人の姿を、理性を保てなくなる――

 聖なる侵蝕に存在がかき消される。

 光の真正面にいたラウは、半ば消し炭になりかけながら吹っ飛んだ。

 全身が炎に包まれ、焼けついてゆく。

 ミシアの後背から同心円状の波紋となって広がった光は、一瞬、羽ばたき下ろす光の翼のように巨大に広がり、横一線の残光となって吸い込まれた。

 ふっ、と消える。

「この獣は、何だ」

 レオニスの嘲笑に満ちた声が降りかかる。

 手足が無様に痙攣していた。

 全身を青白い火花の投網が覆っている。もし封印の首輪をしていなければ――同じ聖銀の力で包み込んでいたアリストラムの首輪がなければ――あのときのゾーイと同じように、何もかも消されていたに違いなかった。

 だが、たとえ今、死ななかったとしても結末は同じだ。身動き一つ取れない。意識がもうろうとなってゆく。

 レオニスはラウの顔をゆっくりと踏みにじった。喉元に十文字槍を差しつけ、冷淡に口を開く。

「なるほど、魔力封印の首輪か」

 首輪につけられた銀の錠前を穂先でもてあそんでいる。

 ラウは身をよじろうとし、あらがえず、悲痛にもがいた。全身から、ぼろぼろと命が剥がれ落ちてゆく。

 ラウは、うすれてゆく視界にアリストラムのぼんやりとした銀の影をみとめ、弱々しく身震いした。

「ご……めん……」

 枯れ枝を引きむしったような声が漏れた。涙と苦痛で、眼が白くかすんだ。頭の中が激痛にゆがむ。

「ごめんなさい……あたしのせいで……アリスまで……」

 焼けこげた血の味がこみ上げる。

 人の言葉にしてしゃべっているつもりが、物狂おしい半泣きの鼻声にしかならない。

 涙が滲む。ようやく気が付いたのだ。

 自分が犯したあやまちのせいでアリストラムまで窮地に追い込んでしまったことに。

 だが遅かった。レオニスは、冷酷に笑って槍を突き下ろした。銀の鍵は軽い音を立てて割れた。

 魔力を押さえ込んでいた封印が壊れる。

 人に、仇をなしてはならない。

 人を、傷つけてはならない。

 言霊の琴線が引き剥がされ、銀の弦音を立てながらばらばらにちぎられてゆく。

 聖銀の首輪は、魔妖の力を失わせるためのもの。もし、魔力を抑制する首輪を外せば、今まで余計に押さえ込んでいたぶん、その反動で人の姿を、理性を保てなくなる――

「あ、あ……いやだ……!」

 ラウは悲痛にしゃがれた遠吠えを漏らした。だがそれはもう、人の喉が発する音域ではなかった。

 自分が、引き裂かれてゆく。

 幼かった身体がめきめきと音を立てて、元の、本来あるべき妖艶な狼のそれを思わせる体躯へと変わってゆく。

 ラウは身体が急激に変わってゆく苦痛に身悶え、悲鳴を上げた。

「さてと。聞かせてもらおうか」

 消えようとする意識の上を、つめたい嘲弄が吹き過ぎてゆく。だが、その声すらもう、おそろしく遠くにしか聞こえない。

「聖神官アリストラム。この不始末、どう片を付ける」

 アリストラムは一瞬、かたく眼を閉じた。くちびるを噛みしめる。

 氷混じりの旋風が白くその姿を取り巻いてゆく。

「逃げるのか、堕教者アリストラム」

 レオニスが怒鳴った。殺意を吹きまとわせた槍で、アリストラムごとラウを貫こうとする。

 今までアリストラムの姿が占めていた空間が、吹雪のようにざあっと音を立てて四散した。

「くっ……!」

 みぞれを含んだ突風に眼を突かれ、レオニスは仰け反った。手で顔をかばいながらよろめく。白銀の髪が、氷を含んだ突風に吹きあおられて激しくたなびいた。

 残された白い影だけが、ぼんやりと吹き流されている。槍の穂先はむなしく空を切り、何もない空間だけを突き刺していた。

「ちっ」

 レオニスは舌打ちして槍を引いた。

「逃げられたか。まあ、いい。囮が残っている」

 超然とした態度を装って吐き捨てる。

 全裸のミシアが胸の刻印を隠すでもなく突っ立っていた。レオニスは改めて上から下まで、値踏みするような眼でミシアの裸身を見回すと、その顎をつかんだ。

 ぐいと乱暴に持ち上げる。

「汝、まつろわざるもの。神の名において絶対の服従を命ず。お前は、俺の木偶人形デコイだ」

 ミシアは何の抑揚もない声で繰り返した。

「はい……わたくしはレオニスさまの……人形です」

 胸に刻まれた魔妖の刻印が、どくり、と、なまめかしく光り出した。花片のように張り裂けた心の疵痕から、道化の涙めいたしずくがしたたりあふれて、淫靡に胸を汚す。

「欠落者ならば、奴隷にされて当然だな」

 ミシアは情緒の欠けたうつろな眼で、言われたとおりに繰り返す。

「……はい。わたくしはレオニスさまの奴隷です」

 レオニスはミシアの乳房に開いた罪の花芽を見やり、侮蔑の笑みを浮かべた。自らのコートの胸元へと手をやり、一番上のボタンを片手ではずして、ぐいとゆるめる。

「では、その証として今、神にすべてを捧げろ」

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