ドワーフの湯 (後)


「……ふう大変な目にあった」


 一人残されたボルケーノは溜息をついた。

 出口が分からなくなり、歩き回っているうちに吸い寄せられるように辿りついたのは泉だった。

 王族の庭園にあるような立派な石造りの囲いで造られた人工物。

 そこからは白い蒸気が立ち上り、懇々と温かい水が湧き出していた。


「ふむ?」


 覗き込むと顔にほんわりと蒸気が当たる。

 目の前の水はまるで人里離れた湖のように濁りがなく、驚くほどの透明感だ。

 これだけのものを調達し、これだけの量を熱するのに、一体どれだけの手間と費用がかかっているのだろう。


「……」


 ボルケーノはどうしても湯のなかに入ってみたくなっていた。

 何故なのかは分からないが、それを食欲や眠気、性欲にも勝る本能のように感じていた。

 探るように視線をさまよわせる。


 そして他の客らしき人物――枯れ木のような老人を見つける。

 彼ははすでに泉のなかにいた。

 手拭いを頭頂部に置き、湯のなかへとっぷりと浸かって気持ちよさそうに鼻歌を唄っている。


「「……」」

 ふと老人と目が合った。

 どうすればいいのか分からず助けを求めるように視線で訴えると、厳めしい顔つきで頷き返してくる。

 その目は「存分に入ればいい」と語っていた。


「では……失礼する」


 ボルケーノは意を決すると、彼のように手拭いを四隅を揃え折り畳み頭に乗せた。

 よくは分からなかったがそうするのが、ここでのしきたりだと直感したからだ。

 それからゆっくりと慎重にひざを湯に入れ、膝、股と順に沈ませていき、最後に尻が浸かったあたりで――。


「……ほう」


 思わず溜息が零れていた。

 腹の底から沸き上がる安堵と、喜び、そして感動からくる溜息だった。


「何という……心地良さだ……」


 まるで凍り付いていた全身体が、陽の光を浴びて溶けていくような感覚だった。

 ドワーフにとって湯というものは茶葉を入れ飲むものであり、料理に使う為だけのものでしかない。湯に浸かるという経験など一度もないし、想像すらしたこともなかった。


「だが……この泉は……故郷を思い出す……」


 かつての故郷である鉱山町にも似たものがあった。

 それは岩窟浴と呼ばれた施設。蒸気が発生する坑道を利用した蒸し風呂だ。

 街のドワーフの男たちは肉体労働の終わり、そこ赴き、皆そこで身体の汚れと、疲れを落とし、最後に麦酒を飲んで一日を終えるのだ。


 ふと顔を上げると、そこに山岳が浮かんでいた。

 壁一面に巨大な絵画があった。

 絵についての見識はなかったが、恐らくは名のある画家が書いたに違いない。雲海の衣を纏い、雪の冠を被った、雄々しいその山はどこか故郷の、大山脈の風景を思い出させた。


「懐かしい……数十年も昔の話だ……」


 ボルケーノがゆっくりと目を閉じると洪水が起きた。

 それは記憶の奔流――これまでの人生の出来事が一気に押し寄せ、通り過ぎていくような感覚だった。



「入浴マナーは絶対なのです」


 番頭台に戻ってきた番頭がむふーとを息巻いている。

 妙に満足そうな表情だ。


「うーむ……」


 若旦那はスポーツ新聞から顔を離して、眉間に皺を寄せた。

 多分、あのドワーフの背中を流してやっていたのだろう。

 番頭は不衛生な異世界人を見ると、身体を洗ってやろうとする癖がある。

 良い心掛けだとは思うのだが、少々手荒なところが問題だった。

 流石に怪我を負わすような真似はしていないと思うが、万が一の可能性もありえた。


「ちょっ、ちょっと湯加減を見てくるわ」


 急にドワーフの安否が気遣わしくなってきた。


「おや私が行きましょうか?」

「良いから良いから。番頭さんはこれでも読んでな」

「はあ」


 スポーツ新聞を押し付けると、若旦那はハラハラしながら男湯に向かった。



「あの頃、わしはしがない鉱山堀りだった」


 ボルケーノは大山脈の麓で生を受け五十余年、炭坑街から出ることなく暮らしていた。

 だがある日、人生が一変した。

 あの黒死の霧によって街が占領されたのだ。

 仲間たちは皆、病で死に絶え、スケルトンとなり果てた。

 ただ一人、ボルケーノだけは旧坑道から逃げ、生き延びることができた。


「だから誓ったのだ」


 生涯を賭け、黒い霧を止めることを――。

 今もまだ屍者たちに支配された炭坑街を解放することを――。

 それから同志を集めてまわりながら、各地を旅した。

 苦難の連続だったが、ついに黒死の霧を払う手がかりとなる古文書の在処を突き止めた。


「そうだ、自分には果たすべき使命がある」


 今はまだ旅路の途中だ。

 すぐにでも仲間のいるあの古城に帰還しなくてはいけないのだ。


「むう?」


 だがしかし、どういうわけか四肢の力が入らない。

 すぐに立ち上がらなくてはいけないのに、一刻も早く出ていかねばならないのに、指一本まともに動かすことができない。

 閉じた瞼を持ち上げる事すら叶わない。

 寧ろ身体からありとあらゆる力が抜け出ていく。

 いやそれどころか、身体そのものが溶けだし、このまま湯そのものとして拡散していくようだ。


「何という……心地良さだ……」

「お湯加減はどうですかい?」


 そう声をかけてきたのはワカダンナだった。

 どうやら自分の様子を見に来たらしい。


「セントウと言ったか……とても素晴らしい……」

「そりゃあ良かった」

「こういう時……人は……一体、何と言うべきなのだろう……」

「それならやはっり『――』だね」


 彼が告げたのは聞きなれない言葉だった。

 聞けば、極楽浄土(ニルヴァーナ)を称える意味があるのだという。

 ボルケーノは不信心だった。祈りの文句も、懺悔も、普段口にはしない。

 だが成る程、確かにその言葉は、今の状況にふさわしいように思えた。

 ワカダンナが「ごゆっくり」と言って去っていくと、再び桶の縁に背を委ねた。

 忘我に浸る。

 そして吐き出すように呟いた言葉は――


「ハア……『ゴクラク、ゴクラク』」



「ああ帰る方法ね」


 ワカダンナに尋ねると「簡単だよ」と笑った。

 どうやら出入り口の暖簾をくぐって、通路を歩いていけば元の場所に『帰還』できるらしい。

 そんな事なら最初から尋ねておけば良かったと思ったボルケーノだったが、すぐに考えを改める。

 遠回りしたおかげで、銭湯を知ることができたのだから良いじゃないか。


「いい湯だった。世話になったな!」

「またのお越しを」

「お待ちしております」


 ワカダンナとバントウに見送られながら、暖簾を潜る。

 そして気が付くと、石壁に覆われた大部屋にいた。

 床には石膏で引いたらしい白い線で魔法陣がいくつも描かれており、ごちゃごちゃと書物やら薬瓶などが散らかった棚が並んでいる――見覚えのある場所だ。


「……うえっ!?」


 目の前には見知った顔がいた。

 エルフの娘っこだ。彼女は目元や頬を濡らしながら、亡霊にでも出くわしたような顔でこちらを凝視している。

 他の仲間たちもぽかんと呆けた顔をしていた。


「あんた……どこから現れたの……?」

「やれやれ、どうやら戻ってこれたようだ」


 その後、仲間たちからどうやって戻ってこれたのか、尋ねられた。

 ボルケーノは適当に誤魔化した。

 あのマツノーユでの体験をうまく説明できる自信もなかったし、説明できたとしても信じてもらえそうもないからだ。


「あの……さっきは御免なさい」


 エルフの娘っ子がしおらしい態度で謝ってきた。

 どうやら彼女は今回の件を痛く、反省しているらしい。


「いや気にするな。お陰で良い体験ができた」

「……?」


 暫くして、探索が再開された。

 エルフはまだ足が痛むらしく杖をつき、引きずるように歩いている。


「御嬢さん、ドワーフの背中に用はないかの?」

「……」


 彼女は顰めっ面になると、杖を突きながら恐る恐るこちらに近づいてきた。

 それから犬のように鼻をひくつかせてくる。


 エルフは病的なまでに潔癖症なのは仕方がないことだ。

 かつて起きた種族間のいざこざの原因も、衛生問題をめぐる価値観の違いが一端にあったと言い伝えられているくらいだ。


 果たして、彼女は驚いた顔になり、まじまじとこちらを見てくる。


「あんたドワーフの癖に臭くないわね?」

「セントウに入ったからの」

「……? まあいいわ。今回だけは背負われてあげる」


 その場にしゃがむと、エルフの娘っこが負ぶさってくる。

 エルフの例に漏れず、普段から木の根とか豆しか食べないので驚くほど軽かった。

 程なくして耳元で早速、「のろま」だの「乗り心地が悪い」だなどと文句やら悪態やらが聞こえてくる。


 まあ照れているのだろう。

 やはり彼女はツンデレだな。

 ボルケーノは持ち前の前向きさを発揮し、そんなことを考えながら、仲間たちとの探索を続けることにした。

                          (ドワーフの湯 了)

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