第16話「母の思い出」

 とりあえず。

 しばらくは、おとなしくすることにしよう――そう決めた。


 杏香きょうかのところに行っているいることは、承知しているはず(どこで見てるんだか)。とはいえ、表沙汰になった時には庇い立てするわけにはいかないだろう。上座として(まあ、庇って欲しくもないけれど)。

 杏香、怒ってるかな……五日と空けず会っていたのに、何も言わないままもう半月も会っていない。上目遣いで睨みつけながら口を尖らせる、幼馴染の怒った顔が目に浮かぶ。

 そして、もう一人――。


 近所のお馴染みを南門から送り出して振り返れば、両脇に松が立ち並ぶ参道は、昼間とは思えない薄暗さだ。だけどたとえ目を瞑って歩いても、躓くことはない。それくらい慣れた道だ。そう、飽きるくらいに。

「はあ」

 思わずため息が漏れた。


 六年前、ここに来たときには寺の安穏さに驚いた。

 毎日屋根の下で眠れて、清潔な衣が着れて、黙っていても一日二度もの食事が与えられる。こんな平和な生活が送れるなんて……ありがたくで涙が出そうだった。

 もちろん大変なこともあった。最初は読み書き、次に経文を覚えることには随分苦労した。これまで自分に要求されてきたことは、動けることと見目のよさだけ。頭も礼節も、最低限あればよしとされていた。

 その余りの違いに驚きながらも、なんとかついていかなければと、毎日とにかく必死だった。

 そんなにありがたくて、刺激的な毎日だったはずだのに――何だって、こんなに虚ろな気持ちになってしまうのか。

 まるで心を映すかのように陰った磚道のはるか先に、やがて、矩形に切り取られた明るい空間が近づいてくる。


 二年前。本当に偶然、杏香に会った。六年前、洛陽で別れたきりの幼馴染。

 それ以来、彼女が下働きしている妓楼に通っている。それはもはや日常だった。あそこに行けないと商売もできないな。杏香も、もう十五だ。笄礼(女性の成人式)も間近だというのに――そう思うと、おとなしくしていようと決めたはずの心が焦る。


 中門をくぐった。

 正面には寺内で最も壮大な建築物である本堂。脇に生える樹齢一〇〇年、といわれる槐の大木が、さらに威厳を添えている。

 境内に人気はない。

 珂惟は吸い込まれるように本堂への階段を上がった。

 白檀香る堂内。白煙の向こうに立つ本尊は漆黒の阿弥陀如来像だ。

 ただ流されるまま、ここで暮らしている。それが正直なところ。だけどこの香り、この姿――なぜか落ち着く。どうしてなのかは分からないのだけれど。

 このままここに居るのなら、度を受けるのが筋というものだ。現に他の行者は、それぞれの思惑はともかくとして、とにかく沙弥しゃみになるのだと修行している。なのに自分は……。

 見上げる阿弥陀如来は、柔和な顔をしている。

 寺を出たいといえば、きっと上座は出してくれるはずだ(相当うるさいだろうけど)。なのに何だって俺はここに居るんだろう。「場違いだ」という思いを拭いきれないでいるのに。

「どうした」

 背後からの声にびくっと体が反応した。慌てて振り返る。

 何だこの体たらく、またもこんなに易々と背後を取られるなんて。あの下郎に知られたら、どんな目に遭わされたことか――。

「上座」

 そこに立っていたのは、柔和な笑みを浮かべた、黄衣の僧一人である。

「最近元気がないようだな。どうした?」

 上座は眼前の阿弥陀如来に合掌。そして隣に立つ息子に目をやった。

「別に。どうしたって言われても……そうだな、ちょっと疲れてるのかも」

 口から出たでまかせは、そんな言葉だった。何となく目を合わせられない。

「最近はさほど忙しそうには見えなかったが」

 その言葉に、珂惟は曖昧に笑って見せるしかない。やっぱり杏香のところに行ってるのは知ってたんだな。だけど、まさかあいつを窓口に商売してるとは思ってないだろう。バレたら怒るんだろうか。

 二人は、しばし無言で阿弥陀如来の坐像を見上げる。

 最初に、口を開いたのは上座だった。

「もう八年になるか、蘭芳が逝ってしまってから」

「ああ、そんなんかもね」

 蘭芳、母の名である。

 洛陽からここに連れて来られて、初めて二人きりで、ゆっくりと対峙したのがこの本堂だった。そこで母さんの話をした。だから、この状況で上座が母さんのことを思い出すのは仕方ない。かくいう自分も今、それを考えていたから。

 だがどうにも、上座と母さんの話をするのは苦手だ。知らずそっけない対応になってしまう。


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