第5話  可愛い名前

 美蘭みらんは放課後の教室にふらりと現れると、俺の前の席に腰を下ろした。

「何かやらかして、残されてんの?」

「個人面談の順番待ち。お前こそ、今頃ご出勤かよ」

「昨日ちょっと、夜更かししちゃって」

 彼女はそう言うと、両手を組んで前に伸ばし、軽く伸びをした。

「出席日数大丈夫かよ。九月はほとんど休んでたし、今月もこの調子じゃヤバいだろ」

「だからさ、先生にその辺の交渉をしようと思ってわざわざ来たんだけど、あんたの面談終わるまで待つの、面倒くさい」

 気怠そうに、緩く波打つショートカットの髪をかき上げる。桜色の唇の間から軽い溜息がもれた。

「俺の時間、売ってやろうか」

 そう誘いかけると、彼女は笑みを浮かべて「いくらで売る?」と聞いてくる。

「金じゃなくてさ、また、俺んち泊りに来ない?」

 一瞬、薄い色の瞳が光って、それから「残念」と短い返事があった。でも俺はそのくらいでは引き下がらない。

「別にさ、泊まらなくても、遊びに来るだけでもいいし。ママも美蘭のこと気に入ってるしさ、俺が女友達連れて帰るなんて、ママはすっごく嬉しいんだよ」

「そりゃそうよね。風香ふうかなんて可愛い名前つけてあげたのに、中身が男なんだもんね」

「その名前、呼ぶなよな」

「ごめんね、勇斗ゆうと

 彼女は素直に謝る。

「そりゃ、俺が本当の自分に戻るのはずっと先だけどさ、少なくとも美蘭には嘘の名前で呼ばれたくないんだよ。だってこの学校で俺のこと知ってるの、お前だけだもの」

沙耶さやちゃんも、まだ知らないものね。で、計画は順調?」

「とりあえず、専門学校って事で親を説得したいんだけど、あっちは先生を味方につけて大学受験の方に進めたいみたいでさ。でも俺は一年でも無駄にしたくないし」

「受けといて、全部落ちちゃえばいいじゃない。それで予備校通うふりして、いい店みつけて雇ってもらえば?」

「そうだよな。俺って変なとこで親に弱いっていうか、ついつい大学に行っちゃいそうで」と、そこまで言って、我に返る。

「美蘭に進路相談してる場合じゃないし。でさ、どうかな、さっきの話。遊びに来るだけでも」

「うん。でもやっぱり、やめとく」

 迷う様子もなく、彼女は俺の提案を却下した。少しプライドが傷ついて、でも怖い物見たさというのか、俺はつい「それはつまり、やっぱ、下手だったって事かな」ときいてしまった。美蘭は俺の目は見ずに、「じゃなくて、何だか癖になりそうだから」と答えた。

 そう言われると悪い気はしない。俺は女としてはタイプではない美蘭の事が妙に可愛くなって、腕を伸ばすとその頬に触れた。

 

 俺はもうずっと小さい頃から、自分が男だという事に気づいていた。周りからは「女の子」だと言われるし、服もおもちゃも「女の子」のものをあてがわれて、立ち居振る舞いが美しくなるようにとバレエ教室に通わされても、俺は絶対に男なのだった。でもそれを言うとママが悲しそうな顔になるので、俺は黙って耐えることを選んできた。いつか大人になって、家を出る日がきたら、その日から水瀬みなせ風香という偽の名前を捨てて、水瀬勇斗という、俺本来の名前と姿で生きることだけを支えにして。

 けれど、俺は本当の自分に戻る前に、運命の相手に出会ってしまった。彼女の名は沙耶。都内にある女子高の生徒で、俺と同じ高三だ。今年の春、バスケ部の引退試合で対戦したチームのマネージャーだった。

 単純に言えば、俺の一目惚れだ。長身のバスケ部の選手に囲まれて、ひときわ小柄で華奢で、柔らかな笑顔を絶やさずにいる。それでいて、試合の最中には自分が戦っているみたいに真剣な表情で応援し、僅差で負けた後には懸命に選手たちを励ましていた。自分もあのチームの選手になりたい、そう思ってしまうほど、俺は彼女に惹きつけらた。

 それからは放課後に彼女の学校まで行って、下校してくる姿を眺めたり、後をつけて家を探し当てたり、ほぼストーカーの状態になってしまったけれど、うわべは女子高生である俺が怪しまれることはなかった。

 休みの日には友達と遊びに出掛ける彼女の後をずっとついて回ったり、ファストフードの店ですぐ近くの席に座って、彼氏の有無、志望校、好きなタレント、色んなことを探った。そしてとうとう、彼女が夢中だというアイドルグループのファンイベントで、偶然を装って声をかけ、「友達」になったのだ。

 沙耶は俺が思っていたより大人だった。これまでにつきあった相手は二人いて、そのうちの一人である大学生とは身体の関係があった。

「でも、浮気されて、結局別れちゃった」と、未練もなさそうに言われて、そっかあ、なんて相槌を打っている俺の内心は穏やかではない。何せこちらは経験ゼロなのだ。でも考えようによっては、案外ハードルが低いという事かもしれない。とりあえず、うまくいった時にこっちが未経験で、無様なことになるのを避けるために、俺は誰かを「練習台」にする必要があった。

 それをあっさり引き受けてくれたのが美蘭だ。

 そもそも彼女は、高校に入って間もない頃にいきなり、「風香ってさ、中身は男だよね」と、俺の正体を見破ったのだ。

「別に誰かに言う気はないけど、私の前で女子のふり、しなくていいわよ」と言われ、少なくともこの世で一人は俺の正体を知っている事で、奇妙な解放感を味わった。その美蘭に、「練習台」の話をもちかけると、「私でよければ、別にいいけどね」と二つ返事で引き受けて、泊まりに来てくれたのだ。夏休み前のテストが終わってすぐ、パパとママが従姉の結婚式で福島に行った時の「留守番」要員だった。

 事前に聞かされた彼女の希望は一つだけ。自分の身体のあれこれについて、誰にも口外しないこと。もちろん俺はそこまでデリカシーのない人間ではないけれど、彼女の胸がずいぶんと控えめで、お腹に子供の頃のものらしい、かなり目立つ手術の痕があるというのは、やっぱり強い印象を残した。

 だからいつも体育の時は更衣室を使わずに、茶道の実習用の和室を勝手に使ってるのかな、なんて思ったけど。実際のところ、身体がどうこうなんて、俺には全く問題じゃなかった。

「練習台」は別に何もしなくていい、というのが条件だったので、俺は一方的に攻めた。美蘭は普段の気の強さからは想像もつかないほどシャイで従順で、これでもっと小柄だったら本気になってたかも、なんて思ってしまったほどだ。

 俺は緊張してたし、手際も悪かっただろうけど、心配していたよりずっとうまく事が運んで、美蘭は俺の腕の中で声を漏らし、全身を震わせた。ぐったりと力を失ったその薄い身体が深く呼吸するのを抱きながら、俺は自分も一人前の男になったかな、という満足感を噛みしめたりした。

「お前さ、なんで俺と寝てくれたわけ?」

 もしかして、美蘭は俺に惚れてるのかもしれないという気さえしてきて、今更のように尋ねると、彼女は気怠い声で「初めての時に、うろたえてるとこ見せたくないから、練習しとくのもいいかな、なんてね」と答えた。

「馬鹿だな。そういうのが可愛いんじゃないかよ。初めてってのは」

「私は、嫌なの」

 美蘭は俺の腕を抜け出し、こちらに背を向けて丸くなった。

「それって、いま誰か相手がいて、そろそろかなって予感があるわけ?」

 沈黙。眠ってしまったのか、答えたくないのか判らなかったけど、まあ仕方ない。美蘭の私生活なんて、詮索するだけ無駄ってものだ。


「まあ、無理にとは言わないよ」

 強引さと執拗さというのは別もので、これを間違うと女の子は一気に興醒めするから、俺はその話を終わりにした。でも、諦めがよすぎるのも芸がない。俺は美蘭の頬に触れた指をそのまま顎に滑らせると、「代わりにキスの練習させて」と頼んだ。

「ご自由に」という返事が終わらないうちに、彼女の唇を塞ぐ。沙耶を落とすために、俺はあれこれ研究に余念がなくて、どうやったらすぐに乱れてしまうようなキスができるか、なんて事をいつも考えていたりする。そうして、美蘭の唇に舌を滑り込ませながら、誰かが偶然廊下を通って、この光景を見てくれないかと期待してしまう。

 この学校の男子全員が敬遠する気の強い女、美蘭の唇をこの俺が奪っている。それはちょっとした勝利の感覚だ。この反応だと、うまくすればその気にさせられるかもしれない、と思った瞬間、美蘭は急に顔を背け、俺から離れた。

「どうかした?」

 何か彼女が嫌がる事でもしただろうか。あらためて美蘭の顔を覗き込もうとした時、「ここにいたんだ」という声が聞こえた。振り向くと、後ろの入り口に彼女の双子の弟、亜蘭あらんが立っている。

 全く、最悪のタイミングで登場しやがる。無駄に背が高くて、美蘭によく似た美形なのも腹立たしいけど、いつもうすらぼんやりしていて、幽霊みたいにいきなり現れるところも何だか苛々させる。でも美蘭はやっぱり双子だからか、奴の気配を察していたのだ。

瑠佳るかが探してたよ。土曜のバレー部の試合、助っ人に来てほしいって」と、亜蘭は入り口に立ったままで言った。

「そんな面倒くさいこと、するわけないじゃん」

「取った点数に合わせて、出席日数くれるらしいよ。勝てば、だけど。監督から先生に話つけるって」

「本当?」

 美蘭は急に背筋を伸ばし、「それを早く言いなさいよ」と立ち上がった。

「よし、もう先生に会う必要なくなった。風香も面談さぼっちゃいなよ。進路決まってるんなら、相談なんかいらないわよ。ちょっと熱っぽいから帰るって言えばいいから。そろそろインフルエンザの季節だもんね」

 亜蘭がいるので、美蘭は俺の本当の名を呼ばない。それは彼女の口の堅さの証でもある。

「ねえ、ラーメン食べに行こう。おごるから、つきあって」

 返事も待たずに、美蘭は肘に手をかけて引っ張った。俺は授業もサボったことのない、真面目が取り柄のつまらない男なんだけど、まあいいか。亜蘭は相変わらずぼーっと突っ立ったままで、俺たちが教室を出るのを見送っていた。


「地下鉄とか面倒だからさ、タクシーで行こうよ」

 美蘭は俺の返事なんか待たず、学校の門を出るといきなり車を停めた。そして行先を告げると、鞄からタブレットを取り出し、馬鹿みたいに長いメールをチェックし始めた。普段は友達とのラインでも面倒だからと平気でスルーするくせに、一体誰からだろう。

 でも俺ごときの頭であれこれ考えたところで、美蘭が学校の外で何をしてるかなんて判る筈もなかった。とりあえず亜蘭とは一緒に住んでるらしいけど、親の話は聞いたことがないし、家の場所も知らない。でもかなり裕福なのは間違いない。

 俺たちの通う学校は、私立ではかなり上のランクで、それは偏差値というより授業料の話。小中高一貫で、あとは系列の大学に推薦で進むというのが一般的なコース。そして姉妹校に、更にお金のかかる全寮制の学校がある。名前を聞けば誰だって、「ああ」って顔をする学校で、俺たちとは格が違う良家の子女が通うところ。亜蘭と美蘭はここに中等部まで通っていたのだ。

「もう飽きちゃった」というのが、美蘭がうちの学校に移ってきた理由らしい。

「だってさ、小学校から高校まで同じメンバーで、寮まで一緒なんだもの」

 超名門校が実際はどんなものか、俺はけっこう興味あったんだけど、美蘭は辞めてせいせいした、という感じで多くを語らなかった。たぶん周りは彼女がいたおかげで退屈しなかっただろうけど、美蘭本人はかなり煮詰まってたんだろう。高校ではしょっちゅうサボってるし、寝てるし、なのに成績は抜群。先生なんか「君は早く社会に出た方がいいタイプだ」とか言って、完全に放し飼いだ。

 たしかに彼女は明日から社会人になっても、堂々と世渡りできるに違いない。それだけの自信というか、気迫みたいなものが背骨と一緒に身体の中心を支えている感じで、大勢の中にいても際立って見える。まあ、たんに美人ってことかもしれないけど。

 女にしては背が高くて、百七十と少し。ほっそりしてるけど、華奢ではなく、運動神経は申し分ない。少しウェーブのある鳶色の髪はずっとショートカットで、「一生伸ばさない」と宣言している。色白で、眼の色も光の加減で緑っぽく見えるから、もしかすると何代か前がロシア人とかかもしれない。正面から見ても整った顔立ちだけど、横顔はモデルみたいで、実際にスカウトされた事があるらしい。

 彼女の変なところは、そのスカウトを断って、代わりに弟の亜蘭を売り込んだって事。まあ奴の仕様は美蘭とほぼ同じだし、格好つけて肩のあたりまで髪を伸ばしてたりするから、とりあえず事務所には入れたらしいけど、雑誌やなんかで見かけた事がない。美蘭は「社会勉強させようと思ったんだけど、ほんと売れなくて。やっぱ他人に調教してもらおうなんて、甘かった」とぼやいてたけど、スーパーのチラシ程度の仕事はしてるかもしれない。

 これは俺の想像だけど、美蘭は母親のお腹の中でも、やりたい放題だったに違いない。彼女なら自分の臍の緒だって凶器にしそうだから、そいつで亜蘭の首を締め上げて、栄養を奪い取ってたんじゃないだろうか。そうでなければ、この双子における不均衡の説明がつかない。

 美蘭は確かに面倒くさがりではあるけど、やりたい事であれば半端ない行動力だ。そして学校の連中はもちろん、年寄りだろうと子供だろうと、誰とでもうまく調子を合わせられる。しかし亜蘭はいつもぼーっとしてて、親しい友達なんか一人もいないし、たまに口をきいても会話がろくに続かない。不思議なのは、成績だけはそれなりにいいって事。つまり馬鹿ではないんだから、消去法でいくと奴は間抜けって事になりそうだ。


 タクシーは細い路地に入り、「青龍軒せいりゅうけん」というラーメン屋の前で停まった。こういう店にタクシーで乗り付ける女子高生ってのが多いか少ないか、俺にはよく判らないんだけど、美蘭にとっては日常的な事らしくて、何のためらいもなく店に足を踏み入れた。

「いらっしゃい!」という威勢のいい声があちこちから聞こえてきて、俺も彼女の後に続くと、さりげなく店の様子を窺う。四人掛けのテーブルが三つと、L字型のカウンター。まだ夕食時には間があるけど、客の入りは半分程度、その全員が男だった。

 美蘭は慣れた感じでカウンター席に座ると、「私は青龍スペシャル黒胡麻担担麺。風香は何にする?」と言ってメニューを差し出した。しかし写真入りのメニューを見ても、俺は注文を決めかねていた。男としてはちょっと情けないんだけど、俺の胃はあんまりガツンとしたものを受けつけない性質なのだ。それに、ママが夕食を準備して待っているから、満腹で家に帰るわけにもいかない。

「ゆっくり選べばいいわよ」と美蘭が笑ったその時、「今日は友達と一緒?」という声がして、水の入ったグラスが出された。俺は何気なく視線を上げたけど、息を呑むほど驚いた。

 その店員はまさに、俺が男に戻ったらこういう風になりたいっていう姿かたちをしていたのだ。背が高くて、骨太で、目障りでない程度に筋肉がついていて、黒目がちのはっきりした目元で、顎の輪郭が力強くて、指が長い。欲をいえばもう少し日焼けしているべきだけれど、まあそれはどうにもできる事だ。

「彼女少し食が細いの。桜丸さくらまるのお勧めは?」

 美蘭はどうやらこの男と親しいみたいだ。彼は人懐っこい笑顔を浮かべると、「女の子に人気なのは、もやしハーフかな。これだと麺が半玉であとはもやしだから、ダイエット中の子がよく注文するんだ」と、俺に話しかけてきた。

「じゃあ、それにする」

「ネギは入れていい?血行促進とかって、山盛り入るんだけど」

「うーん、少し減らしてもらっていい?」

「了解!」

 奴がオーダーをとって厨房に引っ込んだ途端、俺は美蘭に向かって小声で質問を浴びせていた。

「何?あいつ滅茶苦茶かっこいいんだけど。ずいぶん仲よさそうじゃない?桜丸って名字?名前?」

「名前よ。フルネームは須賀すが桜丸。まあ、友達かな。博倫館はくりんかんで一年上だったの」

 美蘭は例の、中学まで通っていた名門校の名前を出してきた。

「博倫館?じゃあすっごいお金持ちってこと?なんでここで働いてるの?」

 今は二人っきりじゃないから、女子高生モードで話さなきゃならないんだけど、それを忘れそうになるほど、俺は興奮していた。

「残念ながら今は苦学生。お家の事情って奴」

「もしかしてだけど、つきあってる?」

「冗談やめて」

 美蘭は急にすごく冷静な声になると、グラスの水を半分ほど一気に飲んだ。そしてまたタブレットを取り出すと、「ちょっとごめんね」とメールをチェックし始めた。どうやら俺は余計な質問をしたらしい。仕方ないので背筋を伸ばし、厨房で立ち働いている桜丸に視線を向けた。

 広い肩と、まっすぐに伸びた背筋と、しなやかで逞しい腕。あの身体を手に入れて、沙耶を抱きたい。しかし現実の俺は美蘭よりもずっと「女らしい」体型をしていて、それがまさに苛立ちの種だ。身長はようやく百六十と少し。何とか目立たないように苦労している胸はEカップに近いし、全体の体つきが妙に丸っこい。手は小さくて厚みがあって、女どもは「赤ちゃんみたいで可愛い」なんて言いやがるけど、これも嫌で仕方ない。たまに電車で痴漢にあったりすると、本気でこの身体に刃物を突き立てて、きれいさっぱり脱ぎ捨てたい衝動に駆られるのだ。そして、桜丸みたいな男に生まれ変わりたい。

「はい、お待たせ!」

 俺の夢想を打ち消すように、桜丸が注文の品を運んできた。美蘭はさっさとタブレットをしまい、「これが一番おいしいんだよね」と、舌舐めずりしそうな勢いで割り箸を手にとった。彼女の頼んだ黒胡麻担担麺はその名の通り、黒胡麻ペーストのおかげで邪悪なほどに黒く、そこへ溶岩のように赤い辣油が浮かんでいる。煮卵はかろうじて浮かんでるけど、麺は底の方に沈んでいるみたいで、ほとんど見えない。

 それに比べると俺のもやしハーフなんて可愛いもんだ。醤油ベースのスープにもやしがどかっと盛られて、煮卵と薄めのチャーシューが花を添えてるだけ。器も美蘭のより一回り小さい。

 美蘭は「いただきます」とだけ言うと、あとは無言で、ただ勢いよく麺をたぐり、煮卵を頬張った。頬をうっすら紅く染め、額に汗まで浮かべ、夢中になって食べている。俺はそこまでラーメンに集中力を発揮できないな、なんて妙な気後れを感じながらその横顔を見ていると、何故だかあの夜、俺に触れられて声を漏らした彼女を思い出してしまう。声なんて絶対に出すもんか、って感じで、身体のどこかにずっと力を入れてたのが、ついほどけてしまって。彼女が自分の喉から零れ落ちた切ない声に当惑してる様子は、俺をひどく昂らせた。

 人が物を食べるって事は本能に結びついてるわけだから、やっぱりどこか、愛し合う時の姿を映し出してしまうのかもしれない。そんなことを思いながら、ラーメンを食べようと向き直ると、カウンターの向こうで桜丸も美蘭を見ているのが目に入った。奴は何だか、猫が餌を食べるのを嬉しそうに眺めてる飼い主みたいな感じで、俺みたいにやらしい考えなんて微塵もなさそうだ。

 こいつ、まだ女を知らないんじゃないかな、なんて優越感が俺の中で頭をもたげてくる。それを察知したのか、奴はこっちを向いた。俺と目が合うと笑顔を浮かべ、席を立った客の食器を下げるためにフロアへ出て行く。

「こんど、部屋まで遊びに行こうよ」

 気がつくと、美蘭がこちらを見ている。

「部屋って?」

「桜丸の下宿。すんごい貧乏生活してて面白いよ。あんた、彼のこと気になるんでしょ?まあ、気になるの意味が違うけど」

 彼女は悪戯っぽく目を光らせ、黒いスープの底から麺をさらった。

「よく判ってんじゃん」

「遊びに行ったらさ、私、適当なとこで先に帰るから。あんたちょっと誘ってみなよ」

「え?そんなの無理!」

「でもさ、どんな風に手を出してくるか、そういうとこ、参考にしたいんでしょ?」

「まあそうだけど、俺、男とは絶対無理だから」

 うっかり男モードに戻ってしまうほど、美蘭の提案は俺を慌てさせた。それが少し悔しくて、「だったら、俺が寝たふりするからさ、美蘭があいつを誘ってくれよ。そういうのって、スリルがあるから盛り上がるらしいじゃん」と言い返してやった。しかし美蘭は自分で切り出した話を「ありえない」と、そっけなく終わらせ、グラスの水を飲んだ。

 俺はまたもや地雷を踏んだらしい。どうも美蘭の奴、夏休みの間に少し変わってしまった感じがする。前はどんな話題でも一瞬で冗談にできたのに、最近はふいに自分の世界に入るような所があって、慣れないうちは具合でも悪いのかと思ったほどだ。

 夏休みに何かあったんだろうか。或いは、これは自分でもすごく傲慢だとは思うんだけど、俺に抱かれたせいかもしれない。女の子ってのはやっぱり、男によって変わるもんだし。でも、俺の方はどうかというと、まあ今まで通り。敢えて言うなら、ちょっと自信がついたってとこか。

 もう余計な事は言わずにおこうと注意しながら、俺は「ここのスープ、好きな味だな」なんて感じでラーメンを食べた。美蘭は引きずるタイプじゃないから、「見た目よりあっさりしてるでしょ?」と、普通に相手してくれる。

「それに、麺にエッジがきいてるじゃない。丸い麺より絶対いいよね。パスタでも、リングイネが好きだもん」

「そこまで考えてラーメン食べたことないなあ」と、これは俺の本心からの言葉。そしてもっと本音を言えば、隣にいるのが美蘭じゃなくて沙耶なら、どれだけ幸せか。でも彼女は難関校の法学部を狙っていて、まさに追い込み中。俺はラインのやりとりも極力抑えてるほどで、一緒に出歩くなんて夢のまた夢なのだ。

「いらっしゃい!」

 また威勢のいい声が幾つも響いて、俺は我に返る。ぼんやりしてたら麺が伸びてしまうので、慌てて追い込みにかかっていると、新しく入ってきた客は俺の隣に座った。スーツ姿で、他にも空いた席があるのにわざわざ詰めてくるのは、女子高生狙いの変なオヤジかもしれない。俺が警戒しながら、どんな男かと確認するより先に、奴は「やっぱりここだった。予感的中」と言った。

 

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