松の湯 (中①)

「……成程、ここがマツノーユか」


 広間に出た。

 濡れたタイル張りの床の先には、囲いによって蓄えられた水場がある。

 なかでは何人もの裸の男たちが身を沈めていた。表情を見るに実に心地よさそうで、鼻唄をうたう者たちまでいる。


「本当に沐浴が推奨されているようだな」


 老人――教皇/蚤の王はふんと鼻を鳴らす。


 沐浴など害悪でしかない。

 人間の間で身体を洗い垢を落とすような習慣が広がれば、眷属たちは寄生し難くなる。

 そうなれ下等な獣どもに住みつかざるを得なくなるし、疫病も広まらなくなる。


「『清貧』こそ推奨されるべき教え! 異端者は、極刑に値する!」


 早速、場を制圧するべく『眷属召喚の呪文』を行使した。

 床を突いた錫杖の先端より、黒色の有象無象がわっと沸きだし、あたり一面を黒色に染めていく。


 これらは強化された人喰い蚤たちだ。

 一噛みでもすれば、即座に黒死病を感染させる。一斉に群がれば、症状を悪化させ、魔獣すら昏倒させられる威力を持つ。

 彼らの肌に、僅かにでも、例え一匹でも触れたその瞬間、こちらの勝利は確定する。


「マツノーユはこれで終わりだ‼︎」


 簡単な話だ。

 もしこの万病を退けると謳われていた泉で『黒い霧』が発生したらどうなるか。

 その場にいた人間たちが『黒霧の病』によって病死すればどうなるか。


 当然の如く、聖地としての権威が失墜する。

 人間どもはそれだけで「沐浴は無意味な行為だ」と認識を改めるだろう。寧ろ、沐浴をしたからこそ病気になったのではと思う違いない。

 そして信徒たちは『清貧』の教えだけを信じるようになる。

 全ては種の繁栄の為。


 だが――。


 突如、人喰い蚤の侵攻が止まる。

 泉の手前まで到達したところで、まるで見えない壁に阻まれたように進めなくなる。

 明らかにこちらの術に対抗する何かが仕掛けられていた。


「……何をやっておるのだぞい」


 水場からしゃがれた声がかかる。

 見ると肩を沈めていた背の低い老人がゆらりと立ち上がっていた。

 両掌を突きだし拒むような構えを繰り出しているところから察するに、何らかの魔術を行使しているようだ。


「……魔術師がいたか」

「人喰い蚤を操るとは……何者ぞい?」


 教皇/蚤の王は返答せず、更に『眷属召喚の呪文』を行使した。

 錫杖で床を突くと、これまで以上の数の人喰い蚤を呼び、援軍とさせる

 蚤の軍勢は勢いを増し、不可視の壁との境界線をせめぎ合うようにしながら、徐々に押し進めていく。


「攻め切ってしまえば、ことは済む‼︎」

「無意味ぞい‼︎」


 だが老魔術師が嗤った。

 何かを握りつぶすように、ゆっくりと握り拳を固める仕草を見せる。


 連動するように蚤たちが震え始めた。

 異変――次々にぼうと青色の炎に包まれていく。

 蚤だけを対象にする焔の呪文のようだ。数百万の眷属たちが跡形もなく消失していく。


「これぞ『蚤の殺しの呪文』ぞい」

「忌まわしい。呪わしい……‼︎」


「何というか穏やかな雰囲気じゃあないのう」

「服着てない客が何してるのにゃあ」

「つーか傭兵舐めんなよお?」

「何だまた教会の奴か」

「おれらの銭湯汚してんじゃねえよお?」


 今のやり取りを見て、泉のなかから次々と立ち上がる者たちがいる。

 ドワーフ、猫人族、その他屈強な身体つきの男たちだ。

 彼らは戦いの場に慣れている者たちばかりのようで、拳を作ったり、構えを取り出したりと、既に臨戦態勢に入っていた。


「ふん驚いたな。強き魂の持ち主ばかりだ」


 蚤の王の『審美眼』が告げていた。

 目の前にある魂どもはいぶし銀に輝いている。どうやら彼らは異世界出身の腕利きの魔術師や、歴戦の戦士ばかりのようだ。


「あれは教皇……?」

「猊下……何故ここに?」


 更には見知った者たちまでいる。

 沐浴を推進する教会の幹部連中だ。


 成る程。

 恐らくこのマツノーユは有力者にとってサロンのような役割も担っているのだ。

 やはり沐浴推進運動を撲滅する上で、ここは確実に潰しておく必要があるだろう。


「……さて」


 状況は少々、厄介だ。

 あの老魔術師と『退病』の使い手が二名いるせいで、『眷属召喚の呪文』は無力化する。

 まともな正攻法では勝ち目薄い。


 ただ幸いにも、寄生先は選り取り見取りだ。

 腕力に自信がありそうな者たちが大勢いるので、乱戦に持ち込み、ドワーフ傭兵辺りを『傀儡』にすれば状況は覆せるだろう。


「さて誰を『手駒』ににしようか」

「店内でのあらゆる魔術行使はマナー違反です!」


 ふいに後ろからかけられる声。


「……ほう!?」


 教皇/蚤の王は振り返り、思わず感嘆の声を上げる。


 そこにいたのは人間の女。

 衣服を纏っているところを見るに、この泉の管理者なのだろう。

 だが『審美眼』が、彼女が見た目通りではない事を告げていた。


 人の姿を模してこそいたが、その正体は別種。

 それは鋼を裂く爪を振るい、剣や矢を弾き返す鱗で鎧い、都市を燃やし尽くす息を吐く、異世界最強の生物だ。


「よもやこのような場所で竜ドラゴンと出くわすとは……‼︎」


 思ぬ拾い物だ。

 彼女こそ、蚤の王の宿主に足りうる存在。


「良かろう。貴様を『手駒』にして遣わそう」



「うへえ……ったく何なんでえ?」


 若旦那は腕や脚についた虫の屍骸を払い落とした。

 先月の害虫駆除検査は問題がなかったはずなのに何故、急に蚤が湧いたのか。


 助かったのは番頭さんののおかげだ。

 Gが苦手な彼女の為に、番頭台にストックしていた殺虫スプレーを撒き散らし事なきを得た。

 その後で、急に具合が悪くなりもしたが、霊薬エリクサーをちょっと飲んだらあっさり良くなった。


 床が蚤の死骸だらけなので、久々に大掃除をする必要がある。

 ただそれは後回しだ。 

 先程から男湯の方からとんでもない物音が聞こえてきている。まるで重機で彼方此方を解体工事しているかのようだ。


「何が起きているのかさっぱりだ。でも放ってはおけねえ」


 若旦那は作務の片袖を捲り、男湯に向かうことにした。

 暖簾を潜り更衣室に到着すると、ふいに喧騒が止み、不気味なほど静まり返っていた。


「うう……」


 呻き声。

 誰かが倒れている。


 ワグナードだ。

 常連客の一人で高名な老魔術師だ。

 最近は亡くなった友人の娘の相談に乗るべく毎日のように松の湯に通っていたのだが、今は顔色を青ざめさせ、息も絶え絶えの状態だ。


「ワグの旦那、しっかりしろい」

「おお……若旦那……」

「一体どうしたんですかい?」

「分からん……男は倒したのだが……うう」


 あちこちに痣や擦り傷を作っていたが、苦しんでいる原因は別にあるようだ。

 息を荒くして身をよじらせている。


「さあこいつをお飲みよ」


 若旦那はワグナードに霊薬を飲ませると、先に進むことにした。

 何やらただ事ではない事態になっているようだが、店主としてこの状況を見過ごすことはできない。

 武器らしい武器はなかったが、掃除用具入れから引っ張り出したモップを手に取り構える。なかったが何もないよりはマシだろう。


 それから浴室の入口までたどり着くと、思い切って引き戸を引いた。


「うおっ……何てこった!?」


 浴室は本当にとんでもないことになっていた。

 まさに惨状と言う他ない。

 まるで化け物が暴れた跡のように、ペンキ絵や床に大きなひびが入り、カランの一部が破壊され、破裂した水道管から水が噴き出している。


 また客たちが一人残らず倒れていた。

 ボルケーノ、ドラクロア、名もない傭兵、オーク似の旦那方。誰もかれもが苦悶の表情を浮かべ、呻き声を上げている。

 見たところ怪我を負う者もいたが大事には至っていない。

 ただワグナードと同様、何か別の原因に苦しんでいる様子だ。


「……番頭さん?」


 ただ一人だけ、立っている者見つける。


 だがそこにいる彼女は、明らかにいつもと様子が違う。

 目の下に大きな隈ができており、何故か全身に黒い霧を纏っている。


 だが決定的なのは、笑みだ。

 普段の何気ない表情の中に僅かに見える優しさが欠片も消え、代わりに見下すような嘲りような邪悪な笑みが浮かんでいた。


 暴れた客を取り押さえただけの場面ではない。この破壊の有様はどうみても彼女の仕業だった。


「番頭さん、一体どうしたんですかい!?」

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