エピローグ
◆
「……お目覚めですか?」
聞き慣れた声が降ってくる。
見上げると、番頭さんの顔がそこにある。
少し顔を上げるだけで、鼻先と鼻先がくっつきそうな至近距離だ。
頭の下が柔らかい。
どうやら番頭さんに膝枕をされている状況らしい。
「ここは……?」
「縁側です」
確かに見慣れた松の湯の庭先。
客が湯冷ましに訪れる場所だ。
植え込まれた木々が橙色に染まり、夕暮れ時であることを告げている。
枝々の葉が微かに揺れ、流れてくる風が涼しく気持ち良い。
「湯当たりして倒れたんだっけ……?」
「小一時間くらいです」
番頭さんから離れて、ゆっくりと起き上がる。
多少ふらつくし、サウナ室で床と肌が触れている部分はひりついた。
サウナ勝負では痩せ我慢をし過ぎてしまったようだ。
だがそれで番頭さんを元に戻すことができたなら安いもの。
彼女の目の下にもう隈はない。黒い不可解な光も身にまとっていない。
もう蚤の王とかいう変なのに取り憑かれてはいないようだ。
「店……お客さんたちの具合は?」
「大事ありません。霊薬のおかげです」
「大損こいたね。まあその程度なら何よりだ」
若旦那は笑いながら、ほっと溜息をついた。
少々高くついてしまったがお客の安全には変えられない。
偶然に持っていた霊薬だったが、最も役に立つ形で、使用できたようだ。
「その程度」
番頭さんの声が少し尖っていた。
「その程度ではありません。若旦那はサウナに長居をし過ぎて倒れたんです。結果的に助かったから良かったですが、無茶をし過ぎでした。あの設定温度はありえません。下手をしたら死んでいたでしょう」
「お、おう」
番頭さんが怒りながらそう言ってくる。
「そもそも何故、私を『出禁』にしなかったんですか? さっさと私を異世界に送っていれば、松の湯も若旦那も危険に晒されずに済んだ筈です」
「……」
どうやら何かの地雷を踏んだようだ。
彼女をよく見るといつもより少しだけ張り詰めた表情をしている。
「理屈から言えば、ああいう事情の場合、私という人手よりも安全管理を優先すべき場面だったと存じます……」
彼女の言う事はもっともだ。
だが彼女の『安全』という言葉のなかに、彼女自身が含まれていない限り納得のできる話ではない。
ただ当の番頭さんは目からぼろぼろと涙を零し出していた。
怖い思いもしたのだろう。
大昔、番頭さんは病に冒されたせいで、その意思に関係なく、多くの命を奪ってしまったと聞いたことがある。
その過ちを、もう一度、行いそうになったのだから。
「うん。その、心配かけてすまなかったよ」
「……」
「ただ店がまわんねえとか云々よりもさ、番頭さんと離れ離れになるのは嫌だもの。だから多少の無茶はさせておくれよ」
「だっ、だっでっ、ぐっ」
番頭さんは何かを言おうとしたが、何も言えずただ襟元を握ってきた。
彼女の頭にそっと手を回して、胸で抱きとめる。
「サウナってえのはあんまり格好がつかない方法だけど、それでも助けることができて良かった」
番頭さんは嗚咽のせいで上手く喋れず、それでも「だずがっでっ、よがっだっ、でず」と告げてくる。
「本当に助かってよかったねえ」
「ぐす……私もらい泣きしちゃった」
「若いとは、実に素晴らしいのう」
どうも視界の端々にちらつくものがある。
ぞろぞろと近づいてくる見知った顔の連中。
「わしは甘酸っぱくて見ていられんぞい」
「けっ所詮、人間は盛りのついた猫と一緒にゃ」
「いっしょにゃ」
「ちゅーする?」
「にやにや」
「正直、むず痒いな」
「まったく人目のある場所で、羨ま、いや怪しからん」
「じーっ」
「私も青春がしたいです」
「主よ、この者たちに」
「祝福あれ」
言わずと知れた松の湯の常連たちである。
彼ら彼女らはどうやらまだ帰っていなかったらしい。
番頭さんの言う通り、皆、怪我などはないようで何よりだ。
若旦那はほっと安心すると共に、心の底から「さっさと帰ってくれねえかなあ」と思うのだった。
【異世界銭湯 〜松の湯へようこそ〜 了】(一先ずは)
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