第11話 きっと既にあったもの。それは――
11...
ナツさんに風呂を譲ろうとしたコウが「お客さまより先に入れるかい」と怒られていた。
今は二人きりで座布団に座っている。
空からゴロゴロと怪しげな音が聞こえた。近いうちに雨が降るかも。
「なあ……千愛(ちあ)」
お茶を啜るのをやめたコウが、なんだか考え込むように俯いていた。
「どうしたの?」
「飯って……作るの大変なんだな」
しみじみと語る内容が内容で。
他の……なんてことない男の子の台詞なら半笑いで流すところだけど。
「……母さん、めっちゃがんばってたんだな」
コウの場合はちょっと事情が違う。
「毎日さ。美味い飯しか出なかった。ちっちゃい皿がいっぱい出たし、毎日違う献立でさ……苦手なものでもなんとか食えちゃうんだよなあ」
そんなこと言うの、初めてだった。
「たまに一緒に買い物に強制連行されて、で……外食したいとかいったら悲しそうな顔してたんだ。楽できるから好き、とか言ってたくせに」
言いながら、立てた右足を抱き締めて。
「俺……好きだったんだなあ。だから、母さんには間に合わなかったけど……千愛にも言わなきゃなって思って」
「……なにを?」
「うちに飯作りに来てくれて、ありがとな。すげえ嬉しかったし、美味かった。千愛の味も……好きだ」
ちら、と上目遣いで見られた。
目が合うと外されてしまう。恥ずかしそうな顔で、でも声は凄く真剣で。
改まって言われると、照れるし恥ずかしいし……何より嬉しい。
「いいよ……残さずいっぱい食べてくれるコウを見るの好きだから」
「なにげにハードルなんだけど、それ」
「あたしにもね。コウが残すようなご飯作らないように、戒め」
冗談みたく言いつつ、でも本気だ。
付き合っていきたいから、大事にしたいから……それは全部。
コウが好きだから。それだけなの。
「……なんでそこまでしてくれんの?」
だからコウに聞かれるこの言葉が何より痛くてつらかった。
「わかっ――……わかんないの?」
泣きそうだ。やばい。どうしよう。
「お茶いれてくる」
「あ――」
あわてて急須を手に立ち上がる。
コウの顔を見ていたらきっと、涙が止まらなくなりそうだった。
「な、なあ、千愛。俺、何かまずいこと言ったのか」
わかれ、と思うし。なんでわかってくれないんだろうとも思った。
――……どうして、あたしの好意をただ信じてくれないんだろう。
「なんでもない!」
強く言い返しすぎちゃった。
その勢いはコウがせっかく開いてくれた心が閉じるには十分すぎて。
「……ごめん」
あたしが歩み寄ろうとする意気を挫くにもまた、十分すぎて。
いつしか、外から物凄い雨の音が聞こえてくるのだった。
◆
お風呂を上がって寝巻き姿のナツさんと二人で布団を用意する。
ナツさんの部屋に一枚。
あたしとコウは居間に二枚並べて……夫婦布団。
ひと息ついた時だった。
「アンタも難しいのに惚れちまったもんだね」
「え――」
「風呂場まで丸聞こえだったよ」
あ……顔が熱い。
情けないし……恥ずかしい。
「味はわかるくせに、てんでなにも出来ない。してもらうのが当然って甘ったれだ……まあ、男の都会っ子なんてなあ、みんなあんなもんだろうけどね。うちの孫もひどいもんさ」
「……はあ」
言い返せ……ないな。
家事全般、コウはまともにやろうとしないんだから。
「でもまあ、子供なんだろうさ。うちの人だって、まあ……八十過ぎてぽっくりいっちまうまで、子供な部分があったからね」
「そう……なんですか?」
「ああ。やれ飯がまずいだの、あれどこに置きやがっただのうるさいったらないよ……いなくなると寂しいもんだけどね」
「……その」
神棚を見ればわかる。ナツさんの旦那さんはもう……。
「いいさ、気にするな。どうせあの人も天国でうるさく言ってるに決まってるんだから。とにかくね、そういう相手と連れ添おうってんなら、こっちがケツ叩かにゃあならねえ」
「……ケツ」
「うちの人もね、若い頃に親を亡くしたんだ。ぐじぐじ言うならまだましさ。悲しいことから目をそらすので精一杯で、弱音一つまともに吐きゃしない。悲しいなら悲しいって言えばいいのに。ねえ?」
笑いながら肩を寄せられる。
あたしのおばあちゃんと同じ、なんだか落ち着く匂いがした。
「……そうですね」
「ああ、そうさ」
二人で微笑みあっていたら、寝巻き姿のコウがやってきた。
「さて、ばあさんは寝るよ。二人とも……何かするなら静かに頼むよ」
「う」「あ」
たった一言であたしたちの痛いところを同時につくと、ナツさんは笑って言うのだ。
「おやすみ、お客さん」
「おやすみ、ナツさん」
「……おやすみなさい」
居間の扉をそっと閉めて、足音が遠のいていく。
敷かれた布団に腰掛けて、脇に避けたテーブルを見て悲しそうな顔をするコウに、
「はいこれ」
ポットから出した白湯いり湯飲みを差し出す。
「……さんきゅ」
白湯を飲んでから、テーブルの足下に湯飲みを置いてコウが寝転がった。
天井を見上げて、それからすぐに起き上がる。
「電気消していいか?」
「……うん」
布団にいそいそと潜り込む間に電気が消えた。
真っ暗になる部屋の中、コウの布団から音が聞こえる。
コウもお布団に入ったのだろう。寝転がって隣を見たら、コウと目が合った。
薄ボンヤリと見える顔は少し疲れたもので。
「……手、握らない?」
二人の顔の間に、布団からにょきっと手が出てきた。
身体を横に向けて、コウの手に自分の手を重ねる。
お風呂上がりだからかな。あったかい。
「なんか、こうして寝るの……初めてかな」
「小学校の時。臨海学校で、横並びだったじゃん」
「そうだっけ?」
「……まあ、あの時よりも近いけど」
「……そうだっけ」
どちらからともなく笑い合う。
それっきりだ。
黙っていると、外から聞こえる激しい雨の音ばかり耳に入ってくる。
どうしようかな。
黙って寝るのもいい。
けど……今日だけは、なんだかそれがとってももったいない気がして……思わず口を開く。
「ねえ……コウ」
「なに?」
「……好きって言うのと、好きって言われて信じるの、どっちが楽だと思う?」
「んん? ……そりゃあ、言う方が楽だろ」
「なんで?」
「なんでって……だって。言えば済むじゃん。好きって言うからには、自分の中の好きを認めているところが心のどっかにあるんだろうし」
「……他人は信じられない?」
「普通信じないだろ。相手が何を考えてるのかなんて、わからない。エスパーでもなければ超能力者でもないからな」
そんな……理屈が聞きたいんじゃなかった。
「……あたしの好きは?」
「え」
「あたしの気持ちは、信じられない?」
「……難しいこと聞くなよ」
「なんで。なんで難しいの?」
気が狂いそうな気持ちで聞いているのに。
「…………」
コウの反応はそれっきり途絶えてしまう。
……かと思ったら違った。
手を離されそうになった。
思わず掴む。
「コウ」
「……わかんないんだよ。千愛がなにをしてくれても、そもそも、わかんないんだ」
「なにが」
手だけじゃだめだ。
なんだか、すごく遠くにいっちゃう。
思わずコウの胸元に潜り込む。背中を強く抱き寄せる。
頭を胸に擦り付ける。
ちゃんといる。確かに感じるのに。
「親父は知らないけど……幼稚園の頃、俺には他の親父がいた。母さんはそいつに捨てられて、親父に泣きついた」
「え――」
どんどん。
「母さんは一度も親父に言わなかった。自分を捨てた電話を切って、泣きながら俺に言ったよ。お前の父親は別にいるけど、このことは二人だけの秘密だって。言ったらだめだって……鬼気迫る顔で」
「……こ、コウ?」
どんどん。
「死ぬ直前、気が触れたようによその家にいけ、話はつけた。お前はよその子になれって言ってさ。次の日帰ったらいなかった。多分、前の男に会いにいったんだろうさ。親父が探して……やっと見つけた頃は海で冷たくなって、警察に拾い上げられてた」
遠ざかっていく。
「わかんねえよ。わかんねえ……確かなものなんて、あるのか? 心が繋がるなんて、そんなの……テレビや本の上の出来事でしかなくて。俺にそんなもん……あるのか」
こんなに身体は繋がっているのに。
「実感が湧かないんだ……すげえ失礼なんだと思う。千愛に。でも……俺にはどうしたらいいのか、さっぱりわかんねえんだ」
心は遠い。コウの心はお母さんがいなくなった日から凍り付いたまま、動き出せずにいるんだ。
ナツさんくらい人生経験があったなら、甘えるんじゃないってお尻を叩けるのかもしれない。
でも幼なじみのつらい過去の乗り越え方なんて、あたしにはわからなかった。
わからない。わからないよ。
わかるわけない。
「身体が繋がれば、それで……すげえ安心するんだ。それじゃだめなんかな」
か細く消えそうな弱音だった。
「それでいいなら、信じてくれていいじゃない」
気がついたらそう言っていた。
「あたしはコウが好き。浮気なんかしないし、しないでほしい。コウと手を繋いでいればどこまでだっていけるし、どこまでだってついていくよ?」
コウの手を両手で包んで胸に当てる。
「ねえ……好きなの。実感がわかないなら、わくまで何度でも言うよ?」
ぼんやりした顔のコウに、軽めの頭突き。
「大事にして欲しいのは好きだから。大事にするのは好きだから。ただ……コウが好きだからなの」
「……千愛」
「君なの。君がいいの。なんでもするのも、甘えられてもいいよっていうのも……全部、君が好きだからなの」
たまにめんどくさいのも、怒るのも。なんて言うのは自重するけど、
「信じてもらえなきゃ……寂しいよ。つらいよ。コウはあたしの気持ちを疑うの?」
「そ、そうじゃ、なくて。ただ、わかんないっていうか」
そういうことじゃない。そういうことじゃないよ。
「……触って、抱き合って感じるのはなに? コウが甘えてくるたび、性欲しか感じないの?」
「そうじゃねえよ! さすがに」
「じゃあなに?」
「落ち着く……し、安心する」
「感じてるじゃん! ……わかってるじゃん。そこに愛があるんじゃないの?」
「……そうなの、かな」
「あったかいなにか、感じたりしないの?」
「そりゃあ、する……けど」
けどいらない。
「わかってないだけ。ちゃんと感じてるよ……」
「……千愛」
「ぎゅっとして」
どうしようか悩んで、あたしの手の中から出した手をさらに動かす。
目的は……あたしを抱き締めること。
「……ぽかぽか、しない?」
「……まあ」
「身体だけ?」
「半分ある、けど。心もちょっと……や、ちゃんとあったかい」
前半うん? と思ったけど、いいや。流す。ただし覚えておく。
「……あたしのこと、好き?」
「うん」
「大事?」
「当然だろ」
百の言葉でぶん殴りたいけど、これも我慢。流す。絶対覚えておく。
「抱き締められて嬉しい?」
「もち」
「幸せ?」
「ああ」
もっと聞きたい。何度でも聞きたいし言わせたいけど我慢。
「……もっとぎゅっとして」
「お、おう……痛くないか?」
「痛いくらいでいいの。もっとちゃんと、あたしだってわかるくらいぎゅっとして」
「……こうか?」
身体が密着する。
必然的に恥ずかしいところも全部。
腰に回ったコウの腕は見た目より結構頼もしい。
「あったかくなりません?」
「そりゃあ、まあ。これだけ密着してれば……その」
何かをごまかすように顔を天井に向けるコウ。
それもそのはず。
「……おっきしている場合じゃないですよ?」
「ですよね」
「でもまあ……いいよ」
「いいのかよ。怒られるのかと」
「他の女の子で悪さしない限りは許してあげます」
そう言った途端、コウが気まずそうに身じろぎした。
「……プールで苺と会って、ガン見しました。すみません」
瞬間的にお湯が沸騰する勢いでかちんときた。
「判定」
「えっ」
深呼吸する。
怒るのは簡単。でもそれじゃ繰り返すと思う。
泣くのも簡単。それで裏切られたら立ち直れないから最後の手段。
あんまり気が進まないけど、でも……コウが喜ぶ手でいこう。
「ち、千愛? ……わっ」
コウのを掴んだ。ちょっと痛いくらいの力加減で、しっかりと。
二人だからこそできるし、二人だけじゃなきゃ出来ない。
「コレは、あたしの。いい?」
「は、はい」
「よろしい。それから今のを二度と言わせない、やらせないこと」
あたし恥ずかしすぎるので。傍から見たらお前なにやってん、ってなるので。
「いたたたたた! ……はっ、はい!」
ぺいっと放り捨てるように離した。跳ね返ってくるのが地味にむかっとくるんですが……そういうものだからしょうがない。
「……で? わかったらどうするの?」
「え、え? ここでまさかの振り? え? こんなん、火がついてやりたいことなんて一つなんですけど」
「じゃあ……コウはなんて告白するの?」
「……え、えっちさせて、ください?」
「千愛のことをどう思うから?」
「大好きだから」
よしよし、いいぞ。でももっと聞きたい。
「それだけ?」
「大事だから」
「もう一声っ」
やばい。調子に乗っている。
「……愛したい、です」
「ん」
もぞもぞ身じろぎして、コウの首に両手を回して言う。
「いいよ」
それからのことは――……たぶん、雨に紛れて聞こえなかったと信じる。
つづく。
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