BREAK THESE CHAIN

西山香葉子

第1話


 空が限りなく黒に近いグレーになって久しい時刻。

 歩道を飾る木々は淡いピンク色のつぼみをつけていた。暗いグレーの空に白く映えた花が綺麗なコントラスト。

 歩道からちょっと行った駅の壁。

 壁に寄りかかる緩いウエーブの長い髪を持つ美しい少女。

 キャメル色という名の深い茶色をしたジャケットに茶系統のタータンチェックのキュロット、紅いスカーフを巻いている。

 少女はある方向にチラッと目をやった。

 

「ちょっとお兄さん、遊んでいかない?」

「あそこによっかかってるあの娘。かわいいでしょ? カノちゃんて言うんだ」

 小柄な少年ふたりが、サラリーマン風の男に声をかけている。

「4月から高校一年生。旬だよ。食べごろだよ。そんな娘をアナタの自由! ただし会社のお名刺をいただきたいのですが」

 と言って少年のひとりは小腰をかがめた。

「はい」

 男は言われるがままに名刺を渡す。

「お、一流企業ですね」

「じゃ、じゃあ……」

「逝きますか?」

 二人がその少女に向かって歩いていく。

 先ほど彼らをチラッと見ていた少女は、彼らの視線をガチッと受け止めた。


「はあっ。はあっ。はあっ」

 その男は、先程壁によっかかっていた少女の体の上で今まさにクライマックスを迎えようとしていた。

 典型的なラブホテル。

 ベッドとテレビ、小さな冷蔵庫。入り口そばにコートをかける場所。

「カノ、いいかい? はあっ」

「あっ、あっ」

 男の律動は続く。

「カノ」と呼ばれた少女は内心、「早く終わって欲しい」と思っているのだが。

「あっ、あっ」と出していた声も演技。

「ごめん、もう我慢できない」

 彼が言った。

「いいよ、あなたの好きなときにイッて……」

 基本的に男性本位。

 これからイヤな目に遭うんだから。

「カノ」と呼ばれた少女は本当は嫌だけど。あらためて演技。


 ラブホテルの出口で別れたところから、男の尾行をする影がある。

 繁華街のエアポケット、路地裏。ネオンがかすかに見える場所。

「ちょっと来てもらおうか?」

 と、一番からだの大きい青年と少年の中間な男が声をかけた。

 後ろに先ほどの、やせて小柄な少年がふたり。

 人気のないところに男を誘導した。

 そして。

「人の女と何してたんだ今?」

「な、なにもしてないけど……」

 一番大きい少年が男の尻を蹴飛ばした。少年はバックに円から斜めに青と赤が走るネオンをバックに背負っている。

そして、小柄なうちの片方が、

「うそつけ。ここに証拠があるぞ」

 と言って、デジタルカメラを見せた。

 デジカメの窓には、この男がはっきりと。そして先ほど「カノ」と呼ばれた少女が映っている。

「う……お、おまえらが紹介したんじゃないか……」

 男は言葉に詰まりつつも、うめいた。

「金。慰謝料寄越しな。5万」

「そんなに……?」

「寄越さないとこんなもんじゃすまないぞ。もっともっと痛めつけてやる……」

 先ほどふらふらと名刺を渡してしまったことを男は後悔していた。

 男は財布を空けた。

 大柄な少年が、財布をひったくって中を開けた。

「チッ、シケてんな」

 言いながら3万5千円抜き取って財布を投げ捨てた。

「サツに言ったらこんなもんじゃすまないからな。あ、明日会社に電話するぞ。残りの金もらうからな」

 と言い捨てて、3人はネオンの海に消えた。


 午後9時。

「んじゃ俺両替してきますから」

 と行って小柄な少年の一人がパチンコ屋に消える。手数料を取られないで両替できるのだ。


「ヨシノ―っ、いるかー!?」

 大柄な少年がドアを叩いて言った。

 ドアにはネームプレートはあるものの、名前は書かれていない。

「おかえり」

 コンビニの袋や買ってきたものを食べた跡やマンガ雑誌で散らかった部屋の中から、先程「カノ」と呼ばれていた少女が出てきて、ドアを開けて2人を迎えた。玄関、ダイニング、テレビとソファのあるリビングへと続く。

「今日シケてたっすねー」

「最近一発で払う奴の方が少ないじゃないか」

「いいじゃないすか。和田さん。ここの家賃気にしなくていいんだから」

「まあなー。おい、佳乃、ビール冷えてるか?」

「和田さん」と呼ばれた大柄な少年が佳乃にビールをねだる。自分はキッチンにある戸棚を開けながら、左手の指を一回鳴らした後ポケットから携帯電話を出して、ボタンを押し、話し始めた。開いてる右手でセブンスターの箱から1本出して咥え、火をつける。

「義春、柿ピー買って来い、あとビール2,3本。領収証上様で貰って来いよ」

 言いたい放題行って電話を切った。

 このマンションは「和田さん」と呼ばれた少年(和田剛史という名前だ――わだ・つよしと読む――)の親の持ち物だ。

「明日は金曜か、稼ぐぜえ」

「あ、佳乃、ちょっと来い。洗ってやる」

 和田が寝室から呼んだので、佳乃は立ち上がって彼のほうへ行く。

 コンビニの袋で散らかった部屋から、かつて白かったけど薄汚れた扉の中へ入る。

 だらしなくかかった服、ジーンズ、散らかった、使われた形跡のないいろんな物が乗っかって物置と化した机、ぐしゃぐしゃの掛け布団。

「洗ってやる」というのは、街で会った男と寝て汚れた体をセックスすることで洗う、という意味だ。

「さっさと横になれ」

 言いながら和田は吸っていたセブンスターを灰皿に潰した。

「……はい……」

「なんだよその目は……俺が洗ってやるってのが不満なのかよ」

 不満である、が、断ると殴られるので、従うほかない。

 着ていた茶のジャケットを脱いだ。スカーフも外す。やる気なさそうに。

「やる気ねえだろ。え?」

 わかってるならやめてよ。と言いたいけど言えない。一度言ったら何も言わずに殴られた。怪我しなかったのが不思議だ、案外頑健な体質なのかもしれないと佳乃は自分について思う。

 剛史が佳乃の緩いウエーブの髪の毛をひっぱった。

 美人局を始めた3年前は生理の時も街で男を拾っていたが、病気になる危険性があるということでやめるようになった。生理の時だけ、彼らから解放される。

 病気と妊娠には気を使ってくれていた。とは言っても、一時的にでもそういうことになるとセックスできなくなって、その分稼ぎが減るかららしい。

 だったらセックスさせないでおカネだけとればいいじゃん、と思ったが、ひっかかった男を強力に脅すには、セックスすることが必要なんだそうだ。要はセックスで油断させるらしい。

男の弱みを作る、ということだ。

 和田は乱暴に佳乃のブラウスとスカートを脱がせ、足を開かせ、肌が露わになった右太ももをさすり始めた。白いソックスは履いたまま。

「つくづく火付きの悪リィ体だよなあ……ったく……」

 和田はこう言って、佳乃の首筋から肩口に唇を這わせた。

 ブラとショーツを剥ぎ取ったところで。

和田がやっと服を脱ぎ始めた。

 ラグビーと柔道の経験があるその体は恐ろしく分厚い。身長も佳乃より30センチ以上高い。

「足もっと開けよ」

 言いながら和田は両手で佳乃の両足を持って、膝を折り、膝をつかんでいーっと鈍角に広げた。

 顔を足の間に埋める。

 体の中で一番愛撫の影響が出る女の子の部分を舐め始めた。

 何度もされてるけど。何も感じない。

 どういうのが「いい」のかわからない。

 好きな人とすると「いい」って聞くけど、好きな人と「した」ことないし。

 だいたい好きな人、いたことあったかなあ。

 和田が顔を上げた。

 右手の人差し指を見せる。

 それは濡れていた。

「イヤラシイカラダダナ」。

 そう言いたいんだ。

 確かにそう思う。

 愛撫されることによって体はある程度濡れてるんだ。

 そのうちに、めりめりとした感覚に襲われた。

 何度もやってるけど、慣れない。

 こうされて、AV女優みたいに(この部屋で4人で見た。そして全員とセックスする破目になった)、みんながみんなあんあんきゃーきゃーわめくと思ってる。

 少女雑誌を読んで、そうじゃない女のコも多いことを知って少しほっとした。

 だけど。

 いつまでこんなこと続くのかな。


 男から取った金を4等分して和田のマンションを出たのは、11時だった。

 地下鉄の駅から10分ほどのちいさな3LDK。柿の木のあるこの家は、一応、佳乃の家。

 隣の家の桜の枝は固いつぼみをつけている。

 一応、

「ただいま」

 と言う。

 暖房があるかないかのこの時期。家族はみんな居間にそろってテレビを見てる。

 まっすぐ部屋に入って、制服を脱いだ。

 おなかすいた。

 台所行こう。


「今お帰り? 佳乃さん」

 継母である千歳(ちとせ)が言った。

「うん」

「和田さんによろしくね」

 和田は、佳乃の両親には彼氏だと言ってる。

 きっちり優等生面で挨拶したのだ。

 中学1年の時だ。夏だった。

「何かない? 千歳さん」

「食べてないんですか?」

「ないよ」

「春休みの宿題片付けるのに一生懸命だったとか?」

 そういう想像をしてくれてる。

 この人は青蘭学園という名前をしている佳乃の学校の中等部からのエスカレーター出身で、ある程度学校行事がわかる。

 両親も、腹違いの5歳年下の妹も、佳乃が何やってるか知らない。

 すっかりだまされてる。

 バカじゃないかと思うけど。

 ばかじゃないかと言えば、父親もだ。

 この人、佳乃と2人の時に、ちくちくと嫌がらせをしてくることがある。ご飯つくってくれなかったり、佳乃の分だけ洗濯してくれなかったり。

 この人は父親の前では猫かぶってるのだ。それに彼はだまされている。

 でも佳乃もばかなふりしてる。

 義母の連れ子ってことになってる妹が、父の本当の娘だってこと。

 知ってて知らないふりしてる。

 父親を騙している千歳を更に騙している和田と自分は。

 結構すごいのかもしれない。

 

 お風呂に入った。

 ムダ毛の点検をする。

 これを手抜きした時、うっかりうるさい男にあたって苦情を言われ。そいつから金を取れなかったのだ。おかげで和田に殴られた。

 そのせいで、ちゃんとやるようにしてる。

 シェーバーを振ると、水色のタイルに黒い毛が落ちる。

 いつも奴は巧妙で、顔は殴らない。

 3日前に殴られた痣が肋骨の上あたりに残ってる。

「ぐっ……」

 喉にこみ上げてきた。

 セックスの後で吐くことがある。

 けっこう頻繁に。

 風呂場から出て体にバスタオルを巻き、トイレに駆け込んだ。


 洋式トイレでザーッと水が流れていく。吐しゃ物が目の前から消えた。

 洗面台の鏡で(洗面台がもうひとつトイレにもあるのだ)顔を見ると少し青かった。

 あたし、何やってるんだろ。

 自嘲するけど、暴力から逃げられない。

 この鎖から、逃げられない。


 お風呂場に戻って思い出したのは。

 母は11歳のとき死んだ。

 優しい母だった。

 だけど、白血病で、髪の毛なくなって、痩せまくって、うわごとで父と千歳を罵って死んだ。

 半年後、千歳さんと妹が来た。

 妹の顔があまりに佳乃に似ているし、死に際の母の言葉から、ああ、そうなんだな、と思った。

 父は母が死ぬのを心ひそかに喜んでたみたいだ。

 佳乃は思う。

 あたしなんて、いてもいなくても同じなんでしょ?

 と。


 翌日、生理が来た。

 今日から1週間集まりはなし、ということで、携帯を切る。

 男どもは、集まってアダルトビデオ見たりしてるみたいだけど。

 必要外(本当は必要があっても。本当に必要があるのか?)にあのマンションに近づきたくない。

 とにかく勉強に勤しんだ。

 休み明けに春休みの宿題から問題が出るテストがある。

 佳乃は家では勉強をすることが多かった。

 今やってるのは英語の課題。

 部屋は、生成りの壁に畳、半分カーペット敷いて、机とベッドとカラーボックスひとつにキャメル色の文庫専用本棚。

 それにしても英語は量が多い。

 懸命に辞書をひく。

 しかし、あいつら、課題やらない気か?

 まあ、和田は親が国会議員で、学校に寄付金いっぱい出してるから、教師に点数相当甘くつけてもらえるらしいと聞いたことがある。

 とにかく。

 大学入ったら家を出ようと思ってるから。

 勉強はやっておこう。

 理科が苦手だから、医者とか薬学は無理かもしれないけど。

 でも、そんな未来なんてあるのかな。

 このまま一生和田につきまとわれて生きていくのかもしれないと思うとぞっとする。

 だけど逆らうと暴力に訴える、身長で30センチ、体重が倍以上ある奴からどうやったら逃れられるだろう。


 生理4日め。

 高等部の入学式を迎えた。

 グラウンドや中庭の桜は、7分咲き。

 正門から昇降口までの桜並木もシーズンを迎えてピンク色。

 制服は、男子は明るい紺色のジャケットとパンツに紺のネクタイ。女子は同じ紺色のジャケットにベスト、青と紺が基調のタータンチェックの膝上スカートに青いリボン。靴はローファー。ハイソックスはその日の気分で紺と白から選べる。

 新しいクラスは1年C組。だけど。

 みんな佳乃のこと、傍目にもわかるようにバカにしてるから。

 剛史が怖いから、表立っていじめたりはしないけど。

 たまに女の子だけになるとちまちまといじめを仕掛けたりするのがいるけど、今年はそいつとは違うクラスだし。

 少しはましな1年になるかもね。


 クラスでは出席番号順に座る。

 佳乃は女子の8番。

 男の子も女の子も、ざわざわしてる。浮き足立ってる、とでも言うか。

 あたしにはあんな頃、なかったな、とクラスメイトを眺めて妙に大人な佳乃。

 そのうち彼女は気づいた。

 みんな、ちらちらと、教室の隅のほうを見てる……?


 そして佳乃は、出席番号の最後の方に当たる席に、すごく印象的な瞳を見た。

 大きくて、力のある瞳。

 赤い唇はふっくらして色っぽい。グロスつけてるのかな?

 細いんだけど、肩幅しっかりありそう。

 髪は長い。シャギー入ってる。色はやや明るめ。

 外見に見覚えがないから、高校受験で入ってきたんだろう。

 どんな子なんだろう。

 仲良くなれたらいいけどな。

 他の女の子があることないこと吹き込んで駄目、かしらね。


 担任が入ってきて、今日の予定を説明し終えて、入学式。

 それが終わって帰ってきて、HR。

 自己紹介するように言われ、出席番号順に(この学校は進歩的じゃないのか男女順だ)、ひとりひとり名前と前のクラスもしくは出身中学名を言って、着席。

 最後から2番め。

「矢野美咲(やの・みさき)です。花園中学出身です。体育だけは得意です。よろしく」

 と、はきはきとしたメゾソプラノで言って、深々と頭を下げた。

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