「貴女から奪ったすべてを、今」

 嫌だ。ラウは半狂乱で吠える。

 隷属の首輪にずっと魔力を押さえ込まれていた反動で、自身では何一つ制御できない妖気が全身をのたうちまわっている。

 血の味にラウの中の魔物がまた笑った。

 死ねばいい。何もかも、食い尽くしてやればいい。自分さえも。

 狂った衝動に突き動かされ、もがき続けて。やがてついには精も根も尽き果てて動けなくなる。

 もう、これ以上、狂いたくない。

 次、また飢餓感に襲われてしまえば、今度こそアリストラムの生気を喰らい尽くしてしまう。魔力が潰えれば一蓮托生だ。

 そんなことになったら二人とも眠りの中で永遠に死に続けることになるだろう。

 そうまでして、なぜ――

 いっそ殺してくれればいいのに、と思った。

 ラウは気を失いながら声を殺してむせび泣いた。泣きながらアリストラムの血を浴び、その甘美な死の味にまみれ、牙を軋らせて身もだえる。

 愛するものの血を食らって生きる。それが魔妖の性だ。

 また闇がすべてを塗り込めた。


 血の臭いを漂わせるしずくが、くぼみにたまったぬるい水に跳ね返る。

 ぽたり、ぽたりと。

 心に波紋を広げながら闇に吸い取られていく水琴の音。


 アリストラムは組み敷いた下に横たわる、かつてラウだった魔妖の身体を茫然と見つめていた。

 もう、どちらが狂っているのかも分からない。

「ラウ」

 隷属の首輪によって押さえ込まれていた、ラウの本当の姿。それは昨日までのラウではなかった。

 どんなに眼をそらしても、魂が薄暗い陰に呑み込まれてゆく。

 肌に貼り付いた銀緑の髪。力なく垂れた三角の耳。

 輝きを失ったしっぽの毛並みが、べったりと濡れて、地面に貼り付いている。

 陽の光に当たれば、きっと誰よりも笑い、弾み、まぶしいほどに光って見えただろうその顔は、だが今はひどくやつれはてて生気が無く、深海魚の眼のように濁って見えた。

 聖銀の魔力で犯し続けた、ぬめるような肌の感触。くろぐろと引き延ばされた肉感的な女の影が、ラウの肌を妖艶に光らせている。

 今は、眠っている。だが穏やかな眠りではない。

 何もかも失った泥のような眠りだった。

 放置すれば死ぬまで眠り続けるだろうその命を繋ぐには、魔力をつなぎ、生気を吹き入れてやるしかない。

 だがほんの少しでも魔力を移せば、その魔力が逆にラウの体力を根こそぎ奪ってゆく。

 絶叫とともに身悶え、七転八倒しながら自らを傷つけ、暴れ、全ての力を使い果たして再び元の昏睡状態に陥る。その繰り返しだ。

 あれからどれほどの時間が過ぎたのかも分からない。

 いつまで続くのかも分からない。

 終わりのない絶望の行為にアリストラムは力なく笑った。

 何度も、抱いた。

 何度も――

 じっとりと濡れた、柔らかすぎる無力な身体を抱きしめる。

 もう、昨日までのラウではない。

 ちいさな可愛いラウ。

 ころころと喜怒哀楽の表情を変える幼いラウ。

 アリストラムだけのラウでは――なくなっているのに。

 狂おしいほどにまだラウでいて欲しい、いてくれればいいと願い続けて、叶わずにまた、抱く。

 ここにいるのは。

 死にかけの――

 雌の魔狼だ。

 ラウがびくりと身体を震わせた。

 全身がおそろしいほどの熱を帯びはじめている。

 狂ったように熱が上昇してゆくラウの身体を、アリストラムは自らの肌で冷やし抱いた。

 いくら冷たく濡らした布を置こうとしても、発作が起きればラウはすべてを引き裂いてしまう。他に方法はなかった。

 アリストラムは手を、身体を洞窟の氷水に浸し、その冷え切った手で暴れるラウの頬を、首を、全身を押さえ込みながら冷やし続けた。

 もう、自分のことはどうでもよかった。次に発作が起きたら、今度こそ耐えきれないかも知れない。意識さえ取り戻してくれたら……そう思うものの、ただ同じ事を繰り返すだけではもう、きっと、二度とラウは目覚めない。

 残る手段は、ひとつ。

 噛みきられた唇から流れる血をぬぐい、アリストラムはラウの裸身を見下ろした。

 いつか、こうなることは分かっていた。犯した罪からは決して逃れられない。

 ラウと出会った、あの日――

 街の肉屋をさんざん荒らしまわったという小憎らしい魔妖のこどもを追いつめ、それでも必死にソーセージと骨付き肉を両手にひっつかんで何とか逃げようとする首ったまを引っ掴んで、ぶらんとぶらさげて。

 じたばたする尻尾をぎゅっと引っ張ると、その小さな狼は逃げられないと分かっていてもまだ諦めず、がぶりと噛みついてこようとした。

(おやおや、元気の良いことですね。でも、泥棒は悪いことです。悪いことをする子はお仕置きですよ。いいですね?)

(う、う、うるせえッ! なれなれしく触るんじゃないっ! ニンゲンのくせにっ!)

 振り向いた瞬間、翡翠の瞳が子供っぽい怒りの涙でいっぱいになっているのを見た。

 ゾーイと同じ翡翠の眼をしていた。

 ゾーイと同じ銀碧の毛並みを持っていた。

 ゾーイとうりふたつの顔立ちをした、ちいさな、ちいさすぎる狼の子。


「貴女から奪ったすべてを」

 アリストラムは眼を閉じた。ラウに引き裂かれた傷だらけの胸に手を当てる。

 ぽつん、と、翡翠色の光が滲み出た。

「今、貴女に返せば」

 アリストラムは苦痛に顔をゆがめた。

 光はますます強まり、隠しきれぬ奔流となってこぼれ出てゆく。

 押さえた指と指の間から、まるで血のように翡翠の光があふれ、したたりおちる。

「眼を覚まして……くれますか……?」

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