「じきに、死ぬほど狂いたくなるぞ」

「人間の臭いもしなければ魔妖の臭いもしない。そのくせあの城と同じ忌々しい臭いがする」

 嫌悪を込めた唸り声が魔妖の喉から洩れる。ラウは首筋の毛をざわりと逆立て、後退った。威圧感だけではない。恐ろしいほど圧倒的な力量の差を感じる。牡の狼特有の、むんとする臭いが立ちこめた。まさか、同族――

「犬か」

 蔑称まじりに吐き捨てる。渦巻くほどに長い、黒い、太い尻尾がゆらりと打ち振られた。ぬめるような黒さだった。色違いの差し毛の一本もない。

「たかが犬の分際で」

 低い声がいんいんと響く。わずかな喉の震えが、風洞を通る風のような声に予言めいた笑いを添えた。

 ほのかな殺意が、喜悦となって滲み出る。

「身の程を弁えろ」

 身体がすくんで、動けない。

 今ほど、剣を忘れてきたことを後悔したことはなかった。足の先が氷のように冷たい。

 怖い。喰い殺される。

 身体の奥底が無様にも震え出して、止まらない。戦って勝てる相手には思えなかった。何とかしてこの場を逃れるしかない。だが、この魔妖は城のことを知っている。もし逃げた先にまで追ってきたら。

 アリストラムの、病み上がりにも似た息苦しげな声を思い出す。いくらアリストラムでも、魔力による加護なしに魔妖と戦えるはずがない。

 ラウは、こみ上げる恐怖に耐えきれず、息を乱して呻いた。せめて内心だけはおくびにも出すまいと必死に歯を食いしばる。

 だが、その虚しい抵抗すらあえなく見抜かれたようだった。黒狼の魔妖は嘲りの眼を横目に走らせた。

 白く光る牙を見せ、うっすらと笑う。

「目ざわりだ」

 どこか嬉しそうに、舌をなめずらせ――

 次の瞬間、魔妖の身体が宙を舞った。木々の枝を弾き飛ばし、一直線に漆黒の砲弾が迫り来る。

 ラウは声を呑んだ。かわそうにも身体がまるで動かない。避ける間もなく、そのまま高々と跳ね飛ばされる。身体が木の幹に激突した。木っ端と枯れ葉と生枝をめきめきとへし折り、吹き散らしながら、さらに遠くへと吹き飛ばされる。

 頭から地面に叩き込まれ、もんどり打って跳ね転がった、その無力な身体の上から、大地まで抉り抜くような重い拳の一撃が突き込まれた。

 身体ごと、意識が叩きつぶされる。血の味がこみ上げた。さらにもう一発。顔を殴られる。意識が遠い。身体が動かない。何をされても、もう、鈍い、遠い痛みにしか感じないほど、血に沈んで。

 魔妖の爪が着ぐるみパジャマにかかった。さながら溶けたバターのようにやすやすと、身にまとうものを切り細裂いてゆく。ほっそりと幼さを残した薄褐色の姿態があらわになった。

 黒狼はつと陵辱の手を止めた。ふるえるラウの尻尾を乱暴に掴んで、引きちぎらんばかりにたぐり寄せる。

「魔狼の雌か」

「あ、う……痛っ……!」

 ラウはあらわにされた下半身をなかば吊り上げられながら、血を吐き、呻いた。魔妖の舌が、ラウの腹上にこぼれた血をどろりと舐め取る。

「まあ、いい。獣も魔妖も食えば同じだ」

 いたわりの欠片もなく、ただ冷ややかな喜悦と欲望のまなざしだけをしたたらせ、魔妖は笑った。腰に容赦ない重みをかけながら、押し潰した身体にのしかかってくる。

「や……や、だ……」

 ラウはかすむ眼に涙をいっぱいにため、弱々しくかぶりを振った。

「たす、けて……ア……!」

 腕を押さえ込み、足を割り、魔妖が近づいてくる。あらわにされた全身の傷を、爪で深くさらに裂かれ、舌で広げられ、舐めすすられる。流れ出す血を受ける欲情の舌がべろりと肌を這った。そのたびに何かが傷口からこぼれ、今まで感じたこともない、淫靡な、狂気めいた別の感覚を流し込まれてゆくような気がした。

 黒いたてがみのような艶やかな獣の髪が荒ぶる本能のまま降りかかり、覆い被さる。爪を立てられ、牙を立てられ、苦痛なのか恐怖なのか分からない感覚に揺すぶられて、ラウは身をよじり、呻き泣いた。

「じきに、死ぬほど狂いたくなるぞ」

 ラウの顔を濡れそぼった枯葉の褥に押しつけ、乱暴によじらせて這い蹲らせる。

 獰猛な牙がぎらりと光った。

「や、やだっ……やあっ……!」

 魔妖は残忍に笑い、ラウの首筋に牙を立てた。反射的にラウは身体を硬直させた。必死にもがき、牙から逃れようとする。食らいつく牙がさらに追いすがった。動脈ごと噛み裂かれる。

 息ができなかった。飛び散る血飛沫を魔妖は不遜にも高らかに嘲って浴びた。首を振り、こぼれ落ちるしずくを長い舌でねっとりとすくって、音を立てて執拗にしゃぶる。

「アリ……ス……助け……て……!」



 意識が薄れてゆく。

 ふいに、首輪がけたたましい音を立てた。峻烈にきらめく。

 黒狼の魔妖はいらだたしげに唸った。

「この首輪」

 溶岩のような金の妖瞳が苦悶にほそめられる。魔妖は巨大な牙を剥きだし、ラウの喉をくわえたまま何度も地面へと叩きつけるようにして振り、投げ飛ばした。

 ラウはもんどり打って地面に倒れ込む。

 逃げようとしても身体が全く動かなかった。爪が虚しく土を掻く。

 喉が熱い。苦しい。

 魔妖は邪魔な首輪に手を掛けた。乱暴に引きちぎろうと無理矢理鷲掴む。ラウは首輪に喉を締めあげられ、呻いた。

 魔妖が吠え猛る。

 そのとき。

 首輪全体が銀のかがやきを放って魔妖の手を焼き焦がした。怒りを宿した銀の神官杖が空を切って旋回し、紫電の矢を続けざまに放つ。月金石が石琴のごとく玲瓏に鳴り渡る。

 光が魔妖の頬をかすめ、背後の木に突き立った。

 一瞬の間をおいて木が粉々に爆散する。

 純白と、銀と。燃え立つかのような紫紅の瞳。右手に杖。左手にゾーイの剣。戦闘神官の孤高な装いに身を包んだアリストラムが黒狼の魔妖を睨みすえていた。

 魔妖は頬に流れた血を拳でぬぐった。わずかにこわばった顔を上げる。

「手を放しなさい」

 青ざめた聖銀の弧を描く杖を、ぴたり、と、剣の切っ先の如く突きつける。紫紅の眼がゆらめかんばかりの怒りに燃え立っていた。

 押し殺した声が、矢となって魔妖をつらぬく。

「……人に害なす魔妖は、滅ぼされなければならない」

 その声は、死者の埋葬を告げる夕闇の鐘のようだった。静かに、厳かに、破滅する闇の行く末を宣下する断罪使徒の、声。

 黒狼の魔妖は一瞬の動転をたちまち消し去り、ラウを襲ったおぞましい姿のまま黒い尾をひるがえらせて闇へと跳ね戻った。憎悪に満ちた唸り声が笑い声に混じる。

 金眼がゆらりと笑みくずれた。高圧的に含み笑う。

聖銀アージェンの教徒。なるほど、そういうことか。面白い」

 黒狼は嘲笑の闇に身をまぎらわせた。闇散る気配となってゆらめき消えてゆく。

 アリストラムはあえて後を追おうとはしなかった。するどい眼で森の闇を見通し、妖気が完全に消えたことを確かめるとわずかに顔をゆがめ、急いでラウの傍らに膝をつく。

「大丈夫ですか、ラウ」

 ラウは、突然に身体の奥からこみ上げてきた悲鳴を押さえきれず、アリストラムの手にしがみついた。

「アリス……!」

 アリストラムはそれ以上何も言わず、純白のコートを脱ぎ落とした。ラウの身体をコートでしっかりと包み込む。ラウはアリストラムの腕に抱かれながら、その胸にしがみついて泣きじゃくった。

「ごめんなさい……あたしが……あたしが勝手に、部屋を飛びだしたりしたから」

「何も言わなくてもいいのです」

 アリストラムは低くつぶやくと、くるんだコートごとラウの身体を抱き上げた。

「とにかく手当を。あれだけの力を持った魔妖を相手に、この程度で済んでよかった。おそらく、あれが今回の敵でしょう」

 アリストラムはラウを抱きしめた。ラウは身を任せ眼を閉じようとしたが、眼を閉じただけで記憶が心を焼く閃光となってよみがえった。脅され、尻尾を捕まれ、強引に引きずり倒されて――

 悲鳴を上げて眼をつむる。身体がおこりのようにがくがくと震え出した。ラウの急変に気付いたのか、アリスはなおいっそう強くラウを抱いた。

「ラウ、大丈夫です。心配はいりません。私がついています。もう二度と貴女を危険な目には遭わせない」

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