第10話 再会

 ベット・タウンだと言われ居る町並みであるが、街の片隅には、低賃金労働者用のボロアパートが立ち並んでいる所がある。そのボロアパートの一室で戸崎燐は、小さなテーブルを前にして小さな溜息をついた。今現在おかれている自分の状況が信じられずにどうしてこんな事になってしまったのか、悩んでいた。

「もうすぐ出来るから。ちゃんと待っていてね」

ボロアパートの引き扉の向こう側にある流し台からそんな声が聞こえてきた。自分が料理を作るのだと言って引かない山守茜に燐は、渋々それを容認してしまった。山守茜が料理を作れるなんて燐には、初耳だったし、不器用な彼女がそんな事を言い出すなんて思っても居なかった。山守茜とは、どのぐらい会って無かっただろうかと、その失った時の流れさえ忘れてしまっている自分に燐は、愕然とした。少しづつではあるが自分の身体が人間でなくなっていく前触れの様なものかもしれないと再び溜息を吐く。久しぶりに会った山守茜は、昔に比べて随分大きくなったと燐は、そう思った。話を聞けば、もう高校2年生だと言うのだ。それを聞いて少なくともあれから2年以上過ぎてしまったのだと燐は、理解していた。山守茜は、時々学校を休んでいるそうだ。体調が不安定なところもあるのだろうが、燐は、彼女の精神的な弱さが登校拒否と言う選択を選んでいるのでは、ないかと考える。


 燐が山守茜と再会したのは、ドシャ降りの雨の日だった。夕方、燐がボロアパートの鉄の階段を駆け上がると山守茜が部屋の扉の前でびしょ濡れの姿で座り込んでいた。突然降り出した雨に濡れたのだろう。燐は、その茜の姿を見て少し驚いた表情を浮かべた。いや、実際燐は、驚いていたのだ。もう二度と会う事も無いと思っていた燐にとって、茜の登場は、突然であり、準備が出来ていない自分の心が悲鳴を上げてしまいそうだった。燐は、茜に負い目があった。あの時、茜の側にいてやれなかった。あの時、自分の事で精一杯だった。燐は、あの時の事を思い出して奥歯を噛み締めた。茜から逃げ出したのに今、目の前に茜が存在する事に燐は、戸惑いを隠せないでいた。

「どうして……いや、ここがよく解ったな」

燐のその声に茜は、ゆっくりと顔を上げた。今にも泣き出しそうな顔を表情で茜は、しっかりと燐の顔を見据えた。

「母さんに聞いて……でも迷わなかったよ」

「何をしに来た?」

久しぶりに遭えた兄の姿に茜は、ほんの少しの希望を持っていた。だが、冷たく言い放つ燐の言葉に茜は、その表情を凍りつかせてしまった。どうして、そんな事を言うのか茜には、理解もしたくなかったのだ。

「何って、そんなの決まってる……兄さん、戻ろう? あの家にもう一度家族で」

「家族だって? そんなモノは、幻想だったんだ。俺は、もう気づいてしまった。夢から、醒めてしまったんだ」

燐は、自分の身体にしがみ付く茜を振り祓った。

「どうして? どうして、そんな事言うの? 昔の兄さんなら、そんな事絶対に言わなかった」

「茜、お前は、まだ良いんだ。あの家で家族ゴッコをしていてもいいんだ。俺は、もう信じない。自分が手に入るものしか信じない。アスカを失って、ようやくそれに気がついた」

「兄さんが居なければ、家族じゃない。兄さんの居ない家族なんて」

「そんな我侭は」

燐は、そう言いかけて言葉を詰まらせてしまった。茜が燐に向ける表情は、まるで怯えきった小動物のそれに似ていた。何かを恐れているようで……何かに怯えているような、そんな茜の表情を見て、燐は、静かに目を瞑った。まだ、茜の心の傷は、癒えきって居ないのだと、燐は、深く反省をした。そんな対応の仕方では、また茜の心の傷を開きかねないと燐は、自分の頭の中に注意を促した。

「母さん、茜がこっちに……うん、うん、解っている。今日は、もう晩いから泊めるよ……ああ、伝えておく」

電話の受話器を下ろして燐は、溜息をついた。予想していたとおりだった。茜は、母に黙って家を飛び出してきたらしい。例え血が繋がってなくとも、長い間家族として一緒に暮らしてきたのだ。燐の母親も茜の事が心配でならないらしい。茜がこちらに来たと言う事を伝えると燐の母親は、とても驚いていたが安心もした様子だった。たどたどしい声からも茜の事を気にかけている事が解って、燐は少し安心した。茜は、燐が戻って来なければ家族として成立しないなどと言っていた。けれど、そんなはずは無いと母の声を聞いて燐は、そう確信していた。ただ、茜はそうまでして自分に拘るのか燐には、解らなかった。

「俺が居なくたって」

燐は、俯いてギュッと何かを堪えるように拳を握り絞める。そんな時に絹を切り裂くような茜の悲鳴に燐は、ハッと顔を上げた。

「イヤァァァァァァァ!!!!!」

最初は、何事かと思った。台所の中心で蹲りながら取乱し、悲鳴を上げている茜の姿を見て燐は、頭の中が真っ白になった。自身の思考がこうも停止してしまっている事に燐は、驚きを隠せなかった。

「あっ」

何かを言おうとして言葉に詰まる。突然何かの拍子に思い出し錯乱するのは、重度のPTSDの症状である。茜は、また思い出してしまったのだろうと、燐は、茜の側にいって優しく抱きしめた。こんな茜の姿を見る度に燐の胸は、締め上げられるように悲鳴を上げる。茜をこんな姿にしたのは、自分の責任だ。あの出来事で茜が傷ついたのは、自身の行動選択の結果に他ならないと、燐は、自分自身を責める。だから、いつか茜には、償いをしなければならないと燐は、そう思っていた。だが、燐には達成すべき目標が存在する。それは、どうあってもやり遂げなくてはならない目標であり、燐にとって決意であった。まだ、人でいられるうちに自身の思考がまともにいられる内にやり遂げなければならない。

「それが終われば、茜に償いをしよう」

燐は、泣き叫ぶ茜に身体を抱きしめたままそう呟いた。

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