エピローグ


「……お目覚めですか?」


 聞き慣れた声が降ってくる。


 見上げると、番頭さんの顔がそこにある。

 少し顔を上げるだけで、鼻先と鼻先がくっつきそうな至近距離だ。


 頭の下が柔らかい。

 どうやら番頭さんに膝枕をされている状況らしい。


「ここは……?」

「縁側です」


 確かに見慣れた松の湯の庭先。

 客が湯冷ましに訪れる場所だ。


 植え込まれた木々が橙色に染まり、夕暮れ時であることを告げている。

 枝々の葉が微かに揺れ、流れてくる風が涼しく気持ち良い。


「湯当たりして倒れたんだっけ……?」

「小一時間くらいです」


 番頭さんから離れて、ゆっくりと起き上がる。

 多少ふらつくし、サウナ室で床と肌が触れている部分はひりついた。

 サウナ勝負では痩せ我慢をし過ぎてしまったようだ。


 だがそれで番頭さんを元に戻すことができたなら安いもの。

 彼女の目の下にもう隈はない。黒い不可解な光も身にまとっていない。

 もう蚤の王とかいう変なのに取り憑かれてはいないようだ。


「店……お客さんたちの具合は?」

「大事ありません。霊薬のおかげです」

「大損こいたね。まあその程度なら何よりだ」


 若旦那は笑いながら、ほっと溜息をついた。


 少々高くついてしまったがお客の安全には変えられない。

 偶然に持っていた霊薬だったが、最も役に立つ形で、使用できたようだ。


「その程度」


 番頭さんの声が少し尖っていた。


「その程度ではありません。若旦那はサウナに長居をし過ぎて倒れたんです。結果的に助かったから良かったですが、無茶をし過ぎでした。あの設定温度はありえません。下手をしたら死んでいたでしょう」

「お、おう」


 番頭さんが怒りながらそう言ってくる。


「そもそも何故、私を『出禁』にしなかったんですか? さっさと私を異世界に送っていれば、松の湯も若旦那も危険に晒されずに済んだ筈です」

「……」


 どうやら何かの地雷を踏んだようだ。

 彼女をよく見るといつもより少しだけ張り詰めた表情をしている。


「理屈から言えば、ああいう事情の場合、私という人手よりも安全管理を優先すべき場面だったと存じます……」


 彼女の言う事はもっともだ。

 だが彼女の『安全』という言葉のなかに、彼女自身が含まれていない限り納得のできる話ではない。


 ただ当の番頭さんは目からぼろぼろと涙を零し出していた。


 怖い思いもしたのだろう。

 大昔、番頭さんは病に冒されたせいで、その意思に関係なく、多くの命を奪ってしまったと聞いたことがある。

 その過ちを、もう一度、行いそうになったのだから。


「うん。その、心配かけてすまなかったよ」

「……」

「ただ店がまわんねえとか云々よりもさ、番頭さんと離れ離れになるのは嫌だもの。だから多少の無茶はさせておくれよ」

「だっ、だっでっ、ぐっ」


 番頭さんは何かを言おうとしたが、何も言えずただ襟元を握ってきた。

 彼女の頭にそっと手を回して、胸で抱きとめる。


「サウナってえのはあんまり格好がつかない方法だけど、それでも助けることができて良かった」


 番頭さんは嗚咽のせいで上手く喋れず、それでも「だずがっでっ、よがっだっ、でず」と告げてくる。



「本当に助かってよかったねえ」

「ぐす……私もらい泣きしちゃった」

「若いとは、実に素晴らしいのう」


 どうも視界の端々にちらつくものがある。

 ぞろぞろと近づいてくる見知った顔の連中。


「わしは甘酸っぱくて見ていられんぞい」

「けっ所詮、人間は盛りのついた猫と一緒にゃ」

「いっしょにゃ」

「ちゅーする?」

「にやにや」

「正直、むず痒いな」

「まったく人目のある場所で、羨ま、いや怪しからん」

「じーっ」

「私も青春がしたいです」

「主よ、この者たちに」

「祝福あれ」


 言わずと知れた松の湯の常連たちである。

 彼ら彼女らはどうやらまだ帰っていなかったらしい。


 番頭さんの言う通り、皆、怪我などはないようで何よりだ。

 若旦那はほっと安心すると共に、心の底から「さっさと帰ってくれねえかなあ」と思うのだった。


              【異世界銭湯 〜松の湯へようこそ〜 了】(一先ずは)

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