居鯉の夢

茂瀬草太

居鯉の夢

春の章

噂話

山の麓には居鯉に取り憑かれた絵師が住んでいるらしい。

婆様ばばさまたちが噂をしていた。

居鯉が何なのかと聞けば、過去に罪を犯した者の身の内に巣食う妖と言う。

爺様じじさまは無言で険しい顔をしていた。



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お爺様に連れられ、麓の庵に行く。

其処には見慣れぬ白い鬼が居た。

お爺様は身の内に居鯉を飼う者だと言った。

彼は遠い海の向こうから来たという。

明日から彼の身の回りの世話をする役目を頂いた。



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彼に住まう鯉の事を『居鯉いこい』と呼ぶのだという。

現実に人生を翻弄されている人間に住まうらしい。

赤と黒が鮮やかな鯉は、どうみても錦鯉にしか見えない。

男の目元で漂う尾ひれが、夕日に照らされて優雅に揺れていた。



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居鯉は深い悩みを持ち、生きる事に苦しむ者に寄り添い、共に生きていく憑き物と聞く。

異なる様ではあるが憑かれた者は一様にして美しいが、短命である。

爺様じじさまは声を潜めて悲しげに言った。



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居鯉の男は滅多に村に降りて来ない。

降りて来ても少し離れた場所までしか来ない。

その姿をうかがいながらも呼ばないのは、村の皆が彼に怖れを感じている事を知っているからだ。

表情の見えない横顔で、名残惜しそうに居鯉が揺らいだ。



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幼い兄弟を背負い、でんでん太鼓をくるくると回す。

寝る子を起こさぬ様に小さな声で子守唄を口ずさむ。

気付けば、いつもの癖で鯉の男が住む庵に来てしまっていた。

流石に村から離れ過ぎた。

男の元へは行かず、子守唄を口ずさみ、きびすを返す。

後日、男が聞き慣れた子守唄を口ずさんでいた。



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春も賑わぐ桜が宴の端っこに、鯉が住まうという男が居た。

興味本位で声を掛けてみたら、男は素っ頓狂な顔をした後、楽しそうに笑って団子をくれた。

男が作ったという団子は、少し甘くて、桜の様に薄く色づいていた。



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紙の上を筆が滑る。

三つの指だけで支えられたそれは、くるくると色を滲ませていく。

じわりと染みるたび、腕でおよぐ鯉が身をひるがえした。



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鯉の住処である男は、紙以外のものにも絵を描く。

壁とか、畳とか、柱とか、挙げ句の果てには人間の体にも描く。

男は絵を描くことに関しては、結構貪欲だと思う。



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男にとって、絵とは記憶なのだろうか。

分からない。

聞いたことはないから。

聞けば、もしかしたら話してくれるかもしれない。

話してくれないかもしれない。

どちらでもいい。

どちらにしても、絵を眺めることしかしないのだから。



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ざりざりと男の足は重たそうに歩く。

男が一歩歩く度、それより小さな足が三度地を蹴る。

細かにたたた、と追い掛ける足音は何も言わずに男を追う。

ひらりと視界を過ぎった手元の鯉が、咎めるかの様に男を見ていた。



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男の薄皮の下を泳ぐ鯉に触れる。

少しだけ冷たく感じるけれど、濡れた感触も硬い鱗の感触も感じない。

男に聞いても、何も感じはしないと言う。

尾鰭が当たった指先は確かに何も感じなかったけど、どうしてか擽ったかった。



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手のひらを合わせてみた。

子どもの手と大人の手だから、当たり前にその差は大きい。

節くれだった長い指先を、鯉が泳ぐ。

まるで、男の皮膚に住まう鯉を捕まえたようだ。



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山の中を絵師様と歩く。

絵の具の元になるものを探していると言う。

言われた石や花や草のある場所へと黙々と向かう。

絵師様は時々、物珍しそうに立ち止まる。



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柊の枝葉を腰帯に挿し、村を走る。

布で顔を隠して、見えない誰かを叩いて回り、その度豆を一つ貰う。

翌る日、男の部屋に絵が一枚増えていた。

見慣れた村の中、一人見慣れぬ童には見えない振りをした。



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枯れた畑を囲み、巫女様たちが踊りうたう。

男たちは太鼓を叩いてはやす。

神々に実りを願う為の祭だ。

居鯉が太鼓に合わせて、ひらりひらりと身をひるがえしていた。



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春一番が吹き荒れる。

風に煽られはためく袖を抑えて、隣に立つ男を見上げる。

心地好さそうに目を細める男の胸元で、風を凌ぐ様に男の皮膚に居る鯉が見え隠れする。

ぽつり、と何処からともなく雨が降ってきた。



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上巳の折に川で身を浄める。

冷たさに震えていれば、男が甘い酒を温めようと言ってくれた。

都では、代わりに雛を流して禊を行うそうだ。

桃の花が浮いた泉を避けるように、居鯉は腕を登っていく。



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庭にある桜が咲いた。

月の満ちた夜だ。

青白い光に照らされた桜は、昼とは違った荘厳そうごんさを持って、風に花びらを散らしている。

感嘆の溜息が静かに聞こえた。

隣に居る鯉を肌にまとう男を見上げる。

端の欠けた猪口ちょこを傾け、夜桜を肴に濁酒にごりざけを呷っていた。

何だか、こんなにも穏やかな夜は久方振ひさかたぶりに感じた。



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桜が舞い散る季節。

男の住まう庵近くには遅咲きの梅が桜に混じって咲き誇っていた。

男は梅と桜の花を手に取り、陽に透かすように持ち上げた。

物珍しげに男の横顔で泳ぐ鯉が、随分と可愛らしかった。



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薬採やくとりの日に、男と野遊びをした。

菖蒲によもぎを採り、ふしの頃にだけ食べられるちまき※を男と分け合う。

あらかじめ持っていた酒によもぎを浸せば、男は興味深そうに飲んだ。

居鯉は気に食わなさそうに衣の影に潜んでいる。





ちまきちがやあし真菰まこも、笹などの葉で、餅米や粳米粉うるちこめこの餅を包み、蒸す或いは煮た食べ物のこと



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骨張った腕をぐるぐると廻りながら、鯉は薄い皮の内を泳ぐ。

肩を目指し登る姿は、まるで滝を登る龍の様だった。



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山に霞が入り、男の住む庵もあわせて白く染まる。

筆が腐りそうだと愚痴ては絵の具を練る男の隣で、湿気に重くなった紙を取る。

滲めば味も出ると満足そうに紙を用意したのは男だ。

男の腕でくるくると遊ぶ鯉の色だけが、霞む向こうではっきりと見えた。

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