「愚かなのは、私だ。未だに忘れられない」

 首輪がけたたましい音を立てて鳴り渡った。

「あち、あちゃ、あちちち!」

 ラウは剣を放り投げた。ベッドにひっくり返って首輪を押さえ、七転八倒する。

「痛い・熱い・痛い、うわあんやめて痛いってばアリスのバカあああ!」

 焼け付くような痛みがのどを締め上げる。ラウはアリスの胸に顔を埋め、ぎゃあぎゃあと泣きわめいた。

 アリストラムの手首にはめられた銀の腕輪もまた、ラウの首輪と同じくじりじりと赤く光っている。聖紋章が宙に浮かび上がっては激しく反応し、燃え尽きる星くずのように明滅して消えた。

 そうなってようやく、アリストラムは目を開いた。うつろな紫紅の瞳がぼんやりと天井を仰いでいる。

「おはよう、ラウ」

 心ここにあらず、といった様子である。ラウはぐすぐす泣きながら喉を押さえた。

「い、痛いんだってばもうーーー!」

「……ありがとう、起こしてくれて」

 アリストラムはかすかに眼を瞬かせた。

「いつも感謝していますよ」

「う、うるさああい!」

 ラウは鼻の頭まで真っ赤にして号泣した。枕に顔を突っ伏す。

「あんたなんて一生そのまんまで寝てりゃいいんだーー!」

「それは困ります」

「だから何でこうまでしないと起きられないのかって聞いてんのよーーー!」

 火傷しそうなほどひりひりと痛む首を押さえ、アリストラムを睨む。

「あんただってこれと同じぐらい痛いんでしょうがああ!」

 ラウはアリストラムの手首にはめられた腕環を掴んで揺すぶった。

「ええ、たぶん、痛いような気がしますね」

 アリストラムはゆっくりと半身を起こした。まだどこか朦朧としているのか、相変わらず取りつくろった優しいだけの表情を浮かべている。どんなにその内面をのぞき込もうとしても、鏡と同じ。苛立つ自分の気持ちだけしか瞳に映し返さない。

「貴女が起こしてくれなければ起きられないのですから仕方有りません」

「も、も、もう知らないっ!」

 ラウは手にした枕をアリストラムの顔めがけて投げつけ、鼻をすすり上げて怒鳴った。

「眠ったまま起きられなくなるぐらいなら最初から魔力なんてくれなくていいって言ってんの! なんか最近どんどんひどくなってない? あたしが逃げたらどうする気よっ!」

「大丈夫ですよ」

 アリストラムはこともなげに枕を受け止めた。

「こっちにきて、ラウ」

「何!」

「はい、枕」

 何気なく手渡される。気圧されて思わず受け取ってしまいそうになってラウはぶるぶる首を振った。

「だからそうじゃなくて!」

「ああ、すみません、こちらがお望みでしたか」

 手を握られて、ちゅっとついばむようなキスを指先にされる。

「!」

 がたがたとのけぞる。アリストラムは素知らぬ顔で肩をすくめた。朝露のようなため息と一緒につぶやく。

「信じていますから」

 言葉が、ずきんと胸に突き刺さる。ラウは、一瞬真っ赤になり、それからあわててぶるんぶるんかぶりを振って後ずさった。

「う、う、うるさああい! 勝手なことばっかり言って、も、もう二度とあんたなんか起こすもん……」

「信じています」

 アリストラムは力無く寝乱れた髪を掻き上げ、無意識につぶやいた。

 声が、途絶える。ラウは息を呑んだ。絶対に壊れないと思っていた銀の仮面がひび割れてゆく。

 アリストラムは、かすかに笑った。何もかも見透かすような眼が、穏やかにラウを見つめている。

「……そろそろ夕食を催促しにゆきませんか? お待ちかねの肉肉肉ですよ、ラウ」

 だが、その口から漏れたのは、いつもと同じ、おだやかな言葉だった。




 はてさて、いざ食事、である。

 テーブルは戦場だ。じゅうじゅうと沸騰する脂を散らしながら運ばれてくるは鳥の丸焼き豚の丸焼き牛の丸焼き未確認生物の丸焼き! 広がるはたぐいまれなるローストの香り! 飴色に焦げたつややかな皮の照り色! 表面を伝う濃厚な脂の何となめらかなことか! 嗚呼これぞ肉の醍醐味、一口ほおばれば眼から怪光線がほとばしるうまさである、ヒーハー!

 まさしく至高の時間。随喜の涙にくれながら前菜等には目もくれず、ひたすら肉・肉・肉・肉・肉・肉! とラウの周辺だけに異様な数の皿と食べ散らかした骨とが積み重ねられていく。皿を下げる暇もない。

「アヒャおいひい、おいひすぎるよう、アリスあんたも早く食べなよあたしが全部食っちゃうよむぐむぐ、こっこれは何、もしかして天国? しあわせすぎてあたし死んじゃうかも、ああ、何日ぶりだろこんなに食べたの! もうこのまま喉に詰まらせて死んじゃってもいい! うひょわこれもすんごいおいひい、んぐんぐおかわりー!」

 出せば出すだけ、というより、どんなに焼き急いでも食べる速度に追いつかないのでは、もはや味も焼き加減もめちゃくちゃいい加減なはずなのだが、そんな瑣末なことなど底無しの胃袋にとっては全くもってこれっぽっちも問題ではない。

「うあああ出たあああ!」

 ラウはまた眼を輝かせた。両手を結び合わせ、歓喜に身をよじって最大限の喜びと期待を表現しつつ、じゅるるんとはしたなく舌なめずりする。

「すっごーい!」

「……巨大マンガ肉の……」

 給仕が二人がかりで運んできた巨大な銀の皿には、これまた超巨大な、こんがりじゅうじゅう言う骨付き肉がどでんと乗っかっている。表面が少々真っ黒に焦げているぐらい何だというのだ、内部が生焼けだから何だというのだ、ふんわりと香り立つ甘辛グレービーの香ばしさと来たら、もはや理性を失うのを飛び越えて正気を失いそうである。

 皿がテーブルに置かれるや否や、ラウはがっしとばかりに両手で骨を鷲掴みにした。そうするなりあんぐりと口を開け、一気にかぶりつく。うわあああああ何という恍惚、何という幸せ! と、そのまま昇天しそうになるのを必死に食欲の大波で押し流し、がじがじがじと右に左に盛大に食い散らかす。

「丸焼きでございます……」

 何とか無事に運び終えたと思った給仕が、やれやれと安堵して一礼したその瞬間にはもう皿の上の肉は消えている。骨の髄までしゃぶり尽くされ、つるりと綺麗な骨のみの姿になって。

「うまあい! おかわりーー!」

「ひいいい!」

 骨を振り回して続きを要求する。あまりのことにドッタムポッテン夫妻は真っ青になって泡を吹いている。

 アリストラムはあきれ果てたため息をついた。それでもラウを見つめる愛おしげな微笑みは変わることがない。

「まだ食べるおつもりですか?」

 ラウはほっぺたの両方にぷっくりとマンガ肉を詰め込んだまま、愕然とアリストラムを見つめた。もぐもぐ口を動かしながら言う。

「うん、おいひいもん!」

 アリストラムは目元を柔和にほころばせた。

「そうですか。どんどん召し上がってくださいね」

「な、何がどんどんですの何ですのこのバカスカした底無しの食いッぷりは!」

「ああ何と言うことだ我が家の食糧倉庫が空っぽだよハニー」

「こうなれば早く追い出すしか!」

「そ、そうだねハニー、君の言うとおりだ、このままでは破産だっ城の定礎まで食い荒らされてしまうッ」

 ドッタムポッテン夫妻は二人並んで頭を抱え、悶々とテーブルを叩きながら突っ伏している。だが、次の皿を今か今かと待ちうけているラウの耳に罵詈雑言が届いている様子はない。それを後目にアリストラムは悠然とグラスを傾け、ワインを口に含んだ。

 手を止め、かすかに眉をひそめる。

「幸せそうですね、ラウ」

 それ以上渋いワインをたしなむ気にはなれず、グラスをテーブルに戻す。

「うんっ!」

 ラウはうっとりと両手に骨を握りしめ、眼をきらきらさせてうなずき返した。頬がてっかてかに上気している。どうやら最高に脂が乗った気分でいるらしい。

「すっごく幸せ!」

「そう、それはよかったですね。さて」

 言いながら口元を白いナプキンで拭く。ラウはびっくりした顔でアリストラムの仕草を見つめた。

「え、アリス、もう食べないの? まだいっぱいあるよ? デザートもらえばいいのに。あ、デザートは何? 肉? あたし肉のアイスが食べたいっ!」

 本来ならば、「それは肉をただ凍らせただけでは?」と問い正すべきところである。が、あえて残酷に否定してせっかくの素敵な夢を壊してやることもないだろう。アリストラムはそう思い直し、ここは鷹揚とうなずくのみにして曖昧な表情を浮かべた。ラウはと見れば、相変わらずお腹に食べ物を詰め込めば詰め込むほど悩み事が押し出されるたちのようで、屈託なく周りの人間たちを見回しては、夢いっぱいおなかいっぱいのわくわくした顔で次の料理が出てくるのを待っている。

 アリストラムは視線を横へ走らせた。お仕着せ姿の上にフリルの白いエプロンを身につけ、カチューシャで髪をきちんととめたミシアが目に止まる。アリストラムは目配せでミシアを呼んだ。

「お呼びでしょうか」

 ミシアは伏せ気味の顔をなおいっそう伏せ、城主夫妻と目を合わせぬようにしながら近づいてくる。

「私は先に失礼するよ。少々、気分がすぐれないのでね」

「あれ、アリス、行っちゃうの?」

 ラウはおしゃぶり骨をくわえたままアリストラムに尋ねる。アリストラムはにこりとラウへ笑いかけ、何でもないと言ったふうに手を振った。

「ああ、すみません。でもラウはゆっくり食事を続けていて良いんですよ」

「何言ってるんざますのそんなこと言わず今すぐにでも連れ出しなさいなこのバカ食い胃袋娘を!」

「シッ聞こえるよハニー……」

「では、ドッタムポッテン卿、マダム、たいそう美味しい食事でした」

 素知らぬ顔で容赦なくもにっこりと言い置き、立ち上がる。給仕が椅子を引いた。

 アリストラムはまだ少しふらつく足でダイニングを後にし、足取り重く部屋へ戻った。心配そうな顔のミシアが後からランプの火を手に足元を照らしながらついてくる。

 部屋に戻ると、窓が開いていた。食事の合間に誰かが空気を入れ換えたらしい。だがそのせいか魔妖断ちのための薫香がうすれている。些細なこととは思うものの、さすがに無用の手間が重なるといささか苛立たしい。アリストラムは眉根を寄せて部屋を見渡した。

「お薬でもお持ちしましょうか」

 アリストラムが何も言わず香をたく準備を始めたのを見て、ミシアは不安そうな態度を見せた。何か粗相をしたとでも思ったのか、困惑の仕草で手を揉みあわせ、おずおずと口を挟む。

「何か……その、御用が他にございましたらお命じ下さいませ」

「あとでラウにお風呂を使わせたいのだけれど、いいかな」

 アリストラムは振り返らずに言う。ミシアはようやく気詰まりさを振り払えたのか、安堵した様子で顔を上げた。

「承知致しました、では……」

「ミシア」

 アリストラムは、去ろうとするその手をふと掴んだ。

 ぞくりと身をちぢめるミシアの背後から、ゆっくりと身をかがめ、耳元に怜悧な微笑を寄せる。

「話があります」

 アリストラムは、ふっ、とミシアの耳に息を吹き入れた。

「……どうしてキイスのことをラウに言わなかったのです」

 ミシアは、一瞬あおざめた。悠揚と責める態度のあざとさに身体を凍り付かせる。

「あっ、いえ、その、あの」

「ラウから聞きましたよ。キイスのことも、敵の魔妖のことも聞かされていない、と。どうしてでしょうね。私には、恋人のキイスを助けてくれと真っ先に泣き崩れて見せた貴女がなぜ、ラウには何一つ伝えずに黙っているのです。よもや私の前で見せた涙すら演技だったとでも言うのではないでしょうね」

 アリストラムは冷淡に微笑んだ。

「ラウでは当てになりそうもないから、断って帰ってくれればいいとでも思ったのですか。それとも」

 指先にミシアの髪をからめ、からかうように、辱めるように冷淡に引っ張る。ミシアは声を呑んだ。ほどけた指がのどをつたい、肩から腕へと撫で下ろすように下がって、そのまま怯える胸元へと忍んでゆく。

「……お許しくださ……」

 払いのけようとする、そのわずかな抵抗でさえ、ほのかに揺らめく紫紅の眼差しにからめ取られて力無く萎えてゆくかのようだった。

「逆らえば気の脈がゆがみますよ」

 酷薄さすら感じさせる冷たい脅迫の目線がミシアを見下ろす。笑みの欠片すらない、情緒の失せた瞳。まるで気配一つしわぶかせぬ氷の沼のようだった。

「……アリストラムさま……!」

 アリストラムは半裸にあばいたミシアの身体を壁に押しつけた。値踏みでもするかのように、晒した肌のきめを調べ、特に首筋を注意深く検める。赤い痕跡が見いだせた。傷というにはなまめかしすぎる赤さ。

 アリストラムは表情ひとつ変えず、さらに眼を近づけた。白い肌の表面に触れるか触れないかの高さで掌をかざし、裡に秘めた何かの反応を求めてじりじりと探ってゆく。青い光が反応した。はだけた胸に、書き判らしき花印の呪縛が浮かび上がる。

 ミシアは身体を弓のように反らしふるわせて喘いだ。

「あ……ぁぁ……見ないで下さいまし……!」

「魔妖の刻印」

 アリストラムはふいに残酷な力で乳房を絞り上げた。白くやわらかな胸が、潰れんばかりに形をゆがめ、赤く染まってゆく。

「そのキイスという男――まさか」

「い、いや……ぁっ……!」

 ミシアはアリストラムの声をかき消すほどのすすり泣きを漏らしながら、身をよじった。刻印の光が青い罪の残像となって妖麗に揺れ動く。

「違います……お……おゆるし……くださいませ……後生でございます」

 アリストラムはわずかに顔をゆがませた。ときに魔妖は己が所有する人間に対し、人が己の家畜に印を付けるのと同じように、二度と消えぬ隷属と執着の刻印を戯れに刻みつける。消すことも、自ら消し去ろうと思うことすらできぬ、魔に陵辱され堕落した罪人のしるし。眼に映り込む光の感触は、見知ったそれとは明らかに異なる気配であったにせよ、恐ろしいほど身に覚えのあるものだった。

 もし、これがキイスと名乗る男のつけたものであるならば、その意味するところはまごうことなく――

 アリストラムは突き放すようにしてミシアを解放した。疲れたかぶりを振って追いやる。ミシアはよろめき、胸元を隠し押さえて壁際に崩れ落ちた。

「どうか、おゆるしくださいませ……!」

 アリストラムはミシアの懇願をつめたく遮った。

「もう、いい。下がりなさい」

 ミシアは蒼白な顔で乱れた胸元をかきあわせると、頭を下げ、逃げるようにして部屋をよろめき出ていった。その後ろ姿を見送ると、アリストラムは部屋の隅に行き、咲き乱れる花の絵付けがされた、白と金の水盆に掌をくぐらせた。

 ぽつん、と揺らぐ水面に広がる波紋を眼で追い続ける。どこかから差し掛かる碧の光が波紋の影を淡く色づかせていた。記憶のどこかに残っていた面影が映り込む。

 やがて顔を上げ、追想を水沫で断ちきってためいきをつく。アリストラムは窓際の揺り椅子に深く腰を落とし、ゆらぎに身を任せて眼を閉じた。こめかみを指で強く押さえ、記憶となって滲み出る鈍い痛みに唇をゆがめる。

「ゾーイ」

 罪の刻印。アリストラムの頬に白く、自嘲の笑みがこわばって貼り付けられる。

「愚かなのは、私だ。未だに忘れられない」

 月明かりの下、窓際で揺れる椅子の軋みだけが単調に続いている。灰色に冷たく染まる石床に黒く、罪の残影が落ちた。

「……貴女を」

 そのまま心まで石になってしまったかのように、深く、暗く、自分自身の奥底へと沈み込んでゆく。その姿はまるで生きながら氷の檻に閉じこめられた永遠の彫像のようだった。

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