第3話 その名は八極拳

 私もレストレード警部も唖然あぜんとして、これまで一度も向けたことのない丸い目をホームズへ向けた。


「いやいや。それは私の考えよりひどいですよ、ホームズさん」

 制服の警部がいそがしく手を振りながら言った。


「そうだよ君らしくもない。いくらなんでもこんな壁を手で壊すのは無理だ。刃物を使っても難しいよ」

 私も声をかさねた。ところが、それまで黙っていた依頼人が、ここで後ろからはっきりと声をだした。


「……いいえ。兄であれば、この程度の壁は手で壊せます」

 林黒児はその壁の穴を内側からさわり、確信を持って続けた。


「いやいやいや!」

 レストレード警部が両手をふりながら前に出した。


「それはさすがに信じがたいですよ。木骨に化粧漆喰スタッコの組み合わせで、厚みも4インチ10センチはあるんですよ。これはゲンコツなんかで殴って開く穴じゃありません」

 レストレード警部がまくしたてた。


「そうは思えません。以前、兄が石塀を割っているのを見たことがありますが、これより硬いはずです」

 真っ赤な服をひるがえして、林が平然と言いかえした。冗談とは思えない態度だ。それを見て、ホームズがやおら私の肩に手を置いた。


「ワトソン君、君は被害者の体格に近い。そのリノリウムのくぼみに両足を乗せ、腰を落として手を突きだしてみたまえ」


「こ、こうかね?」

 言われた通りの姿勢をとった。しかし相当なガニ股になってしまい、腰を落とさないと言われたようには立てない。手をのばすと確かに穴には届くが、不安定すぎる。足の筋肉が相当に張った。


「こんな格好はいつまでもできないよ。力も入らない!」

 脚をふるわせて、つりそうになりながら叫んだ。


「長い時間は必要ないんだ。ごく一瞬、床がへこむほど強く踏みこみ、その下方への勢いを利用して横へ手を突き出す。林さん、お兄さんが石を割ったときの姿勢はこうした形ではありませんでしたか」


「もう少し左右に体重が均等にかけてあって、両足は平行に、膝は外側に開いていました」

「もう無理だ、勘弁してくれ!」

 私は尻もちをついて床にころがった。


「鍛錬に裏打ちされたその姿勢こそが、砲撃に間違うほどの威力をもたらしたのだ」

 私の脇に手をそえて起こしながら、ホームズが言った。


「たしかに位置関係はあっているようだが、一体、なんの体術なんだい。こんな、人に無茶をしいる技を作ったのは」

 私が腰をさすりながら依頼人に聞く。


「……清国河北省かほくしょう滄州そうしゅう孟村もうそんの武術、八極拳はっきょくけん。兄はその師父、李書文りしょぶんの弟子でした」

 林がよどみなく述べた。


「八極拳」

 ホームズがその単語を繰り返した。


「はい。もともとは清国でも知るものの少ない地味な武術でした。しかし兄は15才の時に天津で李師父に出会い、豪速と精妙さに優れ、虚飾なく実用本位をむねとするこの拳技けんぎを学んだのです。我々大刀会は主に少林拳の一派に属するものが多いのですが、兄は八極拳に強いこだわりを持っていました」


「興味深い。実に興味深い話です。東洋の地には、まだ僕たちの知らない技術があるのですね」

 ホームズが嬉しそうに目をひらいた。

 

「すぐには信じられないね!」

 ホコリを落としながら言った。こんな厚い壁は、筋骨隆々とした陸軍の兵士にも壊せないだろう。それを私と変わらない体格の者にできるだろうかと、眉間の皺を深くした。


「でも素手だとすれば、それで穴の説明はつきますね。そうとなると、2人の死因は全く別のものとなりますが」

 レストレード警部が言った。


「死因は毒だよ。2人ともね。死斑の記録や喉のただれの記録からわかる」

 言ってレストレードを見た。彼はホームズの言葉に力づけられたのか、早口で話し始めた。


「つまりこうですね。被害者2人は外から鍵をかけられ、何かの毒物で殺されかけた。林さんは脱出するために壁を破ったものの、そこで力つきたと」


「そこまでの説明は正解だ」

 しかし言いながら、ホームズは警部から目をそらして別の方向を見ていた。視線の先には、外へ通じる換気扇が回っていた。


「毒は液体ではない」

 ホームズが誰に言うともなくつぶやいた。


「というと?」

「すぐに効果が出る即効性のものなら、片方が飲めばもう片方が気がつくはずだ。逆に遅効性のものであれば、外から鍵をかける必要はない。飲ませてしまえばいいだけだからね。


 林さんのお兄さんが壁を破りたくなった理由は1つ。気体だよ。部屋に毒ガスが送りこまれたのだ。林君のお兄さんは、部屋に鍵がかけられたと気がつくや、窒息を防ぐため、そして外から錠に手が届かないかと考えて、壁に穴を開けたんだ」


「ガスですか……」

 レストレードが、ううむと一度唸ってホームズと同じ方向に目を向けた。


「喉のただれや皮膚の痛み、死斑等の報告は聞いていたし、何より解剖結果から2人とも肺水腫が複合的に見られたのが決定的だ。清国には心臓病が多いとか検視官が変な報告を上げたそうだが、もう少しベテランに頼んだほうがいい。間違いなく毒性を帯びた気体の吸引による死だ。おそらく塩素ガスだろう」


「種類までわかるのですか?」

 レストレード警部が驚いて聞いた。


「僕はつい先日、現代化学で特定できない有毒物質による殺人事件にかかわった。そこで今後のためを思い、様々な毒ガスの研究をしていたのだよ。ワトソン君、覚えているだろう」


「ああ、やたらに繰り返していた、ひどい臭いの実験のことかい? コーンウォールでの事件以来、気体を使った犯罪に熱心だなとは思っていたよ」


「その手の事件が増えるという確信があったからね。そして至った今日だ。残酷な事件だ。犯人は単に都合の悪い人間を殺しただけでなく、わざわざ毒ガスを使ったのだ。自分たちの作った兵器が有効かどうかを試すためだよ。外からあの換気扇を経由して送りこんだのだろう」

 ホームズが深い声で続け、それから一度パイプに火をつけてゆっくりと煙を吐き出した。


「だが、一つだけわからない」

 吐き出す紫煙の中で手を口にあて、私の友人が続けた。


「わからない。なにが?」


「以前の事件と比べて、この部屋はあきらかに広すぎる。密閉もされていない。これだけの大きな部屋に、短時間で気体を流す方法がない。液化塩素を金属の容器で運ぶことは可能だが、現代の技術ではそれを運搬して現場で噴射させるのは難しいはずだ。かといってここで生成してすぐに送りこむなら、かなり大がかりな発電機が必要になる。自動車のエンジンやら、その手のものを使ったら、夜でも誰かしら気がつくはずだ」


「どこかしらから電線を引いてきたのだろうか? ロンドンの電力は最近デッドフォードにつくられた大規模交流火力発電所から引いている。話題のニコラ・テスラが発明した交流技術だ。送電範囲はエジソン発電所よりもかなり広いらしいぞ」

 そうした話題は新聞にも連日書かれていた。


「落ち着きたまえよワトソン君。ロンドンの電線は地下を走っているんだ。事件一つのために地面を掘って電線をつなげるなんて、土地勘のない場所で人目につかずにできるとは思えないぜ。まだデータがない。データがないときに理論を組み立てるのは間違っている。見落としがないか周囲を調べてみよう」

 

 ホームズは部屋に置いた荷物をまとめると、我々を連れて外へ出た。ホテルからハシゴを借りて、ガスを流しこんだと思われる窓の枠に虫眼鏡を当てる。少し考えていたようだが、すぐに彼は首を縦に振った。


「やはりダクトを固定するための粘土が残っている。かなり太い。急速にガスを送るためだろう」


 ホームズは虫メガネをくわえてハシゴを降り、ホースを壁に沿って貼りつけた証拠を次々に見つけ、機器を設置した場所を特定した。雑草がまばらに生えた地面には、石突きで固定した痕跡が残っていた。


「たまたま風の強い日だったのでは? 風上に向けて状のものを広げたのかもしれない」

 私が屋根に目をむけた。


「事件の日の天気は調べたよ。事件の数日前から、ロンドンは穏やかな曇りの日が続いていた。会議の日を狙って悪天候が来るなんて事はないし、外国人のハーバーには毎日の気象を予測できない。そして何よりこれだ。見たまえ。ここが砂でなくて良かった。1箇月以上すぎてこれが残っていたのは幸運の一言だ」


 ホームズが、何かを土の中から拾い上げた。


「銅線ですね」

 レストレードが言った。


 ホームズの神経が張り詰めていることが、その指先から伝わってきた。彼は後ろ手を組みあわせて私たちに向き直り、状況を説明しはじめた。


「電力を使っているのは間違いない。ガスをだす器具も、僕が推測したとおりの規模だ。しかし、ここに設置する機器では短時間にガスを生成して送り込むのは無理だ。よそから電線を引くのも地形的に難しそうにみえるね」


「うーん……そうか。しかし犯人を締めあげるにしても、ハーバーはもう清国へ向かっているしね」


 沈んだ声で、申し訳なさそうに依頼人を見た。ところが林はホームズをじっと見つめていて、私の言葉など耳に入っていないようだ。そしてその視線に答えるかのように、ホームズが堂々と言い返した。


「すでに仮説はいくつか浮かんだよ。ここで終わる手はない。さあ、心は決まったかね、ワトソン君」

 

 うん? と私が不思議そうな顔をすると、ホームズも同じように不思議そうな顔で私を見た。わかっていないのかと、その眉が問いかけていた。


「まさか、フリッツ・ハーバーの犯行を明らかにするため、清国まで行こうというのか?」


「決まってるじゃないか」

「旅費だけでいくらかかると思ってるんだ? それ以上に、往復の時間を考えてくれよ!」 

 驚いて背伸びをしながらホームズへ指を突きたてた。私はこの瞬間まで、ロンドンでけりがつく話だと思っていたのだ。あわてて林が割って入った。


「下手人はわかっており、今また死因も明らかになったのです。ミスター・ホームズ。フリッツ・ハーバーの追跡にご協力ください。世界で最も優れた探偵と聞いております。あなたをおいて誰に頼むことができるでしょう。報酬と経費は清国政府が出すと約束します。まずは手付金として200ポンドをここで。兄の仇をうち、祖国を危機からお救いいただけたら、加えてさらに同額をお支払いします」


 待っていたとばかりに、林が清国の麻で編んだ袋の中から、換金したばかりの新しいポンド紙幣を取り出した。


「もちろんそのつもりです」

 ホームズがパイプの中を削りながら答えた。


「本気なのか?」

「仕事が忙しくて無理だとでも言うつもりかい? 普段の生活を見る限りそうは思えないね」

 ホームズは私をじっと見つめて言った。


「我々は清国に行ったこともなければ、言葉も話せないんだよ?」

 言ってはみたが、もうこれは無駄な説得だった。決定を覆すことができないのはわかっている。あとは私が行くかどうかしか残されていない。最後の抵抗だったが、ホームズはクスクスと笑い、それから大声で言った。


「僕たちには頭脳と肉体がある。それが役に立つかどうかで考えたまえよ」

 ホームズが言い切った。林は胸に手を当て、ゆっくり静かに息をついた。自分の意思を伝えられたと感じているのだろう。


「わかったよ。準備をしよう」

 帽子を目深にかぶり直して答えた。

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