第二話 The tuning language-同調言語-
僕が彼の元に潜入したのは、もう六年も前のことだ。
当時の僕は五年間、籍を置いていたネイビーシールズを除隊した直後で、しばらく殺伐とした現場から離れたいと思っていた。
しかし、ちょうどその頃。FBI長官となったかつての父の友人から頼まれたのである。
その人は昔はよく遊んでもらい、父が死んだ後もちょくちょく僕の面倒を見てくれた人でもあったから、僕は自分の欲求を抑えて、その依頼を引き受けることにした。
早速、彼の指揮下に入った僕は画像荒く不鮮明な一枚の写真を渡される。
そこにはかろうじて目鼻立ちがわかるくらいの一人の男の姿が映っていた。
「ラッセル・スレイド。世界各国を渡り歩きながら裏社会で二十年以上、様々な犯罪をプロデュースしてきた犯罪コンダクターを名乗る男だ」
僕が潜入対象である彼の顔を見たのは、それが初めてだった。
捜査を命じられた僕は彼に関する資料を集めたが、公的な資料はFBIの中でも非常に少なく、数えるほどしか存在していなかった。
まるでそんな人間など存在していないかのように記録は消えていたのである。
そんな中で集められるだけの資料を集めて参照し、彼の現れそうな場所や国、さらには歩き方までをプロファイルしながら、偽造IDを作成し、僕は元特殊部隊員から、軍を不名誉除隊となった犯罪者崩れとなり、それからはひたすらに彼に繋がるものを探して裏社会を嗅ぎまわった。
犯罪者や薬の売人などに紛れて生活していると、時々、柄の悪い連中と争いごとになることもあったが、その時は喋れなくなるまで殴って黙らせる。
そんな生活が十カ月ほど続けた頃だ。
「君は言葉の力というものを信じるかい?」
ふと立ち寄ったバーでたまたま隣に座った客にそう問われて、視線をそちらに向けると、そこには琥珀色の液体が注がれたグラスの横に中折れ帽を置いた五十代前半の男がいた。
「ペンは剣より強し、というが君はそれを信じるか? 言葉も同じように銃に勝てると思うか?」
「さぁな、知ったことじゃない。言葉でダメなら武器を取るだけだ」
「なるほど。気に入ったよ」
問い掛けに対して僕が答えると、彼はそう言って手を差し出す。
「なぁ、一緒に仕事をして見る気はないか?」
これが僕とスレイドの誓約の瞬間であり、最初の
―――――
アメリカのニューヨークから飛び立った僕たちは、いまは太平洋の上空を飛行している。
プライベートジェットの機内は、見事なツヤのある机に適度な反発を返してくるソファのような座席など、最高級の素材が使われており、飛行機としてくつろぐには贅を尽くした最高の場所だった。
そんな飛行機のビジネスクラスとは破格の機内には僕とスレイドしかいない。
あのバーで出会い、僕が彼のボディガードとして付き従うようになってもう三年が経つ。
ここ最近は武器を与えることでマフィアの抗争を煽ったり、麻薬の密輸入など、チマチマとした仕事ばかりだった。
もちろんそれだけでも現行犯の逮捕ができるが、それをしても彼の仲間が裏から手をまわし、スレイドは何事もなかったかのように出所してしまう。当局は刑務所から死ぬまで出てこれないような確実で弁護のしようもない証拠を求めていた。
そこに舞い込んだこの中東での反政府勢力との大きな取引。
ここまで大規模なものは、僕が潜入してから初めてだが、これを押さえることができればスレイドを確実に刑務所に送ることができるはずだ。
「趣味にしては最近多くありませんか?」
そう考えながら、僕が唐突にそう口にすると、座席に座って優雅にくつろいでいたスレイドが顔を上げる。
「なんだ、同調のことか?」
「最近は殺す前に随分と同調の数が増えたみたいなので」
僕がそう言うと、彼はニヒルな笑みを一瞬顔に浮かべた。
「ただの気まぐれさ。いちいち噛み付くな。たまには同調言語を使っておかないといざという時に使えないと不便だろう。銃を撃つ感覚を忘れないように君が練習するのと同じだ」
そっけなく言って顔を逸らすスレイドをじっと見つめる。
同調言語――ニューヨークのアパートで、あの若い男がスレイドの動作に合わせるように自らのこめかみに拳銃を突きつけさせ、彼と同じようにスレイドの目から涙を流させた、彼だけが持つ魔法の言葉。
相手の感情を自らに同調させたり、逆に自分の感情を相手に同調させる言葉――それが彼自身が自らつけた呪いともいえる言葉の本質だった。
理論的には通常の言葉と違って、脳の奥にある深い無意識に働きかける言葉だそうだが、彼も理論についてはなんとなくしか把握していない。
だが彼の言葉に逆らえた者を僕は知らなかった。
僕はその威力を体験したことはなかったけど、彼が同調言語を使った時だけは肌を通して分かる。
彼によると、他にもそのような相手を洗脳できるような言葉を持つ人間が複数いるそうだが、僕が知っているのはスレイドひとりだけだった。
「気まぐれにしては最近の頻度は高すぎると思いますが」
彼が話を終わらせようとするのに対して、僕は同じ藪をつつく。
この三年間をぼんやりと思い出してみると、半年ほど前から彼の同調言語の使用率は増しており、最近では殺す相手に対してはほぼ使用している。
そのことを指摘した僕をスレイドは目だけを動かして視界に入れてじっと凝視してきたが、やがて居住いを正して口を開く。
「まぁ、強いて言うなら、選定といったところか」
「選定?」
復唱した僕の言葉に彼は頷く。
「言葉というのは言い方や聞き方、聞き手の心情次第で毒にも薬にもなる。書籍やネットに溢れた言葉だけでもそういった影響を受ける人がいるが、私の言葉はそれらと同じだが遥かに別格だ。もはや洗脳――いや、明確な形を持たない拘束具に等しい。私は、そんな私の言葉に抗って自分自身であり続けられる人間が見てみたいだけさ」
「抗える人間、ですか……?」
「言葉を一種の伝染病だと見てくれればいい。ちゃんとした道徳や倫理という名の抗体を持っていれば、他人の言葉の影響を受けながらも自分の意思決定ができる。だが、抗体が無ければ、言葉はその人を蝕み、やがてあらゆる思考や考えがその言葉に染まってゆく。それは時に良い結果をもたらすこともあるが、悪い結果をもたらすこともある。私はそれを制御できるし、相手の脳に押し付けることもできる。でもそれに抗える人間がいたら面白いだろう」
そう言って上質な座席に身を横たえつつスレイドは肩をすくめる。
僕はそんな彼をじっと見たが、正直それが彼の本心から出た言葉なのか、それとも僕を煙に巻こうとしているのかは判断できない。
彼の真意が分からずにいると、今度はスレイドの方から僕に話しかけてくる。
「そういえば、私も君に質問したいんだが、今回の向かう国についてはどれくらい知っている? 足を踏み入れたことはあるか?」
「いいえ。僕はあなたと出会うまではアメリカの土しか知りませんでしたし、ましてや中東なんて、ニュースで得られる情報程度のことしか知りませんよ」
スレイドと同じように肩をすくめながら僕はそう答えたが、もちろんこれは嘘だ。
僕は
だからアメリカのニュースが伝えること以上の惨状を僕はその足で踏みしめたこともあるし、知ってもいた。
その中東のある国では二〇一〇年代以降、抑圧的な政府軍とそれに反対する反政府勢力が内戦をしており、それは今でも続いている。
この内戦は長らく、政府側をロシアに中国、そしてイランが裏で支援し、一方の反対勢力側をアメリカやイスラエルが支援する代理戦争として泥沼の様相を呈してきた。
内戦は世間から忘れられつつあるが、いまでも現地では政府側と反政府勢力との戦闘は続いている。
しかし近年、その支援国たちが裏からの援助を緩めたことで代理戦争としての意味合いは薄れ、支援がなくなった分、戦闘の規模は次第に少しずつだが小さくなっており、ヨーロッパなどに流れていた難民が国に戻ってきていた。
だが、スレイドはそんな落ち着きを取り戻し始めた国に武器を流すことで新たな火種を蒔こうとしている。
僕はひとつ問いかけてみた。
「なぜそんな落ち着き始めた国で取引を? 今でも苛烈な紛争を行っている激戦地は他にもたくさんあるでしょう?」
この数十年で発展途上国と呼ばれていた国々は徐々に発展し、今では先進国と肩を並べるまでに成長した国もある。
だがしかし、それによってそれらの国を利用していた先進国との軋轢が生まれているのもまた事実で、今はまだ理性的に法廷で争っているところもあるが、言葉とこそこそとした駆け引きを捨てて、すでに武力紛争に陥っている場所もあった。
そういった国で武器や資金の支援をしてやれば、金や弾薬は湯水の如く消費され、スレイドのような闇で生きる商人たちの懐には多額の金が勝手に舞い込む。
しかし、今回のような情勢が落ち着きつつある国で武器をばら撒いても、先ほどのような国々に比べると絶対的に成果は上がらないし、儲からないのだ。
それなのに、スレイドがターゲットとして入りこむ国はどれも戦闘状態が徐々に下火になり始めた国や地域ばかりである。
そのことを思い返しながらの僕の問いかけに、スレイドは薄笑いを浮かべた。
「おいおい、もう三年も私の元で働いてきたんだろう。私をそこいらの戦争で銭を得る小汚い奴らと一緒にしてもらっては困る」
「では、あなたは何を目的にそんな場所へ?」
「私がしたいのは金儲けじゃない。私が欲しいのは争いそのものだ。そこで生まれる金銭は二の次でしかない」
「分かりません。あなたにメリットがないでしょう? 争いの先にあなたは何を見てるんです?」
僕は本当に彼が何を求めているのか分からずにそう訊ねる。
この三年。彼に付き従ってきたが、いままで目の前のラッセル・スレイドという人間の意図を本当の意味で理解できたと思える瞬間が僕にはまったくない。
彼の目に世界がどう映っているのかすら謎のままだ。
「いずれ君にもわかる日が来るさ。いずれな」
そんな僕をあしらうようにスレイドはそう言い、口元になんとも言えない笑みが浮かべて質問をはぐらかした。
僕は顔には出さずに情報が引き出せなかったことに少しばかり苛立ったが、ここはただ黙って引く。
これまでにも似たような質問をするたびにそんな笑みで誤魔化されてきたが、そのたびに僕は自分の心の内の全てを見透かされているような気になる。
そんな僕の心情も知らず、外の景色を見ながらスレイドは呟く。
「まぁ、私が援助しなくても彼らは自らの力で戦い続けたはずだ。脂肪から爆弾を作る方法だって、あのタイラー・ダーデンも語っているくらいだ。戦地にいる人間には容易いよ」
口元から人を見透かすようないやらしい笑みを消した彼が口にした人物が誰か分からず、僕が怪訝な顔をすると、スレイドは外にやっていた視線を再び僕に向ける。
「まさか、知らないのか?」
「誰ですか、それ」
「映画だよ、ファイトクラブさ。観たことないのか?」
そう問いかけられて僕が首を横に振ると、スレイドは呆れるように大げさに振る舞う。
「これだから最近のユーモアのわからない奴は……君たちは総合芸術を鑑賞する暇もないほど忙しいのか?」
「僕はもう四十目前なんですよ。そんなに若いなんていうものじゃないでしょう」
「若いじゃないか、少なくとも」
そんな屁理屈をさらっと口にする彼に苦笑すると、スレイドも口元に笑みを浮かべる。
彼とのこういう距離感は間違えることなくできているのに、確信を突く話ができない。
部下として三年、接触までの下準備を合わせれば六年。
そろそろ成果を上げて彼を捕えなければと心が焦ったが、それを考えても仕方がない。今は築き上げたこの信用を失わないかが大事である。
ちょうどその時、彼の端末が軽やかな電子音で着信を知らせ、スレイドは表示された着信相手を一瞥してから端末を耳に当てた。
「やぁ、私だ。君の方から電話をかけて来るということは悪い知らせだな」
そう単刀直入に切り出して、スレイドは相槌を打ちながら電話口の相手の説明に耳を傾ける。
彼は、僕や他の人間のようにオーグなどの拡張機器端末を好まず、今でも旧式の携帯型端末を使っていたが、反対にスレイドの仲間は世界各地に点在しており、彼は仕事に応じて普段は一般的な生活をしている彼らに接触し、即席のチームを作って仕事をこなす。
例外は常に彼にボディガードとして付き従う人物――つまり僕だけだ。
彼が話しているのはそういった仲間の一人であり、今回は取引の品を運ぶ役回りを担っている人物だろう。
確か以前教えてもらった時に聞いた名前はハロルドといったか。
やがて電話を終えたスレイドの表情から、何か問題が起きたことを察しながら僕は訊ねる。
「問題ですか?」
「海路で輸送させていた取引の品の到着が遅れるそうだ。なんでも
「どれくらい遅れてるんです?」
「二週間だ。取引品がないと取引を始められない。これは向こうで品物が届くのを待つしかないな」
僕の問いにスレイドは渋い顔をしてそう答えた。
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