猟師の湯 (前)
(御入浴における注意事項)
・当銭湯には、魔術師、エルフ、ドワーフなど様々なお客様が来店します。
文化や生活習慣の違いによるトラブルがあっても、お湯に流しましょう。
・入浴マナーを守りましょう。番頭さんを怒らせると大変なことになります。
・当銭湯は刺青・タトゥの方でも気兼ねなく御入浴できます。
◆
『白狼』。
大陸の北端にあり、大山脈によって他の領域から断絶された大地。
一年の殆どが雪で覆われているその場所にも、かつて大帝時代には、囚人を送り込み土地を開拓する計画がなされていた。
だが「彼の地に放り出すのはあまりに残酷だ」という理由で、取り止めになった程、厳しい環境だと言われている。
無論、先住民としてそこに住まう者も少数だがいた。『白狼』の民である。
彼らは土地柄、交易などはほとんど行わず、独自の風習文化を形成していた。
◆
「大変なことになってしまった……」
ハルアは遥か遠くの地上を見上げ、途方に暮れていた。
彼女は『白狼』の村に住む猟師の娘だ。
まだ猟人としては半人前。
普段であれば囲炉裏の前で小さな妹たちの面倒を見て、父の帰りを待つ身だったが、その日は違っていた。
特別な狩りの最中に、雪の割れ目に落ちたのだ。
ようやく『黒毛』を追いつめた矢先、天候が変わり吹雪になり、愛狼とはぐれた挙句、割れ目に気づけず踏み外したのである。
状況は絶望的だ。
目の前にそそり立つのは巨大な氷の壁。
指を乗せる凹凸すらなく、とてもではないがこれは登攀できるような高さではない。
何より落ちた底が雪渓だった。
今、冷たい流水に腰元まで浸かり、体温を奪われ続けていた。
寒い。
愛狼フェンリルの毛並みが恋しい。
祖母の形見の木片の護符を握りしめ、寒さに堪えた。
「……どうしよう」
ハルアは凍えながら、村の事を考える。
村にはもう自分以外に狩りをできる者はいない。
黒毛に襲われ、父を含めた大人五人が怪我を負い、三頭もの橇引き狼が殺されたせいだ。
黒毛は恐ろしい熊の魔物だ。
人里に降りて悪さを働くだけではなく、疫病を広める。見つけたら早急に殺さなくてはいけない。
ここでハルアが死ねば、村や小さな妹を誰が守る者はいなくなるだろう。
「……よし」
気持ちを切り替え、改めて辺りを見回した。
ここは元々滝壺だった場所に違いない。
『白狼』の大地から、春という季節が失われる以前、この辺りには神様の住む滝壺があったと昔話で聞いたことがある。
暫くして凍りついた滝に横穴を見つける。
どこに続いているのか分からないが、運が良ければ地上に出られるかもしれない。
ハルアは祖母の形見の護符を握りしめると、先に進むことにした。
◆
「……?」
おかしい。
今まで暗い洞窟のなかにいたはずだ。
奥で祭壇みたいなものがあり、近づくと床に魔法陣のようなものが刻まれていたのを覚えている。
それがいつの間にか明るい場所にいた。
目の前にあるのは、古ぼけた紺色の大きな暖簾だ。
白抜きで、白狼国のものではない文字。『男』『人界世異』『女』と書かれている。
「……」
潜り抜けると見回すと屋内だった。
天井の明かりが、陽の光のように明るい。
隙間どころかむらのない漆喰の壁と、どんなに重たい雪も防げそうな丈夫そうな柱がある。
奥には部屋全体を見渡せる程、背の高い台。
そこに座る人物がいた。
「いらっしゃい。松の湯へようこそ」
台に座る若者が声とかけてくる。
蒼くない瞳や、僅かに日に焼けた肌、身に纏っている藍染めの薄着から『白狼』の民ではないと窺えた。異国人らしい。
「いらっしゃいませ」と声をかけられた以上、ここは何かの店で、店主なのだろう。
「あの……ここは一体?」
「松の湯という銭湯だよ」
マツノーユ。セントウ。
聞きなれない言葉だ。
店の周りを見る限り、商品も見当たらず何を売っているのかも不明だ。
何だか怪しい。
目の前にいるのは、齢を得て妖術を身に着けた化け狐かもしれない。
ハルアが警戒するように身構えていると、店主は困ったように頭をかいた後、口を開いた。
「おれは若旦那って言うんだ」
ワカダンナ。変な名前だ。
やはり『白狼』の民ではないようだ。
「ええとお嬢ちゃん、その恰好見ると『白狼』から来ただろ?」
「……」
「凍えてるところをたまたま、ここにやって来た? 違う?」
ハルアは頷いて見せる。
「ここは身体を洗ったり、湯につかって温まったりする店だ。良かったら入ってかないか?」
「じゃあ、ひとつ下さい」
長い時間雪渓に晒され、身体は凍えきっていた。
この際、嘘でも何でもいいから温まりたい。
「えーと、いや銭湯は売り物ではないんだ」
「?」
何かおかしなことを言ったのだろうか。
何故か店主は困った顔で、頭をかいていた。
◆
「ではこちらへ」
無表情な女の人が現れ、先導してくれる。
ハルアは案内されるがまま訪れたのはやってきたのは店の奥。
『湯女』という文字の暖簾の向こうには、四角い箱が並ぶ部屋があった。
そこで濡れている衣服を脱げと言われる。
替えを用意してくれるのかと思い言う通りに従うと、何故か手渡されたのは手拭い一枚だけ。
そして裸のまま、固く滑らかな石細工の床でできた広間に放り出されてしまう。
「ではごゆっくり」
「えっと……どうなっているの?」
ちょっと待ってよ。状況が全く呑み込めない。
震えの止まらない身体をどうにかしたい。部屋は凍え死ぬような寒さではなかったが、とても暖まれる状況ではない。
囲炉裏がないかと辺りを見回した。目についたのは大きな石細工の囲いだ。
覗き込んでみるとなみなみと水が蓄えられていた。
「こんな水をどうするの?」
飲み水だろうか。それにしては多すぎる。
今の時期は、村の井戸水も完全に凍りつく。切り出した氷を溶かすの手間がかかるので、水は必要最低限しか蓄えないのが常識だ。
「水ではないから触ってみるといいわ」
誰かがそう声をかけてきた。
ハルアは言われた通り囲いのなかに浸してみる。
熱い。悴んでいた手がしびれた。確かにそれは水ではなく湯だ。
「こんな大量の湯で、どんな料理を作るんだろ」
「そんなわけないじゃない。面白い子」
くすくすと笑う声に振り返ると、人がいる。
若い女だ。
自分同様、裸。若木のように細く、新雪のような肌を惜しげもなく晒している。
手拭いで纏めた長い髪が黄金色なので、彼女もまた異国人だと分かった。
「ねえ、その腕の刺青……あなた『白狼』の出身でしょ?」
女は興味深そうな顔つきで、ハルアにそう問いかけてきた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます