第9話 北京へ

 瓦礫がれきの中、私たちは荷物をまとめた。当たり前のようにロシアの警察は飛んできたが、亡くなった徐がここに長く滞在していたこともあり、ドイツ人が一切の犯罪を起こしたということであっというまに話はついた。我々は徐に会いにきて巻き込まれた被害者とされたのだ。


 ひしゃげた拳銃や吹き飛んだ男たちを見て、ろくな武器も持たない我々にはこんな事ができるわけがないと判断された。拳銃はホームズのものだけで、しかもドイツ製でマガジンは割れている。そのうえ1人も弾丸を発射しなかったので、硝煙の痕は誰の手にもついていなかった。ホームズがスコットランドヤードから受け取っていた書類を見せながら事情を説明した。


 数日後、なんとかロンドンと連絡が取れ、結局、この一連の騒動の原因はフリッツ・ハーバーということになった。半ば詐欺のような形で逃げ出し、我々は馬車を用立ててモンゴル地方へ入った。


「林とか言ったな。ハーバーを殺すのが目的か」

 馬車の中で李が聞いた。彼は槍を磨いて刃先に油をひいていた。布で穂先をつつむと、あぐらをかいて床にすわり、かたわらに槍を立てる。


「いいえ、個人としての制裁も犯人に求めていますが、それ以上に私が恐れているのは、清国を脅かす兵器です」

 林が言った。


「そうか。私の考えとは違うな」

 林は李に表情で意見を求めたが、李は何も答えなかった。


 林に兄を思う気持ちがあるように、李には弟子を思う気持ちがあるということだろうか。清国からロシアまで1人旅をしてきたのだ。強い考えがあってのものなのだろう。しかしこの達人の気持ちを推しはかることは、今の我々にはできなかった。


「林英文の妹。名はなんという?」

「林黒児と言います」


 それを聞くと、李は驚きの意味か、目を少し大きく開けた。


「では、おまえが紅灯照こうとうしょう黄蓮聖母おうれんせいぼか」

「……はい」


「そうか。その若さで、志に命を捧げたか」

 李がじっと女を見て口を閉じた。


「有名な方なのですか?」

 私が林に聞くと、彼女はため息を吐きだしてから話しはじめた。


「李師父に比べれば……私の所属する大刀会には紅灯照という女性組織があり、私はその頭領なのです。この真っ赤な装束は団員の証です」


「なるほど。でも李さん……李師父ですか。彼は大刀会ではないのに、あなたをご存知なのですよね?」


「大刀会と八極拳の門下との間にも交流はありますので。兄はその伝手で李師父の門下となったのですから」


 以前、私の記録について気にしたのも、立場のある人間として大刀会の顔をつぶしたくないと思ってのことなのだろうか。この細い双肩には、多くの責任が乗っているのだろう。しばしの沈黙が馬車の中に残った。


「途中からまた鉄道が使えるはずだと聞いていますが、どの辺りでしょう」

 ホームズが言った。


「まだ当分先です。チタから伸びる大清東省鉄路の予定があるのですが、今は建設中です。馬車で清国へ入り、ハルピンを経て奉天へ。そこから首都北京へ。これが現状では最も安全かつ早いルートです」

 林は自分の素性に関する話題から離れると、ほっとしたような顔をした。


「清国にもこれからは立派な鉄道が走るのですね」

 私が言ったが、林はすぐに首を横にふった。


「日清戦争で日本に奪われかけ、その後ロシアが介入して横取りしようとしている路線です。経営権は事実上ロシアのものになるでしょう。我々は身を守るすべを失いつつあるのです」

 林が厳しい声で言った。


 日清戦争の後の三国干渉について、林は詳しく経緯を知っていた。露、仏、独は日清戦争後に清国の平和のためと言い張り、日本の利権獲得に圧力をかけてきた。ところが、今度はロシアとフランスが清国割譲のための秘密同盟を結び、プロシアも貯炭所の割譲などを狙い始めたのだ。


 そんな最中、大刀会が山東省で起こした神父殺害の事件だ。プロシアは大喜びで賠償として領土をよこせと言い張ったのだろう。


「なるほど……日本が独仏露にすり替わっただけで、苦境は変わらないということですね」


 私がつぶやくと、林と李はそれぞれ私の言葉を肯定した。馬車をふたたび乗り換え東へ向かう。雪景色が消え、草原が見えてきた。ここからが清国だ。


 *


 急いだかいがあり、旅は極めて順調に進んだ。モンゴルを抜けて奉天へ、そしてついに北京へ到着した。


 街の景観は予想から大きく外れたものだった。大清帝国の首都ともなれば、さすがに荘厳、華美な大都会に違いないと、わずかながら期待があったのだ。たしかに二重の城壁で囲まれた皇居紫禁城しきんじょうは立派であったし、国立の最高教育機関である国士監も、その規模や装飾は見事だった。


 しかし総じて街の雰囲気は暗く、斜陽をむかえている印象が強かった。それは私がアフガンで見た、途上の段階にある気配とも異なっていた。もともとは瀟洒しょうしゃであったろう大理石の橋にも浮浪者があふれており、さらに彼らが道路で料理や食事をしているのだ。複雑な異臭が私たちの鼻を突いた。これが列強との軋轢あつれきで弱りきった結果なのだろう。

 

 我々は紫禁城から2マイルほど離れた大刀会の拠点へ通された。昼過ぎだったが、旅の疲れと街並みでの人酔いで、私は食事もとらずに倒れるように眠った。固いベッドだったが、体を休めるのには十分だった。


 *


 目を覚ましたのは深夜だった。杭を打つような音で目が覚めた。


 こんな時間になにかの工事だろうか? ホームズは寝息も立てず静かに眠っている。気になり、外套がいとうを羽織って外へ出た。


 李がいた。雪の積もる広場に1人。あのホームズと立ち会った時の姿勢だ。足を馬にまたがるように広げ、両足のつま先を平行に、腰をぐっと落として立っている。月光を背に、男はゆるやかに両手をくんで動かし、それをすっと無造作に突きだしていた。男の広げた両足が音もなくそろった。


 そして瞬間。


 地面が揺れた。彼は私から10メートルほどの距離にいたにもかかわらず、その振動は私の足元にはっきり届いた。何度みても信じられない威力だ。李が一歩、一歩、拳を突く。雪を溶かし深くえぐる足跡が、地面に点々と描かれていた。


「見学ですか」

 後ろから英語で話しかけられた。林が塀の上に、両足をそろえて腰掛けている。新しく用意した服も全てが赤で統一されているが、雪の町では薄着のように見えた。


「寒くないのかね?」

 問いかけたが、林が首を横に振った。 李を見る目に、かすかな寂しさをたたえていた。


「私たちはこの気候に慣れていますので」

 林の頰は赤い色を失うことなく、李の武術を見つめていた。私は外套を脱いで林へ渡そうとしたが、彼女は笑いながら首を横にふった。


 着直して腕を組み、林の座る塀に背をあずけた。その間も、李の踏み込みは私の腹を揺らし続けた。


「私たちの常識では信じがたい力だ」

「あれは筋力ではありません。功夫ごんふです」


「前にも聞いたかな。それはなんだい?」

「絶えまない修練の蓄積により得られる力のことです。腕力でなく、持続力でなく、技術力でなく、気力でなく、それら全てを包含する言葉です。功夫による力こそが八極拳の真髄なのです。あの震脚しんきゃくと呼ばれる強い踏みこみによって、突きの威力を何倍にも増すのです」


 ホームズとロンドンで見た壁の穴のことを思い出した。あんな穴が殴って開くわけがないといっていたのが、今では間違いであるとはっきり理解できた。


「私たちには列強のような兵器はなく、それをあつかう技術もない。でも、長い伝統によってつちかわれた武術があります。それが、銃弾も砲撃も跳ね返す力であると信じているのです」


 李が反転し、こちらを向く。今度は踏み込みながら掌を回転させ、下に落とし込む動作を繰り返した。イルクーツクで、ホームズのステッキをたたき折った技だ。


伏虎ふくこです。虎をねじ伏せるという意味です」

 李の繰りだす技は、確かに虎でも倒せそうな気迫に満ちていた。


 その姿を見つめる林の目に、二筋の涙が流れていた。どうしたのか聞こうと思ったが、すぐに理解した。亡くなった兄の得意な技なのだ。雪原に響く八極拳の歩みは、彼らには単なる武器ではないのだ。それは生き方を決める神聖な道標であるのだと、李の一撃、一撃が語っていた。


 清国はかつてアヘン戦争で我々に敗れ、3年前に日清戦争で敗れ、今はドイツの餌食になろうとしている。しかしながら、この得がたい技術を持つ人々が住まう国を、砲や軍艦の力で手下にしようとは浅はかではないのか。そうした思いが、私の胸に芽生えていた。


 長い稽古を終えて、湯気を背に李が戻ってきた。


「大刀会の手勢はそろったか」

「はい、師父が戻り次第、計画をおつたえしたく」

 涙はすでに引いていた。林は真っ白な息を吐きながら宿舎へ手をむけた。


 *


 建物に入ると、様々な調度が並んだ部屋が広がっていた。10人ほどの男たちが一斉に立ち上がって、右拳を左手で包む礼を向ける。


 辮髪べんぱつと呼ばれる編んだ独特な髪型、大きな帽子と腰にさした幅広い刀。そうした独特な風貌に加えて、厳しい視線と鍛えた肉体が目を引いた。


「ご苦労」

 林がはっきりとした声で言った。私たちと話すような緊張した声とは異なる、組織の上に立つべき人間の声だ。


「彼らの拠点はここから一里。ドイツとは条約を結んでいないため彼らには治外法権がない。証拠さえあれば按察使あんさつしに引き渡すだけです」


 按察使というのは警察組織の事であるらしい。ホームズは林の話を聞きながら黒檀の椅子に掛け、久しぶりにパイプをくわえた。


「ハーバーが、塩素ガスを拡散できる状態を成立させている時に取り押さえなければならない。これが最大の条件なのはわかっていますね」

 ホームズが強調した。


「はい。証拠がなければ、外国人を裁判で有罪と認めるのは難しい。以前言った通りです」

 林が即座に答えた。


「行政の人間は、彼らの拠点を襲撃して身柄を抑えるのには協力してくれないかね?」

 私が聞く。


「製法だけを抑えても殺人の証拠にはできないのです。使える状態になっていないと。さらには大刀会のドイツ人教会への襲撃が大事になって以来、ここ北京でも大人数で動くことはできかねます。彼らが塩素ガスの原料と設計図を持ち、それを使える状態にしているときに、賊の首魁ハーバーをとらえるというのが唯一の選択肢になります」

 林が書類を机に広げて私たちに見せ、計画を翻訳しながら説明する。


「拠点にいる彼らの人数が知りたいですね」

 考えを巡らせていたホームズが、急に口を開いた。


「イルクーツクで李師父が倒した相手はおそらくここ北京から来ていますが、今までは多くて2人。以前にドイツ人たちを尾行したところ、製鉄所の中に隠された手配犯の拠点で、我々が密告しました。その時も3人でした。こちらは今いる10人以上。さらに李師父もいらっしゃいます」


「林さん。君はまだ事実をきちんと把握していない」

 ホームズが話をさえぎった。


「というと?」


「山東省の事件はこれまでとは違うのです。プロシアは今、必死になってその利権を取りにきている。確実な方法で運ぼうとするはずです。これまでがそうだとしても、今回は違います」


「軽く考えるなと言いたいんだな」

 李が、沈黙を破ってホームズに言った。考えがあることはわかっているから、もったいぶるなと言っているのは明らかだった。


「そのとおり。なぜなら彼らは数日以内に拠点を引き払い、すべての研究成果を持って鉄道で南進、山東省済南方面へ向かうからです。したがって、その道中を襲撃するのが唯一の方法となるでしょう」


「えっ?」

 視線がホームズへ集中した。全員が、何をいきなりという表情をむける。しかしホームズは一本指を立て、どよめく我々を制止した。


「上海にいたドイツ東洋艦隊は、長期航海途中の上陸と陸上訓練とを口実に、膠州湾に入り、清国兵たちに退去を命じ湾岸全域を占領しました。しかしそれでは十分ではない。さらに大刀会を含む大規模な抵抗に備えて、ハーバーとその一味はいち早く毒ガスを運ぶはずです」


「ホームズ、お前にわたっている情報は断片的なはずだ。なぜそこまでわかった?」

 李が微笑を崩さずに続けた。ホームズの答えを楽しみにしているという目だ。


「政治的な動きは、先ほど全てロンドンから受け取りました。僕には兄がいましてね。彼、マイクロフトにまとめて送ってもらったのです。そこから先の推理は僕でなくても可能ですよ」

 ホームズが即座に答えた。こちらも質問を待っていたといわんばかりだ。


「なかなか抜かりがないな。そう聞けば我々の行動も決まる。お前を味方に入れたのは正解のようだ。林、このホームズの指示に従え。言うことに間違いはなさそうだ。まずは鉄道を襲うための馬を用立てろ」

 李が言った。


「わかりました。すぐに済南方面へ作られた鉄道の情報収集と、馬の調達を開始します」

 林が答える。着座していた兵士たちが、勢いよくめいめいの足音をたてて立ち上がった。

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