「それが、真実だ」

刻印を抑える唯一の方法

 ラウは闇を疾駆していた。

 身を低くしたしなやかな牝獣の所作で山麓を駆けのぼる。倒木を飛び越える。立ちふさがる草木を叩き伏せる。月を追って頂上を目指す。

 かすかな星明かりの下、崖のてっぺんへと、九十九折つづらおりに駆け上がってゆく。

 絶壁の頂上に出ると、月明かりが青く広がった。

 さながら巨大な刃でまっぷたつに切り下ろされたかのような剥き出しの地層、岩盤がぐにゃりとゆがんだ斜線模様となって削り出されている。

 その怪異な光景を横目にしつつ、今にも崩れ落ちそうな岩場に片足をかけて立つ。

 ラウは、眼下に広がる闇を見下ろした。

 アリストラムがいるはずの野営テントを無意識に探す。

 そんなに簡単に見つけられるとも思わないが、見えるはずもないものを眼を皿のようにして探すのは面白かった。

 黒々と伸びる影が、はるか下の崖にまで落ちている。

 狼の歌を歌いたいのを、ぐっと我慢する。遠吠えで居場所を嗅ぎつけられては元も子もない。

 月光を浴びながら、岩山のてっぺんにちょこんと犬座りに座る。

「問題、か」

 ラウは、アリストラムの言葉を思い出していた。


「解決しなければらならない問題は三つです」

 指を立てながら説明してくれたのは、以下の通りだった。

 まず一つめ。当初の予定通り、ドッタムポッテン村を脅かしていた魔妖キイスを排除すること。

 続いて二つめ。ミシアを攫ったレオニスを探し出し、ミシアを取り返すこと。

 三つめは、できれば、アリストラムとミシアの二人を魔妖の刻印から解放すること。


「どれから手をつけるかの優先順位はありません。すべてを解決しなければ何も終わらない」

 ひんやりした空気が頬を撫で、ぴんと立てた耳の先を揺り動かしてゆく。

 どことなく、後ろ髪引かれる思いが強まる。

 嫌な予感がした。こうやってミシアを探している間に、アリストラムがどこかへいってしまったりはしないだろうか。

 ラウはかぶりを振り、月を見上げた。

 空気が冷たい。風笛が鳴る。森がざわめく。たかがそれだけのことに一抹の不安を感じる。

 寂しい、などという感情が、我ながら可笑しかった。


 アリストラムに逢うまでは――

 ずっと、一人でいることが当たり前だったから。


 誰も信用できなかった。今でも思い出す。闇にひそみ、息を殺して、眼をぎらつかせて。

 人里で騒ぎを起こし、やってくる魔妖狩りを返り討ちにしてはゾーイの名に憶えがあるかどうかを脅し訊ねて歩いた。

 そうしていれば、いつかは仇にでくわすと思っていた。

 仇を殺せるほど、強くなりたかった。

 孤独を忘れられるほど、強くなりたかった。

 誰よりも強くなって。

 狼の里を焼き尽くした仇を。

 ゾーイを殺した、憎い、憎い、憎い魔妖狩りを、この手で引き裂いてやりたかった。


 ――アリストラムに逢うまでは。


 でも、今は。

 このままずっとアリストラムと一緒にいたかった。

 一人ぼっちには戻りたくない。


 分かっていた。

 魔妖が人間と共に生きるなどだということぐらい。


 魔妖は人間の生命を食う。魔力を食う。

 どんなに愛していてもそれは同じ。愛すれば愛するほど、欲すれば欲するほど、魔妖は人間の魂をむさぼり尽くしてしまう。


 それでも、一緒にいたかった。

 アリストラムが言っていたように、人と、魔妖が共に生きる方法を二人で何とかして見つけ出したかった。


 あの頃の自分には二度と戻りたくなかった。

 誰をいたわることも知らず、己の孤独にさえ気づかない、荒んだ眼でゾーイの仇敵を探してうろつき回るだけの、そんな殺伐とした一匹狼になど、もう、二度と。


 ずっと、アリストラムと一緒にいたい。


 青白い月が、ざわめく夜を照らしている。

 ラウはもう一度かぶりを振って、不安まじりの苦い思いを振り払った。

 傍らの剣を掴んで立ち上がる。

 尻尾をぱたぱたと器用に振って、服のお尻に着いた石ころを払い落とす。

 おなかが、ぐうう、と鳴った。

 魔力が絶対的に足りていないのだ。ラウはおなかを押さえた。

「おなかすいた……」

 でも、もうこれ以上アリストラムに無理をさせるわけにはゆかなかった。今、アリストラムの傍にいたら、また――

 アリストラムを苦しめてしまう。

 魔妖の食欲を満たせるほど、今のアリストラムに魔力が残っているとは思えない。極限まで魔力を失ってしまえば、また目を覚ませないほどの昏睡状態に陥ってしまうだろう。


 ふと、嫌な空気が吹き寄せた。

 背筋を逆撫でされたような感覚が走り抜ける。

 悪意とも無力感ともつかぬ、粘りけを帯びた視線が、背後からラウを見つめていた。

 背中の毛が、逆立つ。

 ラウは息を吐いた。耳をぴくりと後ろに回し、おもむろに振り返る。

 凄艶な月光を後ろに背負ったミシアが立っていた。

「ごきげんよう、ラウさま」

 レースの手袋をはめた両手を楚々と結び合わせ、ぴたりとエナメルの靴の先を揃えて。

 さながら主人の命令を待つオルゴール人形のように立ちつくしている。

 ラウは息をするのも忘れて、まじまじとミシアを見つめた。

 濡れたように光る黒髪。風に舞い立てられ、そよぐスカート。

 ミシアの足元から、するどくよじれた細い黒い影が一直線に伸びている。

 手には、ナイフを持っている。表情の欠けた顔はぞっとするほど青白かった。


「お待ち申し上げておりました」


 刃に映し出されたミシアの黒い瞳は何の感情もなく、ラウの眼前に立っていながら何一つ見てはいなかった。アリストラムと同じ眼だ。

 完全に支配され尽くした眼。

「ここで死んでくださいませ」

 ミシアは偽りの笑みを浮かべた。銀のナイフを両手に握りしめ、一歩ずつ、前へと歩み出てくる。

「いくらミシアのお願いでも、そればっかりは叶えてあげるわけにはいかないな」

 ラウは背後へと目を走らせた。ここは断崖絶壁。戦うには足場が悪すぎる。自分はともかく、ミシアの命が危ない。

 体勢をずらす。足下の土が焦りの音を立てた。ここはまずい。何とかして場所を変えなければ──

 ラウの意図に気づいたか、ミシアが駆け寄ってきた。

 ぎごちなく構えたナイフを、棒のように腕ごと繰り出す。

 のろ過ぎる動きだった。ラウは難無く横に飛んでかわす。このまま逃げてしまえば、きっとミシアも後を追ってくる。とっさにそう判断し、身を翻して坂道を駆け下りようとしたとき。

「きゃっ」

 悲鳴が聞こえた。

 ラウはぎくりとして振り返った。ミシアは誰もいない絶壁の端で足をくじかせていた。

 身体が大きく、崖側へとふらつく。

「何やってんの。危ないだろ」

 罠かもしれない。

 そんな刹那の判断すら、頭からすっ飛んでいた。

 ラウはミシアの元へと駆け戻った。ミシアの腕を掴んで、安全な場所まで引き戻す。

「ミシア、そのナイフをこっちへ渡して」

 ラウは手を差し出した。ミシアは目を大きく見開いて、こわばった青白い顔をラウへと向けた。

「ラウさま……わたし、どうして、こんなところに?」

 おびえた風なミシアのしゃべり方に、ラウはつい、ほっと気を許して笑いかけて見せた。

「良かった、目が覚めたんだ。いきなり後ろから来るからびっくりしたよ。でも、もう大丈夫。ナイフを渡して。アリスのところへ行こう。治療してもらえる──」


 突如、目の前を銀の細い光が薙ぎ払った。

 焼けつく痛みが肩に走る。ラウは息を呑み、よろめいた。

 肩の傷からひとすじ、ふたすじ。血の焼けるほろ苦い煙が上がっている。

 普通のナイフではない。聖銀アージェンの祝福がかかった刃だ。

 ラウは傷の上から肩を押さえた。指の合間から血が滲み出す。止まらない。


「ラウさま。貴女をお連れするのは、アリストラムさまのところではありませんわ」

 ミシアは仮面のように微笑んだ。

「わがあるじ、レオニスさまのところです」

 ミシアの手に握られた銀のナイフは、ラウの血に濡れて黒くてらてらと光っていた。

 聖なる刃の祝福は、魔妖にとっては神の一撃に等しい。ラウは舌打ちした。

「眼を覚ませ、ミシア。刻印なんかに支配されちゃだめだ」


 ミシアは暗い眼でラウを見やった。

「支配、ですって」

 嘲笑の目だった。

「貴女は、魔妖のくせに、刻印がどれほどたやすく人間の心を壊してしまうのかご存じないのね」

 言葉が胸に突き刺さる。

「心を……壊す?」

 思いも寄らない反撃に、ラウはうろたえた。

「そうよ」

 ミシアの笑みがうつろに深まってゆく。

「わたしに刻印をつけたのはキイスさまです。アリストラムさまの仰ったとおりよ。初めて逢ったときは、もちろんすごく怖くて……最初は、殺されるかと思ったけど、でも、あの方はわたしに優しくしてくださいました。口ぶりは乱暴でしたけれども、何度も逢って……話をしているうちに……」

 ミシアはゆっくりと深呼吸した。

 眼を閉じ、大きく襟ぐりの開いた胸元に手を入れて、清楚なフリルの影に隠れていた乳房ごと刻印を揺すり出す。

「気が付いたら、わたしはあの方のものにされていた」

 ほんのりと欲情の色に染まった乳房が、暗黒の花に彩られはじめる。。ミシアの身体を、心臓を、全身を拘束する言葉の刺が、肌の上を這い回り、絡みつき、縛り上げてゆく。

「でも、知らなかったの」

 ミシアは扇情的に身体をくねらせた。スカートの裾を掴んで、ゆっくりとめくりあげてゆく。

「やめて、ミシア」

 ラウは声をつまらせた。とっさに眼をそらす。

 ミシアは病的な仕草で、赤いくちびるをねっとりと舐めた。

 スカートの下は、ナイフの鞘を挟んだ薄いガーターストッキングだけ。他には何も身につけていない。ミシアは、ナイフを鞘へとしまい、半裸に近い姿を月に晒したまま、ぞっとする微笑をうかべた。

「刻印が発動したら、ね? こんなふうに、媚びを売って」

 ラウはミシアの鬼気迫る様子に、身体を凍り付かせる。

してもらわないと、生きていけなくなるの」

 ミシアは、逃れようとするラウを追った。

 一歩、また、一歩。

 偽りの笑みにいろどられた顔が、妖艶なかぎろいを匂い立たせながら、蒼白に染め上げられてゆく。

「もうすぐ、わたしと同じようにアリストラムさまも――壊れるわ」

 目に見えない、異様なまでの力がラウを縛り付けていた。射すくめられたような恐怖に、視線さえそらすことができない。

 圧倒される。寒気が全身を覆い尽くす。声が、凄まじい圧力を増していく。

「うそだ」

「嘘じゃないわ。分からないでしょうね、ラウさま。……魔妖の貴女には」

 薄く開かれたミシアのくちびるが、赤紫色に濡れて、光っていた。

「刻印に触れられただけで……ビクンって……身体がなっちゃう、あの感じ。刻印に息を吹きかけられただけで……狂いそうになる、あの気持ちが」

「やめて」

「……わたしを見て。もっと、ちゃんと、はっきりと。見て」

 いやいやとかぶりを振るラウの顔を、ミシアは両手で挟み込み、真正面を向かせようとする。

「触って……れて……欲しくて……たまらないの。もっと……もっと……いやらしいことして欲しいの……」

 眼が、常軌を逸する妖艶な輝きを帯びてゆらめき燃えている。

「……一度……抱かれたら……もう止められないの……人としての尊厳をすべて失ってもいいから……気が違ってもいいから……何度でも……死ぬまで抱かれ続けたいって……思ってしまうの。貴女たちみたいなバケモノの……子供を何十匹も孕まされるだなんて考えただけで気が狂いそうになるのに、もっと……もっと、けだものみたいなことをされたいって……人じゃないものにされて……死ぬまで壊され続けても……もっと、もっと……!」

 声も、出ない。

「地獄よね」

 ミシアは、思わずぞくりとするほど凄絶な瞳で微笑んだ。

「でも、ね。その地獄から逃れる方法があるんですって。レオニスさまから教えていただいたわ」

「刻印から逃れる方法……?」

「ええ。アリストラムさまが発見したのよ。ずっとその方法を使って症状を抑えていたらしいわ」

 ラウは呆然とミシアを見上げた。

「抑えるって……どうやって?」

 無意識に聞き返してしまう。

 だが。


(たとえ、貴女が望まなくても、この真実だけは……絶対に)


 嫌な予感がふいに沸き上がった。

 知りたい、と思うと同時に、知ってはいけない、とおののく感覚とが同時に襲ってくる。

 まさか。

 違う。記憶がフラッシュバックする。

 燃え上がる闇。銀色の闇。今もナイフみたいに心臓に突き刺さったまま抜けない、死の寸前のゾーイの叫び。


 


 あいつって。って、

 違う。

 そんなこと、あり得ない。

 有り得るはずがない。


 絶対に――


「教えてあげる。アリストラムさまはね、刻印の支配から逃れるために」

 ミシアは肩を震わせ、笑っている。

 けたたましい笑いだった。

「その刻印を刻んだ魔妖ゾーイを」

「言うな」

 ラウはミシアの声を遮った。

 耳をふさぎ、目をそらし、声を嗄らして怒鳴る。

「言うな! 言わないで! 聞きたくない!」

「殺したのよ」


 ミシアが口にした、致命的な一言が。

 心臓をつらぬく。

 絆を断ち切る。

 心を押しつぶす。

 鮮烈な血の雨となって、容赦なく降り注ぐ残酷な言葉の槍。無数の槍。


 殺した。殺した。殺した。アリストラムが。ゾーイを。殺した──


 けたたましい笑いが降り注いだ。

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