解放《ソルート》

 どぎつい原色の光が眼の奥で反射し、ねじれ返って、錯乱した渦を巻いていく。

 ラウはこめかみを押さえた。めくるめく香りに視界が傾ぐ。

 あまったるい没薬の匂い。いつもアリストラムが魔妖避けに使っていた、あの臭いだ。乳香には、魔妖を酔わせ、その魔力を低下させる力がある。だが、まさか、こんな時にアリストラムが香を焚くはずが――

「う……」

 歯を食いしばり、必死で抗おうとする。

 違う。

 アリストラムがお仕置きだの儀式だのと称してはちょっかいを出していた時のものより、はるかに強烈な効き目だ。香というよりもはや毒を吸い込んでいるに等しい。

 息をするたび、めきめきと音を立てて頭の奥が割れてゆく。ラウは前のめりに倒れ込んだ。膝をつき、砂を掴む。

「息、ができな……」

 むなしく水晶くずを掻いて、砂浜に爪の跡を刻む。

「遅くなりまして申し訳ございません、レオニスさま」

 砂を踏む、白い裸足が見えた。

 静寂を乱す青白い波紋が同心円状に広がる。

 ひそやかに押し殺された声が忍び寄る。ラウは、錆び付いてまるで動かなくなった首を必死にもたげた。身体が石のように重い。

「形勢逆転だな」

 ぎごちない動きで砂を払いながらレオニスが立ち上がった。引きつった含み笑いを放つ。半分にちぎり取られた翼がぼとぼとと血を落とす耳障りな音を立てた。

「ミシア、まずは狼を殺せ」

「……はい、レオニスさま」

 廃墟に吹く風も似た、しわがれた声が答える。

 ラウは呻いた。首筋の毛が恐怖に逆立つ。

 全身を麻痺させる香煙のせいで身体が動かない。凄まじい圧迫感に抗いながら、目線を上げる。黒ずんだ銀の影がラウの視界を覆う。

 銀色の香炉を持ったミシアが、さくり、さくり、と、砂を踏みしめて近づいてくるのが見えた。

 ぬっとりと濃く立ちのぼる乳香の煙に侵されて、視界が斜めにゆがむ。

「その女を殺せるものなら殺してみろ」

 レオニスが嗤った。悪意したたる声が喜悦に裏返る。


 時折、天井に走ったひび割れの残響が、地下の空間全体を低く震わせていた。

 銀の火花が流れ星のように降り落ちる。水晶の柱に映し出された光が、ざわめき、揺らいでは映え、あやしくも美しい死の予兆を照らし出す。

「ミシア」

 アリストラムは、肩の傷を押さえながら立ち上がった。押さえた手の下から、まだ赤い血が滲み出ている。

 ミシアはゆっくりと屈み込んで、ラウの手からこぼれ落ちたゾーイの剣を拾った。

 ためつすがめつ、幾度か表裏を返してそのきらめきを確かめている。

 ラウは歯を食いしばった。動きを縛る燻煙が、真綿のように巻き付いてくる。まともに動かせない手が、虚しく砂を掻く。

「返して。それは、ゾーイの……」


「やれ。ミシア」

 レオニスがしゃがれたおぞましい笑い声をあげた。

「さっさとそいつを処刑しろ」

「はい……レオニス……さま」

 ミシアの眼が、呆然と虚ろの闇を見つめている。剣に、暗黒が映り込む。

「ミシア」

 ラウは声を振り絞り、ミシアの足元に手を伸ばした。

「あいつの声を聞くな。従っちゃだめだ」

 ミシアは無言でラウを見下ろした。意志のない、うつろな眼で、狙いも定めずに突き下ろす。

「っ!」

 右の手に刃がかすめた。ラウは呻いて身体を丸めた。砂に血が飛ぶ。

「返して。その剣を」

 ラウの声だけが沈痛に反響した。

 遙か頭上から降りしきる水晶のかけらが、青白く燃えて水面に反射しては、溶けるように闇へと吸われてゆく。

「ラウ……さま」

 返り血に濡れたミシアの眼には、まぎれもない恐怖が入り混じっていた。


「もうすぐだ。もう少しで!」

 レオニスは壊れきった笑いをアリストラムへと向けた。肩の深い傷に容赦ない蹴りを入れる。アリストラムは呻いてのけぞった。

「そこで無様に這いずりながら、狼が死ぬのを眺めていろ」

 身も蓋もなくけたたましく笑って、あらわになった傷をさらにブーツの踵で踏みにじる。

「今度こそ永遠の牢獄に貴様を叩き落としてやる。終わりのない絶望、死ぬことすら許されぬ永遠のダドエルへと。葬り去ってやる。俺がどんなに望んでも手に入れられなかったものすべてを。奪い取ってやる。何もかも焼き尽くしてやる。魂ひとつ、理性ひとつ、骨片ひとつ、貴様にはくれてやるものか」

 狂乱の高笑いが、けばけばしくまき散らされてゆく。

「殺せ。こいつら全員、! ! !」


「伏せろ、ラウ!」

 レオニスに蹴られるがままだったアリストラムが、鋭い声を飛ばしざまに掌をかざす。

 銀の光糸が、風を切る矢のような音を立てて放たれた。砂浜を真っ二つに断ち切る白煙を走らせ、ミシアの手めがけて飛ぶ。

 狙い過たず、光の糸はミシアの手に握られた香炉を射落とした。続けざまに空打ちの光糸を虚空へと放つ。

 煙をくゆらせていた香炉は水しぶきをあげて地底湖へと落ちた。じゅっ、と音を立てて燃え尽きた後は、そのまま泡沫だけを残して深みへと沈んでゆく。


 煙の効力が薄れる。

 身体がはじかれたように動いた。ラウは跳ね起きてミシアに飛びかかろうとした。その手に握られた剣を奪い取ろうとする。

「巫山戯た真似を」

 レオニスは憎悪にゆがんだ顔を火照らせ、十文字槍から放たれる銀の火を至近距離からアリストラムの顔面に連射し、浴びせかけた。

 アリストラムの身体が爆風にあおられてもんどり打つ。

「しまった、アリス……!」

 ラウはたたらを踏んでつんのめった。アリストラムを助けに駆け戻るか、ミシアを先に止めるか、一瞬の判断が付かず、動きが止まる。

「私に構うな!」

 アリストラムの声が爆炎の彼方から伝わる。水晶柱が乱立する地底湖を、倒れながらアリストラムは確信を持って指さしている。

 ラウは砂を蹴って飛び出した。半ばまろびつつも地底湖へと飛び込む。水しぶきが上がる。

 もう、後に逃げ場はない。

 地底湖からそそり立つ、無数の巨大な水晶柱が、圧倒的な迫力でラウを取り巻いていた。どこまで続いているのか、眼では追いきれぬほど遙かな高みにまで、水晶の螺旋が続いている。

 頭上から何かの割れ砕けるような、雷鳴にも似た音が聞こえていた。真っ白な光を放つ直線的な稲妻が一瞬、水晶の壁に反射して伝い走る。そのたびに、びりびりする静電気のようなものがぞくっと背筋を冷やした。


 ミシアは剣を掴んだままだった。身構えもせず、無表情にラウを追って、ざぶりと水へと分け入ってくる。

「ミシア、分かってるよ。本当は聞こえてるんでしょ」

 ラウは、余裕たっぷりに見せかけた笑顔をミシアへと向けた。

「絶対に大丈夫だから。安心して」

 枝のように水面へ張り出した水晶の柱に片足を掛け、にやり、と笑う。

「アリスなら絶対に、助けてくれる。だから、あたしたちを信じて」

「……ラウ……さま……」

 ゾーイの剣を握るミシアの眼から涙がこぼれ落ちる。その手は寒さに震え、青白く変色していた。

「この、役立たずが」

 レオニスが折れた翼を羽ばたかせてミシアの傍らへと舞い降りた。苛立ちの声とともに、ミシアを乱暴に振り払う。

「寄こせ!」

 その手から剣をむしり取る。ミシアはしぶきを上げて湖に倒れ込んだ。

「絶対に逃がさんぞ、小僧」

 煮えたぎる血色の目をぎらつかせてレオニスが哄笑する。水中に手を突っ込み、溺れたミシアの髪の毛を掴んで引きずり上げる。ミシアは咳き込み、喘いだ。

傀儡くぐつの分際で主に逆らえると思うなよ。汝、神の名の下に持てる刻印を解放し、全てのものを焼き尽くせ。殺し尽くせ。燃やし尽くせ! 死ね死ね死ね死ね死ねぇ! この俺の顔に泥を塗りやがって、絶対に許さねえぞてめえ、ぶっ殺してやるああああああああああああああッ!!!!」

 甲高く裏返った笑い声、狂気に満ちた怒号が響き渡る。

 その、頭上から。

 音もなく、ふいに。


 白光の影が差し込んだ。


 愕然と頭上を振り仰ぐレオニスの目に。巨大な水晶の柱の尖端が映った。

 今の今まで、何の気配も、存在の巨大さすら漂わせないまま、恐ろしく軽く、ふわふわたなびく薄雲のように、すう、と滑って。

 無数に張り巡らされた銀の光糸が作り出した網に絡められながら、かすかな音ひとつ建てずに頭上へと運ばれてきたそれは、今、まさに、レオニスの真上にあり、たった一本の光糸で支えられた状態で吊り下げられている。


「貴様」

 ぎごちなくレオニスがアリストラムを振り返った。その顔には、醜いまでにゆがんだ笑いと、憎悪の表情が貼り付いていた。

「いつの間に」


「貴方が楽しそうにしゃべっている間に。口は災いの元。おしゃべりもほどほどに、です」

 アリストラムは、魔力の尽き果てた青ざめた顔で笑った。腕を挙げ、かるく指を鳴らす。

解放ソルート

 光糸が、ぷつりと切れた。巨大な水晶柱が落下し始める。

 一瞬だった。

 レオニスの眼に、視界すべてを覆い尽くす巨大な透き通る死が写り込む。

 は虫類じみた顔が初めて死の恐怖に引きゆがんだ。水晶柱が迫る。絶叫する。

「巫山戯るなああああ!!」

 ミシアの身体を楯に、銀の火を放射、爆発させる。

 真っ白な光と、砂煙と、水しぶきと、絶叫が膨れあがる。

「殺す殺すぶち殺してやるあああああああ!!!!」

 青白い放電が走り抜けた。地下湖全体を照らし出すほどの稲妻がほとばしる。

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