第8話

 コンビニから約五分、二度目のメゾン中町。怪奇植物の巣みたいなアパート。雨に濡れる庭木は不気味だった。

「送ってくれてありがとね」と亜希子は笑顔を見せた。


 正面から女の子に微笑みかけられてしまうと少しドキッとする。いかん。いかんいかん。彼女は柳川系。不気味な柳川系。

 そうだよ、学校では近寄るなオーラを出すくせに、校外で会うと馴れ馴れしいなんて怪しすぎるよ。

 そう思った矢先。



「そうだ、あのCD聞きたい?」


「CD? 金比羅団の?」


「そ。この前、貸してあげようと思ったのに、急に青白い顔して帰っちゃったから」

 あの時のことだ。意外と亜希子は洞察力に優れている。あの日、僕は亜希子にきょうだいのことを聞かれて気が動転した。逃げるように部屋を出た。

 あの時は本当に動揺したのだが、日が経つにつれて、あの日の亜希子の台詞は何かの間違いか、ただの勘違いに違いない、という気持ちが大きくなっていた。

 だけど、さっきの言葉で結論は出た。中三の七月に転校してきたのなら、絶対に僕の過去など知らない。

 そう結論が出ると、あの日、顔面蒼白で逃げ帰った自分が恥ずかしかった。


「てか、何? 貸してくれるの? いいの? レア物なのに」


「別にいーよ。送ってくれたお礼」


「やったー!!」

 思わず叫んでしまった。笹井って良い奴じゃん! 

 さっきまで怪しがっていたくせに、CDを貸してくれると聞いたとたんに良い奴だと思ってしまう現金な自分がいた。

「大げさだよ」と笑う亜希子は可愛らしい普通の女の子の顔だった。


「じゃ、とってくるね。待っててもらっていい?」


 亜希子は階段を上る。


「部屋の前まで来てなよ。ここじゃ雨に濡れちゃう」

「うん、サンキュ」

 亜希子の後ろをついて階段を上る。


「本神リューヂが好きな人が周りにいなくてさ、笹井が初めてだよ」


 亜希子の背中に話しかける。


「私、中学時代はホントずっと本神リューヂ漬けだったんだ。いっつもCD聞いたり本読んだり」


 暗い部屋で暗い顔をして亜希子が音楽を聞いている様子は容易に想像がついた。それは僕の勝手な想像だけれども、現実とそれほど差異はないような気がした。

「私さ、馬鹿だからさ。リューヂの書く歌詞とか小説とかって私のことを書いているんだと思ってたんだ。凄い! 私のこと全部言い当ててるって。辛いときとかに聞くともうだめ。ヘッドフォンで聞きながら泣いちゃったりね」

 俗に言う『メンへラ』という奴だろうか。

 前を歩いている亜希子の表情は見えないし、その背中からは亜希子の感情は読み取れない。

 でも、亜希子の思いはなんとなく共感できた。


「俺もさ、同じだよ。綺麗事しか歌わない今時のjポップなんて聞いていらんないよ。でも、リューヂさんの歌は下手だけどな」


「ふふ、そうだね、歌は上手くないよね」

 二人は笑った。友達同士みたいに笑った。


「笹井、アドレス教えてよ」


「えっ」と亜希子はたじろぎ返答に困ったような声を上げた。


 僕はその仕草に気づかないふりをして携帯電話を取り出していた。別に何の気があったわけでもない。クラスメイトでアドレスを知らないのはごく一部だった。仲の良悪に関わらず、連絡の取る取らないに関係なく、クラスメイト同士はアドレス交換をするのが習慣になっていた。

 だから、話の弾みで出た本当に何気ない提案だった。

 後から考えれば、これが果たしてよかったのかわからない。


「持ってるっしょ?携帯」


「うん、持ってるけど……」


 亜希子はショルダーバックから携帯電話を取り出した。


「こういう感じでアドレス交換なんてしたこと無かったから、やり方わからないんだけど……」


 亜希子が照れたように笑う。

「え? マジ? 俺第一号?」


 ホントに友達いないんだな。僕は亜希子から携帯を受け取りアドレスを表示させた。

「へー、そうやってやるんだぁ」

 亜希子が僕の手元を覗き込む。ほんのりと甘い香りがした。僕が彼女のほうを向くと至近距離で瞳が合った。

 一瞬、見つめあったまま時が止まる。茶色がかった光を放つ虹彩。綺麗な瞳だった。

「あ、じゃあ、それやってくれてるこの間にCD取ってくるね」


 ぱっと瞳を逸らした亜希子はそう言い残すとそそくさと部屋に入ってしまった。

 僕は直立不動で部屋に入る亜希子を見送った。


 扉が閉まると、ようやく肩の力が抜けた。なんでこんなにドキドキしてしまったんだろう。亜希子の意外と大きな瞳。甘い髪の匂い。コンビニ前での笑顔。

 いかんいかん。何を考えているんだろ

 一息ついて、壁にもたれ考える。雨は止む気配を見せない。

 考える。亜希子は本当は学校でもこういう風に話せる友達が欲しいんじゃないかな。入学当初に上手くみんなとコミュニケーションがとれなかったから、ずるずるとひとりぼっちになってしまってるんじゃないだろうか。


 僕は自分の中学時代を思い出してみた。僕だってなんとか友達ができたからよかったけど、もしできていなかったら、今の亜希子のようになってしまっていたかもしれない。


 僕は小学校を卒業して中学に入学する間の短い春休みに、この街に引っ越してきた。と言っても前に住んでいたアパートから電車で三駅の距離だったので、そこまで大掛かりな引越しではなかったし、電車通学で友人達と一緒の中学校に通うという選択肢もあったのだが、そうはしなかった。

 母子家庭で家賃を抑える為に引っ越したのに、定期代なんかを払っていたら本末転倒だからだ。母親を困らせたくはなかった。

 そうして僕は蔦巻つたまき中学校へ入学することになった。

 僕は知り合いの誰もいない中学校に入り、そして、友達作りに苦労した。当時の僕は上手く笑う事ができなかったからだ。皆ができる作り笑いが僕にはできなかった。

 入学して数週間、気がついたら既に周りでは友人関係が出来上がっていた。僕はその輪の外にいた。回り始めたメリーゴーラウンドに途中から乗り込むのは困難だった。

 友達はいなかったが、小学校で野球チームに入っていた事もあり野球部に入った。しかし、そこでも上手く馴染めなかった。 

 キャッチボールの相手もいなかった部活の日々。初めて一緒にキャッチボールしようと言ってくれた奴のあの時の顔は今でも覚えている。

 僕はたぶんあの日を忘れないだろう。作り笑いはぎこちなかったけど、でも僕は本当に嬉しかった。そして、その時に気付いたのだ。

 この場所には僕のことを知っているやつはいなんだ。何も知らない奴しかいないんだ。

 なら、僕はやりなおせるんだ、と。


 扉が開き、亜希子が戻ってきた。


「お待たせ、はい。コレ」


 亜希子がCDの入った紙袋を差し出す。学校では見せない笑顔。

 亜希子は僕と同じなのかもしれない。なんとか、力になれないだろうか。僕はそう思った。

 皆に変な目で見られるかもしれないが、学校でも話しかけてみようと思った。なぜなら、こうして会話している亜希子は本当にどこにでもいる普通の女の子なのだから。

 毎日通っている学校に心を許せる相手がいないなんて、悲しいことだ。そんなの亜希子だって本当は望んでいないだろう。

 今はちょっと小さな歯車が狂っているだけだ。それなら、その歯車さえ直せば上手くいくはずだ。決して難しいことじゃない。


「じゃ、また機会があったら」


 亜希子はそう言って扉を閉めようとした。


「あ、ちょっと待って」


 亜希子が閉めかけたドアを開く。僕は意を決して口を開いた。


「なんでさ、学校の時はあんなに暗い顔してんのさ」

「え……」亜希子は目に見えて不快な顔をした。だけど僕はやめなかった。


「こうやって話してる時は普通じゃん、こんな感じなら友達だって普通にできるよ?」


 アドバイス、なんて言ったらおこがましいけれど、なんとか亜希子が自発的に動いて欲しいと思ったんだ。

 亜希子は一瞬だけ、本当に一瞬だけ泣きそうな顔をした。


「私ね、貴方とは違うんだよ。私には友達なんかできないよ」

「そんなことないよ。絶対」

「ううん。出来ないって言うよりも、私ね、ホント言うと友達なんかいらないんだよ」


 口元を緩めて亜希子が言う。諦観の漂ったその苦笑は、まるで自分だけが悲劇のヒロインであるかのような、そんな表情だった。

 亜希子の表情は数年前の僕のそれと同じだった。僕も同じように考えたことがあった。友達なんかいらないと。

 でも、それは強がり以外の何物でもない。

「友達がいらない? そんなことないだろ? 大丈夫だって。だから学校であんな暗い顔すんなよ」

 僕はムッとして言い返したが、対照的に亜希子は静かに首を横に振った。

「違うよ。本当にいらないの、高校で友達なんて」


 反発の言葉を投げかけようとした僕の瞳には、先程までとは別人のような表情の彼女が映っていた。


「気持ちは嬉しいけど、余計なことはしないで。私はね。中卒が嫌だから通ってるだけなのよ」

 きっぱりと言い放った亜希子。

 亜希子の口から吐き出された言葉には言いようの無い重みがあった。 


「教室じゃいつも反吐が出そうになるのを必死で耐えてるの。あの馴れ合いの猿芝居にね」

 学校で見せる、すべてを拒絶するかのような、あのドロリとした瞳の亜希子が現れた。さっきまでの明るい亜希子の声とは、まるで違う器官から発せられているかのような暗い言葉。そこに亜希子が学校で見せる負のオーラが集約されているようだった。僕は何も言えずただその言葉を突きつけられていた。


「女ってね。自分は仲間外れにされたくないくせに、誰かを仲間外れにはしたいのよ。馬鹿よね。物事を相対的にしか見ることしか出来ないの。誰かを蔑むことで自分の幸せを実感するのよ。なら、いいじゃない。私が仲間外れになってやってるんだから」

 ふふふと笑う亜希子、コンビニの前で見せた可愛らしい笑顔ではない。ぬたっとした笑顔。


「男なんかみんなガキ。ガキで馬鹿で浅はかで、自分のやったことに責任なんか、一つも取れないくせに図体ばっかり大きくなって、欲望を埋めるためだけに無い頭をひねって悪巧みするの。でも結局最終的に使うのは頭じゃなくて暴力よ。哀れなものね」

 亜希子は何処を見ているのだろう。僕のほうを向いてはいるが、僕のことなど見ていないようだった。


「教師にしたってそうじゃない。大学出てなんにも社会のこと知らないのに偉そうにして、人生とは、なんて語るのよ。下手なお笑い芸人より面白いと思わない? なんでみんな笑わないのかしら。生徒も教師も誰も彼も、僕たちが青春の主役です、学校が青春の舞台です、みたいな顔して。つまらない劇を演じてるのね。現実の醜さなんて、これぽっちも知らないのに」


 決して感情を込めたような口調ではない。それでもその言葉からは十七歳の女の子とは思えないほどの、暗く深い闇が垣間見えた。

 怒りや悲しみといった簡単な言葉では表せないような複雑な表情。

 彼女はくだらないクラスメイトや教師に怒りや憎しみを抱いているのか。それとも、つまらない高校生活自体を悲観視しているのか。

 否、そんなに軽いものではない。彼女はこの世界そのものに絶望しているのだ。

 怒りや憎しみや悲しみ、そんな人間らしい感情を出すことすら意味を成さないと、もう諦めているのだ。

 僕はようやく自分がとんでもない思い違いをして、強烈な地雷を踏んでしまったことに気がついた。

 亜希子の闇に不用意に踏み込むべきではなった。

 余計なことを口走った自分に後悔してしまうほど、亜希子の言葉には念がこもっていた。


「はは、そうなんだ」


 圧倒されて苦笑いしかできない。

「希望とか夢とか、無邪気に語れて羨ましい部分もあるけどね。私には無理だから。私には未来なんてないから」


 亜希子の言葉の真意が分からず、何も答えられないでいると、彼女は自分自身に言い聞かすようにもう一度、私には未来なんてないんだよ。と呟いた

「私はもう生きてさえいないから」

 冗談だとは思えない程の暗い表情だった。

「でもね……」

 俯いて少し溜めを作ってから、亜希子はこちらを向いた。

 怖いくらいの満面の笑みだった。


「大丈夫。明信くんだけは他の人とは違うこと、わかってるから」


 背筋がゾッとした。

「CD。聞き終わったら感想聞かせてね。おやすみ」

 亜希子は振り返ることも無く部屋に入り扉を閉めてしまった。パタンと気が抜ける音だけを残して。


「な、なんで俺だけは違うの?」

 誰も居ない通路。僕の声は闇に溶けて消えた。



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