第7話 8年の澱み

 朝。時計の針が7時丁度を指して居た。航がベットの上で、うっすらと瞼を開けると、台所の方から物音が聞こえてきた。航にとっては、毎朝の事であるが、この儀式めいた物音によって意識が覚醒していく事を感じとっていた。

「航、起きたのね? もう直ぐ朝食が出来るわ」

台所の方から、航には、聞きなれた声が聞こえてくる。航のわずかな気配を感じとる能力に航自身、時々驚きを隠せない時がある。神楽澪は、そう言う人間だった。航は、半覚醒のまま起き上がり、ベットの端に腰掛けたまま大きな欠伸をしてみせる。

「あら、大きな欠伸」

澪は、大きく開かれた航の口を指差して言った。台所と、風呂場を除けば、ワンルームの作りである航の住んでいるアパート。これでも家賃月3万円と言う破格の安さだった。四角い8畳ほどの広さの部屋の中心には、炬燵。角には、シングルベットがスペースを占領していた。澪は、朝食を載せた長方形のトレイを炬燵の上に置くと、料理を並べ始めた。ご飯に、卵焼きと、鮭の塩焼き。いったって、シンプルな朝食だった。航は、まだ寝ぼけ表情で炬燵の前に座った。

「航、うなされてたわ。また、8年前の夢を見たの?」

澪は、うなされていた様子を思う浮かべるように航に問いただした。

「違うよ。確かに気分の良い夢じゃなかった。でも、もうあの時の夢は、見ない」

「そう、なら良かったわ」

澪は、航の返答を聞いて、少し安心した様子で炬燵を挟み、対面に座った。

「社会復帰プログラムか」

航は、朝食を眺めながら、ポツリとそう呟いた。社会復帰プログラム。それは、大きな事件や犯罪に巻き込まれた者か、その主犯が刑期を終えて、社会復帰するにあたり、復帰困難だと判断された場合、適応される法律である。適応された人間は、以前の名前と顔を失い、新たな人生を歩む事になる。

「8年前の事。後悔しているの?」

澪は、少し心配そうにそう聞いた。

「後悔なんてしていない。あの時、逃げださなければ、俺は、壊れていたよ。そう考えれば、社会復帰プログラムを申請してよかったと思っている」

「そう? ならいいの」

「しかし、顔を変えて、名前も変えたと言うのにさ。どうして、澪には、ばれてしまったんだ?」

「それは、とても簡単な事だわ。私、あの時あの場所に居たのよ。航に出会って、航があの時の少年だと直ぐに分かったわ」

澪は、そう言って、とても嬉しそうに笑みを浮かべた。航は、8年前に大きな事件に巻き込まれた。いや、係わった。そして、その事で心を痛めていた当時の航は、名前と顔を変えて、その現実から逃げ出したのである。その一年後、典子達に出会い、幼馴染として付き合ってきた。航が澪と再会したのは、今年の春。桜の花びらが舞い落ちる入学式の日の事である。

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