第2話プロローグ

チーン


 エマ・アドソンは、タイプの終わった新聞広告用の文章を読み返しながら、モーニングティーを楽しんでいた。

 開店準備後の一時である。

 湯気と共に鼻腔に優しい香りを吸い込みながら、もう一口。

 今日の気分はオレンジペコであったのだが、茶葉を切らしていたので、やむなくダージリンにした。


「こんなところかしらね」

 

 ふんわりとしていながら、しっかり要所を抑えている自身が今しがた打ち上げた文章の出来に、頷いたエマは眼鏡を机の上に置いてから、「んっ~」と椅子を傾けながら大きく伸びをした。


「あら、袖のボタンが」


 伸びをした時に、ブラウスの袖のボタンの糸が伸びてしまったようだった。


「次の休みに、スカートと一緒に新調しようかしら」


 膝より少し丈が短いタイトスカートにも疲れが見え隠れしているし、それを言えば、裾から伸びる色白な足元に見えるローヒールの靴もそろそろ新しい物を買いたい。


「あぁ…髪の毛もそろそろ行かないと…」


 いつも結い上げている黒髪も、前髪が目にかかりだすと、サロンへ行く合図なのである。


「1ケ月くらい、引継ぎとか書類整理で忙しかったもんなぁ。やっぱり事務と原稿の執筆の両方は疲れるなぁ」


 次の休日はサロンとショッピングに出掛けよう。内心でそんな予定を立てたエマであった。



 ウィスパー寄稿文店はロンドン郊外のクイーンアンネ通りに面する木造3階建ての建物の1階にあった。

元々探偵事務所であった建物をほとんど改修もせずにそのまま使用しているためか、調度品もどこかそちらの方に傾いているように思えて見える。

 濃い色のニス仕立てのポールハンガーに壁一面に打ち付けてある書棚とそれにびっしりと収められた書籍。蓄音機にレコード。そして今、エマが使用している隠し引き出しギミック付きの机。その他にも、ロッキングチェアや単眼鏡、虫眼鏡など小物が山ほどある。

 前店主である、シェラン氏から「探偵が残していった物ばかりだから」っと、軽い説明を受けたものの、実のところは、シェラン氏の趣味なのではないだろうか?記者の勘がエマにそう囁きかけるのだが、『探偵』が残して行った調度品の数々は落ち着いていたし、板張りの床にも良くなじんでいたので言及はしなかった。

 むしろ、アンティークに興味のあるエマからすれば、宝物に囲まれているような面持である。

 お気に入りは、キッチンスペースにおいてある、ロッキングチェアと改行の度にさり気なくベルの鳴るタイプライターである。

 さすがに多すぎる小物道具については地下倉庫に放り込んでおいた。



カラン カラン



 エマが紅茶のお代わりを注いだところで、ドアベルの乾いた金属音が店内に響いた。


「エマ、おはよーっ!」

 

 ドアの前にはブロンドのポニーテルに父親似の整った目元と太めの眉。元気印の笑顔の口元にできる笑窪と鼻っ面にある雀斑は母親似。

 そんなあどけない容姿の少女が元気よくエマに挨拶をした。


「もうっ、レイチェル!裏口から入ってって何度言えばわかってくれるのよ‼」


 彼女の名前はレイチェル・ドアー。


ウィスパー寄稿文店唯一の従業員にして記者である。


「いいじゃん。まだ、お客さんが来てないんでしょ?」


 革製のリュックを無造作に革張りのソファの上に放り投げながら、レイチェルが言う。


「それはっ……そうだけれど……ってそういう問題じゃないのっ!そういう嫌な予言的なことは言わないでっ!それよりも、本社に寄って来たんでしょ?投書は?あった?」

  

 レイチェルの言葉に軽い眩暈を覚えたエマは目頭を指で押さえつつ、期待をせずに聞いた。


「いつも通りなかったー。蜘蛛の巣の掃除しといたよ~」


 ウィスパー寄稿文店は、一様、アミューズブーシュと言う新聞社の分社扱いであり、エマやレイチェルが書いた原稿はこのアミューズブーシュ紙の娯楽欄に記載されるのである。


「ありがとう……はぁ、蜘蛛の巣……大嫌いよ……」今度は頭を抱えるエマ。


「この店の前の投書箱みたいに鳥の巣を作られるよりはましっ!」


「それは言わないで~」


 思い出したくない記憶を掘り起こされて、エマはついに机に突っ伏すと額を転がしてゴリゴリとはじめてしまった。


「投書が無くたって!私もいるし、お客さんがネタを持って来てくれるっ!」


「だーかーらーっ!接客が嫌だから、わざわざ投書箱作ったのっ‼作るの苦労したのに……」


 涙を拭う仕草をしながら言うエマであった。

ウィスパー寄稿文店に基本的には来客はない。

接客などしたことがないエマが接客のストレスを回避するため、思案の末に『投書』と言うシステムを思い付き、血豆と時間を浪費してわざわざ投書箱を作ったのだから。


カラン カラン


 店主として、レイチェルにもう二言ほど注意をしようとした矢先、来客を知らせるドアベルが鳴った。


「あぅ」

 

声にならない呻き声と共にみるみる青ざめるエマをよそに、


「ウィスパー寄稿文店って言うのはここでいいんだよな!」


 ドアの前に立つ男はニカッと笑いながらそう言ったのであった。



 そう、基本的には『基本的』には来客はない……ないはずなのである。


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