第40話「変化」

 翌日。

 雨上がりの空は、澄み渡った青である。

 薬を手に、回廊を進む琅惺。すると前方の角を曲がって現れた姿があった。

 寺主である。普段は柔和な笑みを浮かべている寺主の表情が険しい。ここを渡ってくるということは、恐らく上座の元へ行ったということ。

 胸が騒いだ。だが、努めて平静に、軽く会釈をしてみせる。

 すると、寺主は横を抜けることなく足を止め、問うてきた。

「上座のところへ参るか」

「はい、お薬をお持ち致します」

「それは私が行こう――少し、良いか?」

「はい」

 寺主に促され、琅惺は寺主に続いて院子にわに降りた。手に持っていたものは階に置く。

 院子には暖かい日差しが射し込み、昨夜の雨が残る花葉は、光り満ちている。しかし、

「実はこれは内密にして欲しいのだが……」

 寺主は苦渋の表情のまま、幾分小声で言葉を繋ぐ。

「先程化度寺から遣いの者が参ってな、言うには、昨晩化度寺に賊が押し入ったと」

「化度寺に賊! それで上座は?」

 道士の狙いが分からずともよい、いっそ聞き違いであってくれたら――と言う願いはあっけなく砕かれた。高鳴る心音。相変わらず固い表情の寺主。答えが返ってくるまでの束の間が、どうしようもなく長く感じた。

「いや、それが投げ文があったとかで衛士が辺りを警戒していて、未遂に終わったらしい。犯人は取り逃がしたようだが……」

 ――嗚呼、観世音菩薩!

 心中で、あらゆる困難に救いの手を延べるという菩薩の名を叫んだ。

「じゃが上座が驚愕の余り倒れられたそうな。我が寺に続き化度寺が襲われたとあっては、仏教界に与える衝撃は大きいて。他の者共が知っては皆浮足立ってしまうだろう。そこで――お主、化度寺に見舞いには行ってくれぬか?」

「私が?」

「うむ。この雨安居の時期を押してまで儂や他の比丘が参っては、今度はあちらの者が大事になっていると動揺するだろう。お主なら――、お主が和上である上座の世話をしていることは周知の事実じゃ。薬を取りにいったついで、という形で様子を見て来て貰いたい。上座もそうおっしゃっておられた」

「分かりました。では早速行って参ります」

 高ぶる心を静まることができないままに、琅惺は頷いた。


 ――しかし。

 街は初夏の日差しに包まれて、道行く人の表情も晴れやかである。前からけたたましく笑い、追いかけっこをしながら走ってくる子供を避けつつ、琅惺は左手の拳を口元にあてながら化度寺に向かっていた。

 やはり狙いは一人ではない。仏教界というべきだろう。

 だが何故、あの二人が狙われたのか。仏教界の動揺を誘いたいなら、もっと狙うべき人間はいるはず。そうしないのは、恐らくあの二人に共通する何かがあり、それをあの男は狙っているのだろう。いや、あの老人――随分高位の者と見受けられたが、「あの方」とは彼のことだろうか?――の意志か、それとも五通観のか、それとも――。

 考えがまとまらないままに、化度寺の南大門をくぐった。



「上座、お加減はいかがですか」

 琅惺の姿を認めると、上座は徐に身を起こした。意外と元気そうだが、顔色は悪い。

「いや、お主の和上は毒矢で射られながらも快方に向かってるというのに、何もなかった儂がこの有様とは……情けない限りじゃ」

「きっとお疲れが溜まっておられたのでしょう。和上が倒れた際には色々お心遣い頂きましたし。どうぞ、お休みを」

 そう言うと琅惺は上座を静かに寝かせた。 人払いがされている為、部屋は琅惺と上座二人きりである。

「しかし、故意か偶然か。故意とすると誰が、何の為に――」

 天井を見上げ、上座は呟くように言う。誰が、は見当がついているが、何故かは琅惺にも分からない。だが、

「昨夜も寺周辺には衛士が回っていたと聞きました。きっと近いうち犯人は捕らえられることでしょう。今は他事はお考えにならず、お体を大切になさって下さいませ」

 笑顔でそう言うと、衾をかけてやる。

「お主」

「はい」

「表情が、柔らこうなったな」

 軽い驚き。上座は言葉を繋ぐ。

「以前はどこかしら近寄りがたい雰囲気があったが今はそれがなくなっている。誰ぞよき理解者を得たか、何にしてもよいことじゃ」

 目を細める上座が、大覚寺の寺主とウマが合うのが何となく分かる気がした。以前同じ寺で兄弟弟子として修行したとのことだったが、雰囲気がどことなく似ている。

 何とも答えようがなく黙っていると、上座は一つ溜め息をついた。

「しかしお主の和上に続きワシまで――これでまた作業が遅れるのお。ただでさえ進みが悪いというのに……」

「――何のことですか?」

 上座の呟きに、琅惺はその真意を問う。しかし、上座は明らかに「しまった」という表情を見せた。そして、

「いや、何でもない。こっちのことじゃ」

 そう言って話を無理矢理収めてしまった。

 収められた以上、聞く訳にはいかない。気にもとめないふりをして言葉を交わし、琅惺はほどなく化度寺を後にした。

 だが。

 ――二人が携わる、作業……。

 大路を南下しながら考える。複数で行う何らかの作業に、二人がかかわっている……。

 眉間の皺が深くなっていく。そして、

「あ」


 ――『道僧格』!

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