第15話

 五年前の春。僕は小学校を卒業して、三つ上の姉は中学校を卒業した。そうだ、ちょうどその頃、都営住宅に入居できることが決まり、引越の準備を始めていたのだ。
 母親は色々出費がかさんで大変だわ、と言っていたが、幸せそうだった。その年の三月は例年より暖かく、三月の下旬には桜が満開だった。



 あの日、引越のために部屋を片付けていた。その時に出てきたこのCDを僕は懐かしい思いで久しぶりに聞いた。そうだったな。当時も久しぶりに聞いたんだった。

 机の奥からは去年の夏祭りでもらった水風船の余りが出てきて、僕はその水風船を姉にぶつけてやろうと考えていた。

 確か、前日の晩御飯の時に姉弟喧嘩をして僕はコテンパンにやられ泣かされていたのだ。 


 昼前だったか、夕方だったか。あれが何時頃だったか覚えていない。僕がどのくらい待ち伏せしていたのかも定かではないが、姉が買ってもらったばかりの携帯電話で「今から帰る」と家に連絡を入れてきたので待ち伏せを開始したんだということは覚えている。


 姉は入学式前の顔合わせで高校へ行っていた。姉が何度も鏡の前で確認していた新しいセーラー服。僕はそれに水風船を投げつけてやろうと思っていた。

 姉が自転車置き場に来るのを見つけると僕は両手に水風船を持って姉の前に駆け寄った。

「ふふふ、昨日はよくもやってくれたな」


 姉は一瞬で察知したのだろう。 


「そんなものであたしに敵うと思って?」

 漫画の敵キャラみたいにわざとらしく不敵に笑った。

 僕は右手の水風船を投げつけた。が、姉は簡単にと避けた。


「ノブ、甘い」姉はあっかんべえをして駆け出した。僕も全力で追いかけた。


 わー、とか、きゃー、とか言いながら団地の中をぐるぐる走り回った。途中から二人とも笑い出していた。姉はもう高校生になる年だったから、本気で楽しんでいたのは僕だけだったのかもしれない。姉は幼稚な僕につき合って遊んでくれていたのだろう。


 喧嘩の後もこうやって気がついたら仲直りしていることが多かった気がする。

 しばらく走り回っていたのだけど、少しずつ距離が詰まった。僕は身長はまだまだ小さかったけど、足は速かったから。


 あとちょっとで手が届くというところで、姉はパッと方向転換をした。

 団地の外の道路に飛び出したのだ。



 次の瞬間、ドンッという鈍い音、そしてすぐにキキーッという悲鳴のような大きなブレーキ音。


 僕には何が起きたのか、わからなかった。姉が道路に飛び出した瞬間に消えたのだ。僕は道路にでた。少し先にトラックがタイヤの線をアスファルトに残して止まっていた。


 すると、運転席からドライバーが青ざめた顔で下りてきて、ふらふらと前方に歩きはじめた。


 ポカンとしながら僕は運転手の歩いていく方を見た。


 向こうの方に何かが転がっている。真っ赤な塊が。運転手はその塊の近くまで行くとへなへなと座り込んでしまった。


 僕も恐る恐る近づく。


 はじめはなんだかわからなかったけど、少し近づくとすぐにわかってしまった。


 そこには変わり果てた姉がカッと目を見開いたまま転がっていた。


 
 僕のせいで姉が死んだという事実に、僕は耐えられなかったんだ。記憶を、心を閉ざしてしまった。今の今まで、この事実を忘れていたのだから姉に怨まれたとしても仕方ない。姉の死について僕は都合の良い脳内操作をして責任を逃れようとしていた。

 僕に復讐しないと成仏出来ないのかもしれない。

「どうしたの?」亜希子が心配そうに見つめていた。

 僕は蘇ってしまった記憶に押し潰されそうになっていた。僕は都合の悪いことは全部封印していたんだ。自分のせいで姉が死んだことを記憶の海に沈めることで、中学も高校も僕は楽しく過ごしてきたんだ。姉を犠牲にして。

「顔色悪いよ? 大丈夫?」

 青ざめた僕の表情を覗き込む亜希子。僕は心配そうに見つめてくる亜希子に答えもせず、へなへなと椅子に腰掛けた。ラウンド終了のゴングに救われたボクサーみたいだ。

 どこを見るでもなく、ぼんやりとした頭でテレビを眺める。

「ホントに大丈夫?」

 歩み寄ってくる亜希子。

 鮮明に蘇った事故の記憶はあの頃の、まだ家族三人だった頃の些細な思い出たちをも芋づる式に思い出させた。

 悲しきノスタルジア。一瞬の閃光のように蘇った幼い頃の家族との光景。祖母の家に行った事、モンブランを取り合ったこと。引っ越す前のアパートの階段で転んだこと。頭の中で現像されるモノクロの写真たち。もう取り戻すことの出来ない、かけがえのない時間。

 その中の一枚に、一人の少女が写っていた。まるで姉妹のように笑う姉と少女。


 亜希子だ。


 僕は亜希子が誰なのかを思い出した。

 それは電球マークが頭の上で光るような、瞬時の閃きというわけでなく、例えるならトランプゲームの神経衰弱で、残り数枚で自分の番が回ってきたような感覚だ。ダイヤのエースはあそこだったよな。ほら、正解。と言うことはスペードのキングはここで、ハートの五は確かそこだ。

 残り枚数が少なくなるほど正解率も上がっていく。勝利への確信と、これでゲームが終わってしまうというあっけなさ。


「あっちゃんか」 

 僕にあっちゃんと呼ばれ、亜希子は一瞬たじろいたが、かくれんぼで最後まで見つからず、仕方なく自ら出てくる子どものような、複雑な表情をした。


 幼なじみのあっちゃん。引っ越してしまったあっちゃん。


「いつ気づいたの?」


「今」


 僕はあの事故のことだけを都合よく忘れることが出来なかった。僕は小学校時代の家族に関する記憶の大半も一緒に忘れてしまっていたのだ。クラスメイト達の名前も、幼い頃いつも一緒に遊んでいた亜希子のことも。



 姉の死という事実から僕は逃げた。自分が姉を事故にあわせてしまったというショックに心が耐えられなかったなんて、いいわけでしかない。責任回避の卑怯な手を僕は取っていたのだ。


 向き合わなければいけないことから逃げ回っていた反動か、亜希子に姉の面影を見るようになり、それに畏れを抱いた。


 アキコが何度も夢に出てきて、そのたびに僕は汗びっしょりで起きるのだ。


「気づくの随分遅かったね」


「だってそうだろ、苗字も違うんだから」


 そう、昔は笹井亜希子じゃなく、神田亜希子だった。たぶん母親の姓に変えたのだろう。


 あの頃の僕は、いつも晶子と亜希子に振り回されていた。せき止められていた記憶の波が押し寄せる。砂場で遊んだ記憶。二人に泣かされた記憶。亜希子の家に泊まりに行った記憶。

「でも、酷いな。ちっちゃい頃はずっと一緒だったのに、忘れちゃうんだね」


「あっちゃんがいなくなってから、色々あったんだ。仕方ないだろ」


 色々という言葉にと亜希子は怪訝な表情を浮かべた。色々という言葉が亜希子は気に入らなかったようだ。


「ふふ、色々か。明信くんもやっぱり他の西校の生徒と変わんないのかな」


 嘲笑、と僕は受け取った。


「なに?どういう意味?」

 内心ムッとしながら答える。


「ごめん、怒らせるつもりで言ったんじゃないよ」


 その言い方もどこか小馬鹿にされたように感じた。


「あっちゃんこそ、昔は友達いっぱいいたじゃん。なんであんな風に黙ってんだよ」


「私にだって引っ越してから色々あったんだよ」


 自嘲気味に笑う。


「五年か。そうか。あっちゃんがいなくなってからも五年なんだよな」

 そうだ、亜希子は僕より一つ年上だ。それが今同じ学年にいるということは、過去に何かあったという事だろう。


 亜希子はCDを止めた。静まる部屋。亜希子の背中が物悲しい。時計の針だけがやけに大きな音で時間の流れを告げている。


「時計を止めても時間は止まらない……か。私も明信くんも色々あったんだもんね。もういいや。ごめんなさい。私達変わっちゃったみたいだもん。もうあの頃の私達じゃないんだよね。帰る。もう、あなたのことノブって呼ばないから、私のこともあっちゃんなんて呼ばないでね」


 亜希子は言った。後ろを向いているためどんな表情でその言葉を発しているのか分からなかった。


「そういう言い方やめろよ」


「五年もあれば変わるもんね、私も明信くんも」


「だからやめろって!覚えてなかったのは謝るよ!」


「別にいいって言ってるじゃない!」

 亜希子が振り返り叫ぶ。

 
「じゃあなんでこんなことするんだよ! 姉ちゃんのふりしてうろたえる俺を見て楽しかったのかよ!?」


「何の話よ」


「あっちゃん、俺のことノブなんて呼んだことなかったろ?」


「え?」

「ノブって呼ぶのは姉ちゃんだけだったはずだ。あっちゃんだって俺のことは明信って呼んでたじゃん」

 亜希子は目を伏せた。亜希子が急に小さく見えた。

「そっか、本当に忘れちゃってるんだね」


 亜希子は本当に悲しそうな顔をした。今まで見た中で、一番悲しそうな顔だった。
「私が引っ越すって決まって、最後に明信くんちに泊まりに言った日、みんなと別れたくないって泣いた私に明信くん言ってくれたじゃん。俺のことはノブって呼べって。姉ちゃんしか呼ばないけど、あっちゃんは離れても俺達の家族だからって、これからはノブって呼べって言ってくれたじゃない」


「あ……」

 そうか、僕はそんな大切なことも忘れてしまっていたのか。


「私、嬉しかったんだ。いいよ、明信は悪くないから。ごめんね。昔の話だもんね。それをいつまでも大事に思ってた私が馬鹿だったんだよね」


 亜希子の目が充血していく。


「ごめん……、俺てっきり、あっちゃんが俺のせいで姉ちゃんが死んだことを怨んでて、それで姉ちゃんのふりして、俺に復讐しようとしてんだと思って……」


 自分の勘違いだった。亜希子は純粋に僕に気づいて欲しかっただけなんだ。思い出してもらえない寂しさを隠して亜希子は僕と接していた。僕は過去から逃げようとして、忘れちゃいけないことも忘れてしまってたんだ。

「ごめん」僕は謝ることしかできなかった。



 しかし、僕の言葉を聞いた亜希子は真っ赤な目を大きく見開き口を開いた。


「どういうこと……。 ちょっと待って。死んだってどういうこと」



 亜希子が詰め寄ってくる。


「え?」と僕は戸惑う。


「アキ姉が死んだってどういうこと!? いつ、なんで!?」


 亜希子は掴みかからんとする勢いだった。亜希子は何も知らなかったのだ。そうか、ケーキを四つ買ってきたのは晶子の真似でもなんでもなく、言葉通りみんなで食べようとしていたのか。モンブランは姉ちゃんのために買ってきたのか。


 亜希子は僕を睨むような目で見ている。


 説明を待っている。僕は答えなければいけない。でも、なんと答えればいいのだろう。逃げだしたい。話したくない。でも僕には答える義務がある。その結果、やっと再開した友達に今度こそ怨まれたとしても。

「なんで!?なんで!?」

 肩を捕まれ激しく揺すられる。僕はなんとか亜希子の肩をつかみ落ち着かせた。
「あっちゃんが引越した年だったんだ……」


 僕が強張った口調で話し始めた所で、玄関の扉が開いた。 



「ただいまぁ」と呑気な母の声。


 タイミングの悪い人だ。と思ったが同時に助かったとも思う自分がいた。


「梅雨明けしたのかしら、外カンカン照りよ」


 二人の険悪なムードに気づかず、すたすたと部屋に入ってきた母親は亜希子を視界に捉えると大声をあげた。


「あっちゃん? やっぱりあっちゃんね! もう、こんな美人さんになってぇ!」 


 ネギが飛び出してるスーパーの袋をほっぽりだして亜希子の手を取る。 


「ご無沙汰してます」


 ぶんぶん手を振られながら困ったように亜希子が答える。


「そうよねそうよね! 名前聞いた時、もしかしたらって思ったのよ! もう、明信!あっちゃんなら先にあっちゃんだって言いなさいよね」


 僕は苦笑するしかなかった。


「あら、やだ、こんなに暑いのに扇風機もつけないで。明信、あっちゃんにアイス出してあげた? 冷凍庫にあったでしょ!」


 母は扇風機を回してエアコンをつける。

「ちょっと!ちゃんと部屋掃除したの? あらやだ、こんな散らかしたままでよく女の子呼ぶ気になれるわね。そんなんだから彼女もできないのよ! そうだ、あっちゃん。うちの明信もらってくれない? なんてね! あっはっは」


 一気にまくしたてて、かき乱すだけかき乱して、一息ついてからようやく二人の空気を察したのか、きょとんとした顔になった。

「なに? 喧嘩中だった?」


「違う。姉ちゃんのこと、話してた」


 母親の表情が曇る。一瞬で全てを察知したようだ。

「晶子のこと?」

 それまでのおばちゃん臭全開の口調からは考えられないほどのトーンダウン。


「うん」僕は頷く。母の表情の意味も分かっている。僕のことを気にかけてくれているんだ。


「本当なの? アキ姉が……、その、亡くなったって」


 母親の顔が変わる。優しい顔、小さな子を慰めるようなそんな優しい顔だ。母のそんな顔、久しぶりに見た。


「あっちゃん。本当よ」


「そんな……」亜希子は両手で顔を覆いその場に座り込んだ。


「なんで、なんで……」と嗚咽混じりに呟いている。


 母が亜希子を抱き締める。


「あっちゃん。ごめんね。事故だったのよ。私がしっかり見てればこんなことにはならなかったんだけど」


「嫌……、そんなの嫌」亜希子の嗚咽は激しくなる。


「明信、醤油買ってくるの忘れちゃったんだけど、コンビニ行ってきてくれない?」
 母親が背中で言う。


「まだ戸棚にあったよ」そう言いながら、僕は分かっていた。母の言葉の意味を。
「いいから」母親の強い口調。予想通り、期待通りの母の言葉。

 僕は核心に触れることなく、自分の手を汚すことなく、いつもこうやって逃げていたのだ。母の優しさに甘え、隠れ現実から目を背けてきた。仕方ない。いいんだ。僕が悪いわけじゃないんだ。


「わかった」と答え、部屋を出ようしたが、立ち止まる。


 違うんだ。逃げちゃだめなんだ。



 晶子がなぜ事故にあったのか。なぜ道路で遊んでいたのか、誰かに問われると母はいつも自分のせいだと答えた。親の自分がよく言い聞かせなかったからだと。


 その言葉は尋ねてきた人ではなく、後ろで震えている僕に向かって言っていたんだ。自分のせいで姉が死んだと僕が思わないように、母親はそう言ってくれていたのに。


 僕は母親の影で震えながら聞いていて、でも母のその一言を聞くと安心した。僕はいつも母親のこの言葉を、自分は悪くないんだという自己弁護に利用していたんだ。 
 そして、時にはあろうことか、母親の言葉を都合のいいように捻じ曲げ母を憎むことさえあった。


 僕は逃げていた。ずっと。でも、もう、逃げちゃだめなんだ。僕はちゃんと事実を受け止めなくちゃいけないんだ。


「母さん!母さんが買ってきてくれない? あと、アイスも」


「明信?」


「お願い。もう僕、俺もちゃんと向き合わなきゃいけないんだよ」


 母は不安そうな表情だったが、僕が目を逸らさず言うと、小さく頷いて立ち上がった。


「わかったわ。棒アイスでいいんでしょ」


「いや、ハーゲンダッツが食べたいんだ。期間限定のやつ。無性に、今すぐ」


 おどけて見せた。精一杯の強がりだった。 


「ふふ、わかったわ。スーパーに戻るから三十分はかかるからね」


「ありがとう」

 部屋には僕と亜希子が残された。


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