「それが、真実だ」


「嘘だ」


 他に、どう言えばよかったのか。

 そんなことなど、あるはずがない。

 アリストラムが、ゾーイを――

 谷底から吹き上げるような突風にあおられ、ラウは思わずよろめいた。

 腕を上げて眼をかばう。


「アリストラムさまは、欠落者ですわ」

(アリストラムは欠落者だ)


 微笑むミシアの口から、ぞっとするほど低いレオニスの声が二重に重なって響く。

 ラウは腰を落とし、身構えた。四方を見渡す。

 月明かりの落ちる灰色のがれ場は、岩の鋭角的な形が形作る影ばかりが目に付く。レオニスの声がどこから聞こえてくるのか、まったく分からない。

 嘲笑の声が風に乗って降りかかった。

「アリストラムさまは、己に刻まれた呪縛から逃れるために、刻印の主である魔妖をその手で殺しておしまいになった。その瞬間を、本当は、貴女も、見ていたのでしょう?」


 あの日。

 あの夜。

 立ちつくすゾーイの背中の向こうに見えた、銀の閃光。

 狼の里を破壊し尽くした光。

 ゾーイの絶叫を銀の炎で炙り尽くした、憎い仇――その、姿を。


 ラウは膝から崩れ落ちた。視界が真っ白に焼き付く。

「嘘だ」

 涙がこぼれ、喉を嗄らす。

「でも本当なのですもの」

 くつくつ、と。ミシアは、手を口元に添えて陰湿に笑う。


 突然。

 伝い走る銀の軌跡が音を立てて空を切った。熱線が首筋をかすめる。

 避けるのが一瞬遅ければ、刎ねられた首が地面に転がり落ちていただろう。

 焼けつく痛みを跳ね返して、ラウは身をよじった。後ろに飛びすさる。

 レオニスの臭いを含んだ風が吹き付けてくる。

 狂暴な唸りが喉からもれた。

 片手を地面に付き、耳を伏せ、体勢を低くし、尻尾をゆらりと打ち振って。相手を睨み付ける。

 ミシアを操る影から、ぬらり、と。聖銀の十文字槍が生えてくるのが見えた。

 沼の底から浮き上がるかのように、影を割り、レオニスが姿を現す。

 手にした十文字槍の尖端が、清冽な死の輝きを放って弧を描く。

「それが、真実だ」

 あざ笑うレオニスの手の中で、十文字槍が右に左にと旋回する。残像だけが青白くしたたり光る紋章を空に描き出していた。

 真夜中の太陽が眼を焼く。

 光と、影と、すべてを暴き出す残酷な炎。

 弾ける銀の稲光が、レオニスの醜悪な本性をめらめらと浮かび上がらせていた。


「んなもん当たるかよ」

 口汚く吐き捨てようとして、ラウは眼を押し開いた。

 中空に描き出された光の残像に目が釘付けになる。

 薔薇の花のかたちをした聖銀の紋章が、闇の中でぼうっと光を放っている。

 一瞬、魂を魅了される。

 それは、聖なる刻印とでも呼ぶべきものだった。魔妖が人間を縛る、それを刻印と呼ぶならば。聖銀の神官が魔妖を縛るそれは、紋章の封印と呼ばれているものだった。アリストラムが、ラウの魔力を封じるのに使ってきた聖なる徴と同じ。

「くっ……!」

 ラウの漆黒の影が、苛烈な罪の重圧となって地面へと落ちる。

 重い。動けない。

 耐えきれず、ラウは地面に手をついた。それすら維持できず、這いつくばる。身体が何か恐ろしく重い何かによって押しつけられている。

「無様な」

 レオニスはせせら笑った。

「人に害なす邪悪は、滅ぼされなければならない」

 風を切り混ぜる槍の切っ先が、ぴたり、と。

 ラウの心臓を狙って差し付けられる。

「レオニス……!」

 歯を食いしばって見返す。その脳裏に、テントに一人残ってラウの帰りを待っているだろう、アリストラムの顔が浮かんだ。

 締め付けられたような痛みが胸に広がる。心臓が苦痛の鼓動を乱れ打つ。

 それは、後悔だった。

 こんなことになるぐらいなら。誰の目も届かないところへ二人で逃げればよかった。決して叶えられない願いを高望み、失敗と挫折と無力感にうちひしがれるぐらいなら、最初から逃げてしまえばよかった。

 たとえ、それが。

 アリストラムが望んだかたちではなかったとしても。


 あのまま、二人で、逃げてしまえば──


「アリストラムの助けを待っているつもりか。残念だったな。奴は」

 冷ややかに蔑む声が風にまぎれて吹き付けてくる。

 レオニスの眼が蛇のように細められる。

「もう、二度と来ない」


 ラウの眼に、ほんの一瞬、炸裂する白銀の炎が映った。

 炎と轟音の衝撃がラウを吹き飛ばす。ラウは銀の火だるまになってのけぞった。子犬のような悲鳴を上げる。その悲鳴さえ、炎に飲み込まれる。

 炎の中、苦悶に歪む獣のさけびをまとわりつかせた姿が、みるみる、人ではないものへと収縮し、変わってゆく。

 銀の火が、くらりと揺れて萎え、しぼんだ。暗転する。

 雲が切れ、青白い月が顔を出す。月光だけが舐めるように岩場を照らし出してゆく。

 風が、凪ぐ。山が息を呑んだかのようだった。

 ほそい、苦みのある煙が、ひとすじ、ふたすじと立ちのぼっていく。

 横たわる、黒ずんだ姿。


「本性を現したな、魔妖」

 レオニスは冷ややかに吐き捨てる。

 吸い込まれ消えゆく光の下から現れたもの。

 それはもう、ラウではなかった。

 ときおり火花を散らす銀の光を帯びて起きあがろうと痙攣し、よろめく、青い狼。もはやラウでも魔妖でもなく、ただ目をつむり、口を割って、苦しげに舌を垂らして喘ぐだけの、傷を負った狼でしかなかった。

「目障りだ。消えろ」

 槍の尖先が突風を伴う轟音をたてて跳ね上げられる。光と影の圧力に吹き飛ばされ、狼はあっけなく宙に弾き飛ばされた。

 暗黒の谷が眼下に広がる。 ぼろぼろに焼けこげた身体が宙を舞う。さらに撃ち放たれた銀の火が、跳ね転がる狼の身体を追撃し、高々と残酷に打ちあげ、弾き飛ばす。

 そのたびに悲痛なさけびが響き渡る。

 足元には、もう、何もない。

 絶壁からはじき出され、崖の斜面に激突し、瓦礫を飛ばし、破れた鞠のようにもんどり打って、はるかな奈落へと。

 狼は悲鳴ごと転がり落ちてゆく。

 闇の中。その悲鳴は、果てしなく落ちて。


 やがて、聞こえなくなった。

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