第1話 清国の依頼人

 1897年の末。私の友人シャーロック・ホームズは、長い療養と先天的な頑健さによって、徐々に若い時の活力を取りもどしつつあった。何度となくやらかした無茶にさいなまれた臓腑もついに回復し、その肌に瑞々みずみずしさが見えてきたのだ。


 さらには何を検証するためなのか、限られた機材を使って何度も化学実験を繰り返していた。これが続くようなら、やがては以前住んでいたベーカー街の下宿に行かなければと言いだすだろう。私はそれを見るにつけ、このコーンウォール半島の先端、ポルドュー湾に近い小さなコテージから旅立つ日が遠くはないという予兆を感じていた。


 ホームズがここで静養の日々を送っている間も、世の中は動いていた。我らが女王の在位は60年を数え、市況はきわめて好調。世界の変化もいちじるしい。特にここ数年のアメリカの進歩はたいしたもので、ヘンリー・フォードの自動車の普及、科学者ニコラ・テスラの交流による発電など、様々な新発明が世をにぎわせていた。


 私たちも、こうした状況に無頓着でいられるわけがなく、刻一刻と変化する都会の空気に触れたいと思っていた。特に最近ロンドンのホワイトヒルホテルで起こった殺人事件は、ホームズの強い関心をひいたようだ。私もスコットランドヤードから送られた写真を見たが、遺体は東洋人らしい、たばねて編んだ髪に帽子、すその長い独特な服など、いかにも我々と異なる風体だ。ホームズはこうした特徴をつぶさに調べる一方で、時折本を取り寄せて清国の情報を集めている。いまや、この家は実験用具と東洋関係の専門書で、来た時とはまったく異なる魔窟のようになっていた。


 そんな矢先に、はたして、事件はまいこんできた。


 私が外の草深い岬を見ていたとき、誰かがこちらへ向かっているのに気がついた。時間が経つにつれ、それが真っ赤な衣服に身を包んだ東洋人の女性だとわかった。無数の海の男たちが岩礁によって最後をとげた岬を背にしても、その気配を寄せつけない芯の強さが感じられた。


「来客だね、ワトソン君」

 突然、私の同居人が勢いよく声を出した。


「大きな鞄を持った、姿勢の良い東洋人の女性ではないかね?」


 私はいつになれば、この不思議な力に慣れるのだろうか。ううん、と一言口を結びながら、ホームズを上目遣いに見た。


「いったいどうして?」

 私の友人は椅子から軽やかに上体を起こすと、パイプの灰を削り落としながら、深くくぼんだ瞳を面白そうに輝かせた。


「それは本人をまじえて話そうじゃないか」


 ホームズがコーヒーを淹れた。お湯がわき始める頃に、ノックの音が聞こえた。


「失礼いたします」

 緊張を押し殺した女性の声が続いた。


「どうぞ」

 私が言うと、音もなくドアが開いた。


 全身くまなく赤い女性だった。髪に赤いリボン。赤いスカーフに赤い上着、赤いズボン、赤い靴下、赤い靴、そして荷物にくくりつけた赤い提灯、赤い扇子。要するに頭の上から足の先まで、何もかもが赤で統一されていた。


 年齢は20代後半か。整った美しい容姿だったが、表情から、その中に多くの深い思いを閉じこめているのがわかった。


 2歩進み、彼女は右の拳を左手で包むと真っ赤な唇を開いた。


「私は林黒児りんこくじ。清国、天津の生まれ。お目にかかれて光栄です、ミスター・ホームズ」

 東洋人の女性は、母語ではない、しかし正確な文法と発音の英語を話した。


「お待ちしていました。殺人事件の解決のため、微力ながら尽力いたしましょう。ところであなたは大道芸で生計を立てたことがありますね?」

 ホームズが答えた。林と名乗った女性が身をこわばらせる。それを気にすることもなく、私の友人は椅子に手を伸べた。


 動揺したことを悟られたくないのか、彼女はホームズから視線を外すと握った右手を口の前に置き、それから息を一つゆっくり吐いてから言った。


「聞きしにまさる慧眼けいがんには恐れいりました。ここまで来て報われた思いです。ですが、その……」


「簡単なことです。スコットランドヤードがホワイトヒルホテルで起きた殺人事件の捜査を投げだしたときから、僕に依頼が来ることはわかっていました。殺された2人は、衣服と髪型から日本人でなく清国人であるとわかっています。事件が起こって数日以内に来るならロンドンから、今日来るのであれば清国からです」


「えっ?」

 驚いて私が口をはさんだ。


「あの、11月の殺人事件のことでいらしたのですか? 清国から?」


「は、はい。清国でイギリスからの電信を受け、その日に出発しました。ですが、大道芸というのはどこで……? 私の衣服を見てそう思われましたか?」


「いいえ、装束ではありません。それは職業ではなく、あなたの所属する組織を示すものです。動きやすそうで縫製が厚く迷いがないこと、また色以外の余計な装飾を排除していることなどから、おそらくは武術結社の一員を示す服なのでしょうね」


 再度、訪問者が喉を動かしてから、ゆっくりと口を開いた。


「では大道芸については?」


「ひとつは歩き方です。清国の農村によく見られる纏足てんそく(注1)をしておらず、一本の線の上をなぞるように流麗な歩き方をされている。役者や歌手などの教育を受けている証拠です。


 ですが右腕と左足、右の鎖骨の端にある怪我。それはそれぞれ、火傷と刃物のあとですね? 役者や歌手でも火傷や切り傷を持つことはあるでしょうが、複数の箇所とは考えにくい。かといって虐待や喧嘩など、私生活における怪我であれば、もっと大きな痕になったり、逆に目立たないような場所に作られたりする。であれば職業上のものなのです。


 もっとも、ここまでであれば武術家という結論もある。しかしながら刀はともかく、火薬を普段から使う武術というのは少ない。小柄な体格や柔軟な四肢を見る限り、軍人でもないようです。であれば爆竹や花火によるものでしょう。このあたりで清国に多いと聞く大道芸人に行きつきました。ご説明として十分でしょうか?」


 いつもながらのこの友人の解説に、私は口を開いてしばし呆然とするほかなかった。言い当てられた彼女も、相当な驚きを瞳に浮かべていた。


 これまでも同じような場面を何度となくみてきた。しかし東洋人というのは、我々にとっては謎めいた部分も多い。私は全身の赤い衣服に目を奪われ、それ以外にはまるで気がつかなかった。それに大道芸人はこの国では決して高い階級の職業ではない。流暢な英語に整った服装とは結びつかないはずだ。ホームズの具体的で偏見のない分析に、改めて深い驚きを感じた。


「すごい……これ以上、話す必要があるのかと思ってしまいます」

「いいえ、僕がわかっていることはこれで終わりです。ここから先はじっくりとお話をうかがいましょう」


 ホームズが椅子にかけ直し、パイプを手に取った。


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注1:幼児期より木綿の布で足を縛り発達をおさえる、辛亥革命以前の中国で女性にほどこされた風習。美容や女性支配などが目的であると考えられている。

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