ! 僕は君を愛してるんだ!」

 俺は声をのみ込んだ。

 辺りが一瞬にして静まり返った。

 ベアトリーチェはわなないている。誰も何も切り出せない凍てつく空気の中で、ひとりニールセンだけが彼女へ近づいていく。

「だから君の正直な気持ちを、どうか教えてほしい。僕には君の『嫌い』が、別の想いの言葉に聞こえるんだ」

 ベアトリーチェがさっと顔を赤くした。

「わ、私は……」

「ベアトリーチェ。本当に僕のことが『嫌い』かい?」

 ニールセンは伸ばしかけた手を力なくおろした。

 ここからではその顔は背になり見えないが、奴はおそらくいま捨てられた子犬のような目をしているだろう。うなだれたその後ろ姿に哀愁が漂っている。

 ベアトリーチェは何かを言おうとした。

 微かに開いたその口から出てくる言葉がいつもの「嫌い」ではないかと俺は推測したが、その言葉はなぜか飲み込まれ、かわりに悲愴な決意をしたように眉根がぐっと寄せられる。

「あんたに好かれるくらいなら」

「? ベアトリーチェ……」

「死んだ方がマシよーっ!」

「っ!?」

「おいっ!?」

 ベアトリーチェは窓から飛び降りた。止める暇もなく、三階の窓から。

 悲鳴の上がる教室で、ニールセンが呆然と彼女の消えた窓を見ていた。




 結果的に彼女は助かった。

 三階の窓のすぐ下で、背の高い広葉樹の枝に制服が引っかかり、宙吊りにされた猫のようにぶら下がっていた。

 周囲は騒然としてみな青ざめていたが、当のベアトリーチェも紙のように白くなっていた。木の枝に宙吊りにされた状態で地面を見る彼女は、衝動的に自分がしでかしたことを理解して驚いているようだ。

 騒ぎを聞きつけ、彼女を木から救出することになった教師たちも大変だったろうが、教室にいるニールセンも大変なことになっていた。

「ちょっとニールセン! あれは酷いわ!」

「そうよ! あの子をあんなに苛めるなんて!」

 ことの一部始終を見ていた彼女のクラスメイト達が、ニールセンを取り囲み始めたのだ。それまでベアトリーチェに冷たかった者たちも、ここ最近のニールセンと彼女のやり取りを目にして心配していたようだ。ニールセンに悪気がないと分かっているぶん不満を口に出来なかったのが、ここへ来て爆発したようだった。

「あんなに大勢の前で告白するなんて、あの子を追い詰めるだけじゃない!」

「そうだぜ、ニールセン。いくらあのベアトリーチェだからって、あれじゃあな」

 取り囲まれたニールセンは立ち尽くしている。俺は心配になり、その輪の中へ割って入り奴の顔を見た。

「おい、大丈夫か……?」

「僕、そんなつもりじゃ、無かったんだけれど」

 ぽつりと落とされた声と同時に、天使の涙が転がった。

 澄んだ青瞳からぼろぼろと透明な雫が流れるのを見て、ニールセンに文句を言っていた周囲が慌てだす。

「あっ、でもほら! 彼女、助かったわけだし!」

「そうそう! ベアトリーチェって元々、変わってるからな!」

 ニールセンのせいじゃないと慰めだす周囲に、俺は閉口してしまった。さっきまでと言っていることが真逆だ。けれど彼らの気持ちも分からなくはない。どこまでも純粋なニールセンが泣いているのをみると、自らが原罪の塊のように思えてくるのだ。

「こらーっ! お前たち、何を騒いどるかーっ!」

「げ、やべ」

 結局その場はパーカー教授がやって来たことで収束した。

 教室にいた全員が取り繕うような半笑いを浮かべ、ニールセンと俺をこっそりと教授から隠すようにして逃がしてくれた。




 その日の夕方、俺はひとりでベアトリーチェのいる保健室へと足を運んでいた。

 ドアを軽くノックして開けると、中に膝小僧を擦りむいたベアトリーチェと、それを手当てする看護師さんが座っている。

「あら? お友達かしら」

 看護師さんがにっこり笑って俺を出迎えてくれたのに、ベアトリーチェは渋面を作った。

「あの、ちょっと俺、そいつに用があって」

「まぁ。じゃぁ私は少し、外へお買い物に出てくるわね」

 いかにも空気を読みましたと看護師さんは笑い席を外してくれたが、俺としてはそんなつもりじゃなかった。ベアトリーチェが、猫が威嚇するように睨みつけてくる。

「そんな睨むなよ。ニールセンのことで話があって来たんだ」

 ベアトリーチェは無言だった。いつもの「嫌い」はなりを潜め、静かに話を聞いている。

「あのさ、あいつに悪気はないんだ。馬鹿だから嘘もつけないし、お前を傷つけようと思って、あんなことを言ったんじゃないと思う。それだけ伝えておきたくて」

 ぼそりとベアトリーチェが何か呟いた。

「ん?」

「……あの人は、私をからかって遊んでる。私が『嫌い』と言ったら喜んだ!」

「あー……」

「おまけに、みんなの前であんなことを! 私が『嫌い』と言えないのを知っていて」

(んん?)

 俺がその言葉に微かな閃きを覚えたのと同時に、ドアをノックする音がしてニールセンの弱々しい声が聞こえてきた。

「ベアトリーチェ……いるのかい?」

 その声に飛び上ったベアトリーチェに、俺は急いでベッドの下へ隠れるように言った。

「俺が相手してやるから! そこで隠れて話を聞いてろ」

 ベアトリーチェが俺に言われる前にすばやく身を隠したのと同時に、ニールセンが扉を開け入って来た。

 ニールセンはこの世の終わりのような顔になっていた。

 ぼんやりと俺を見て、部屋を見回しベアトリーチェの姿がないのを確認すると、そのまま出て行こうとする。

「ちょ、おいおい! 待て!」

 俺は慌てて奴を引きずるように椅子へ座らせた。

「ほら、俺に一部始終を話してみろ。どうしてあんなことをしたんだ?」

「どうしてって……」

 ニールセンはぼんやりと顔を上げた。ようやく俺の瞳を見て「あ、なんだ君か」と今さらに気がついている、失礼な奴だ。

「はじめは僕、純粋に『嫌い』って言ってもらえたことが嬉しかったんだ。誰かからそんな風に言ってもらったこと、人生で初めてだったから新鮮で」

「うん」

 俺はそれに同意はできないが、相槌として頷いた。こいつは変わっている。

 「聖人君子」ニールセン・ヨハネに、誰かがはっきりと罵詈雑言を浴びせてやるべきだったのだ。けれどこいつは今までそんな経験もなく、ここまで来てしまっていた。

「でも彼女を見ていて、僕は彼女の『嫌い』の言葉が好きなんだって、気がついた」

「んん? なんだそりゃ」

「最初はよく分からなかったけど、何度か見ていて気がついたんだ。あの子の『嫌い』は言葉通りの意味じゃない。もっと色々な意味がこめられている」

 首を傾げる俺に、相当にひどい顔色のニールセンは説明してくれた。

 ベアトリーチェが自分だけでなく、他の人にも「嫌い」というのを見ていて気がついたと。

「あの子は怯えている。そうしてずっとみんなに『助けて』って言ってたんだ。それに気が付いたら目が離せなくなって、それであの日……」

 朝、教室塔へ向かう彼女に『大嫌いだ』と言われて、その表情に惹かれたのだと。

 そうして彼女の手を握り、ニールセンはベアトリーチェへ告白をした。

「まるで僕のことが大好きだって、彼女の『大嫌い』がそう、熱烈な告白に聞こえたんだ。自惚れかもしれないけど」

「自惚れにもほどがあるだろうぜ」

 俺は情け容赦なく突っ込んでやった。こいつの言わんとすることの意味がいちミリも理解できない。

「君も見ていて分かっただろう? 彼女の『嫌い』っていう時の表情、本当にそう思っている顔じゃなかっただろう?」

「……どうだろうな」

 俺が思い出したのは、ベアトリーチェの表情が実家の飼い猫の威嚇に似ていたことだけだ。怯えていると言われればそうかもしれないが、こいつの言う通り、彼女がニールセンを大好きだと思っているだとか、そんなことは俺には分からない。

「でもニール。お前、ベアトリーチェに『好かれるくらいなら死んだ方がマシ』って、はっきりそう言われたじゃないか」

「……そうだよね。まさか本当に、嫌われていたなんて」

「な」

 ニールセンは泣き出していた。しくしくと肩を震わせて、天使が羽をもがれたように震えている。俺は胃に穴が開くほどの罪悪感に苛まれながら、必死に言葉をつくした。

「い、一緒に謝ろうぜ。悪気はなかったって説明すれば、きっと分かってもらえる……」

「もうだめだよ。僕は彼女に……嫌われてしまったんだ」

 俺は言葉に詰まった。

 最初から嫌われてたんじゃないのか? という心の声はさすがに口にできない。

 胸の辺りを抑えてぼろぼろと泣くニールセンは泣き顔も美しかった。鼻がしらを赤くして、涙はダイヤモンドのように落ちていく。

「あ……えっと」

 俺が慰めの言葉を必死に考えていた時だ。ガタリ、とベッドが揺れて、その下から埃を頭にかぶったベアトリーチェが現れた。ニールセンは呆けた顔で彼女を見ている。美しいブルネットの髪を埃まみれにしたベアトリーチェは、ニールセンを指さすと天敵に決闘を申し込むような顔をした。

「きっ……」

「き?」

「きらい、じゃ、ない……っ」

 目線を背けたベアトリーチェの顔は真っ赤だ。俺がため息をつくのと、ニールセンが勢いよく彼女に抱きついたのとは同時だった。

 保健室の外へ出てみれば、中庭の広葉樹は夕陽で茜色に染まっている。

 閉めたドアの向こうから、ベアトリーチェが「嫌いだ!」と叫んでいる声が聞こえてきていた。

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