東西朝の並立 1642

【帝の覚え書き。現在は1642年。】


これまで、日本の天皇の位の継承は父系主義だった。つまどい がふつうだった日本の習慣は、母系優先とまではいかなくても、父系・母系の両方を重視するものだった。父系主義の制度は、中華帝国の規範にあわせてつくられたものだろうと思う。


父系主義でも、結婚した女が、父親の家族であるままか、夫の家族にうつるかについては、いろいろな考えがある。武士の家などでは、男がしめる地位の継承者が、娘むこだったり、母系の親戚からの養子だったりすることもある。しかし、皇族のばあいは父系主義が徹底していて、皇族の女の夫が皇族に加わることはないし、母親が皇族であっても父親が皇族でない子は皇族とみなされない。そして、「皇族の女が皇族でない男と結婚すると、(名目的に皇族の身分をもちつづけることはあるけれども、事実上) とつぎ先の家の人とみなされる」という規則が、法典に書かれているわけではないのだが、きびしく運用されていた。


わたしは帝の位にあって、皇族でない Iago と結婚した。かの規則どおりならば、わたしは帝の地位も事実上の皇族の地位も失うことになっただろう。実際はどうなったか。


関西では、多くの人が、わたしが帝であることはゆるがず、しかも、帝であるわたしの宣言と行動によって、かの規則は無効になった、と考えてくれた。


関東では、結婚とともにわたしは帝でなくなった、という解釈が正しいとされた。しかし、皇族を離れたことにはされなかった。彼らはわたしを「明正院」と呼び、「もと天皇」つまり「上皇」の待遇をしてくれる。かの規則をいくらかわたしに有利に運用してくれたのだ。関東の政権としては、関西の政権を正面から敵にまわしたくはないだろうし、徳川家は、わたしとの親戚関係を利用しつづけたいだろう。ただし、彼らは、わたしの子孫には帝の位の継承権はないとする。これは父系主義ならば当然で、わたしの行動によって変わったのではないようだ。


関東の政権、実質的には徳川幕府は、母のちがうわたしの弟を帝にたてた。昔の南北朝と同様な、東西朝の並立が始まったのだ。東朝の帝は、伊賀から鈴鹿の関の東側に移り、熱田神宮の近くに住んでいる。


今の東朝の帝は、まだ少年なのだが、伊賀にいたころのわたしと同じ教師たちの指導を受けているせいか、わたしとは話が合うことがある。わたしは関東あての手紙を「明正院」のはんこを押した紙で包んで出している。弟は返事を「熱田宮」と書いた紙で包んで送ってきた。熱田にある宮殿をさすことは、大坂城を昔の「難波宮なにわのみや」の名で呼ぶことがあるわたしにはわかるが、知らない人には、熱田神宮の神官からの手紙みたいだ。弟はわたしの気づかいを理解して呼応する表現をしてくれたのだと思う。もっとも、こちらは東西朝の並立を公式に認めているのだから、住所をそえてならば、帝と名のってくれてもかまわないのだけれど。たぶん、それもわかったうえでの、遊びのようなものだな。


東朝とのあいだでは、官職の任命についての暗黙の了解ができた。わたしが「征夷大将軍」や「内大臣」を任命しない意向を示して、東朝には「太政大臣」や「右大臣」を任命しないでもらうことにした。また、国司の任命は関西・関東それぞれの範囲内の国名にかぎることにした。

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