第28話「毒矢」

 突如耳に飛び込む、場違いな女の悲鳴。目を上げたその先、映ったのは――。


 つい今しがたまで熱弁を奮っていた上座かみざが、石壇に膝を付いている姿。

 群衆、周りの行者がただ騒然とする中、珂惟かいは本堂に向け駆け出していた。

 辿り着くと、すでに比丘びく沙弥しゃみらが上座の周りを十重二十重に囲んでいる。人垣の隙間から窺える上座は、琅惺ろうせいにその背を支えられていた。

「上座!」

「大事無い」

 左腕を押さえながら、苦痛に歪む顔から絞り出される声。立ち上がろうとしている上座の足元、灰白の石壇に赤黒いものを点々とさせながら転がっていたのは、一寸(三センチ)ほどの鋼鉄の鏃が差し込まれた、長さ一尺足らずの、箸ほどの竹棒。

 あれは袖箭ちゅうせん(円筒の中に仕込んだバネで矢を発射する小型の武器)の矢。後ろから狙ってる。飛距離と角度を考えれば――珂惟は急ぎ天を仰ぐ。


 ――いた!


 本堂の屋根の向こう、人影が見えた。若い男。細みで長身である。

 男は珂惟の目に気づくと、屋根を伝い本堂に寄り添い立つ槐の木に飛び移った。

 ――逃がすか。

 目を男に向けたまま、珂惟が人込みを抜けようとした。


 だが。


「上座どうなされました、しっかりして下さい!」

 琅惺の張り詰めた声が、その足を止めた。慌てて振り返る。見れば、腰を上げかけていた上座が、再び地に臥していた。その頬は異様に紅潮し、目線が定まらない。「大丈夫だ」という言葉は、呂律が怪しい。


 これはまさか――毒!


 浮かんだ一言が心臓を鷲掴みし、息が止まった。沸き立つ焦燥、しかしどうすることもできない。比丘や沙弥らの後ろで、他の行者らとともに、ただ見ているだけしか――。

「上座、お心を確かになさいませ。誰ぞ早く医師を。琅惺、上座を早く奥に運ぶのじゃ。行者は速やかに聴衆を寺から出せ、急げ!」

 そこへ駆けつけた寺主が騒然とするだけの寺人らに的確に指示を飛ばすと、ようやく皆が動き出した。周りの行者らもその言葉通り、たちまち散って行く。

「行こうぜ、珂惟」

 促され珂惟は上座に背を向けた。行者である以上行かねばならない、だけど――。

 心が千々に乱れるまま、仲間の行者に引っ張られるように身を翻しかけた、その時だった。


「珂惟!」


 背後から鋭い声が飛んだ。振り返った先、琅惺がこちらを見ている。

「彼には医術の心得があります。急場は凌げましょう、手伝ってくれ」

 琅惺は周りの人間を見回しながら声を張り上げた。そして再び珂惟に視線を戻し、

「早く!」

 声に弾かれたように、珂惟は人を押しのけ上座の側に寄った。上気した顔。「少し寒い」と言っているようだが、聞き取りにくい。その手は冷たかった。

「この症状――おそらく、これは附子ぶし

 側によった琅惺が珂惟だけ聞こえる声で、ささやいた。その言葉に、珂惟は驚愕する。

「附子!」

 附子は、猛毒で知られるトリカブトのことである。

「だが、この即効性。恐らく毒性は弱い。処置次第で何とかできる。しっかりしろ!」

 琅惺の囁きは、茫然とする珂惟の耳をただ流れていく。琅惺は、珂惟に更に身を寄せ、

「早く傷口の上を縛れ」

「あ、布、何か――」

「布で縛るんだな、分かった」

 上座に目を注いだまま、動けないでいる珂惟の前で、琅惺は自分の袖を破り、上座の傷口の上を堅く縛る。

 掠っただけの傷を再び切りつけ毒を流し出したのも、用意させた黒豆の煮汁で傷口を洗ったのも、悪心を訴え嘔吐した上座の背をさすったのも、全て琅惺である。彼の指示で周囲が右往左往する中、自失状態の珂惟は、上座の前でただ座り、その手を取っていただけだ。だが琅惺は、全て珂惟の指示に従っている、という姿勢を周りに示し続けた。そして密かに珂惟に声を掛け続けた。

「袈裟が幸いした。傷はかすり傷だ」

「顔色が少し落ち着かれてきているぞ」

「吐いてから他の症状が出ていない。もう大丈夫だ」

 上座を部屋に運び込んでほどなく、医師が到着した。

 小柄な老人は皆が見守る中、傷を診、テキパキと手を施す。そして一つ息をつくと、

「これで大丈夫でしょう。とにかく処置が適切でした、見事なものです」

 その言葉に、一同顔を見合わせ、喜ぶ。

「おお、そうですか。珂惟、よくやったな」

「あれは――」

 寺主に笑顔で肩を叩かれた珂惟は、応えながら目で琅惺を探す。だが彼はこちらを気にすることなく、真剣な面持ちで医師から何事かを、時に頷きながら聞いていた。

 琅惺と医師の向こうに上座が身を横たえている。相変わらず目を堅く閉じていたが、顔色は戻ってきているように見えた。

 熱いものが込み上げて来る。それを必死に押さえようと、珂惟は唇を噛んだ。

「よかったのぉ」

 そんな思いを知ってか知らでか、寺主はいつもの人の良さげな笑みで珂惟を見上げる。

 そんな寺主の言葉に、珂惟は顔が歪むのをどうすることもできないまま、ただ頷いた。

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