第16話 花魁と、若旦那

「だから!! はる菜を店に出すのは反対だったんですよ! それをアンタって人は!」

 大黒屋を飛び出した新吉が桃源楼に帰ると、珍しく、女将であるおりくの怒声が聞こえてきた。

「お、おかあさん、ごめんなさい、ごめんなさい!」

 どたどたみしみしと、何かが壊れるような音がし、子狸が二階から落ちてきた。いや、新吉の父の信五郎が、二階の階段を降りてきた。

「なに?? 親父様、どうしたってえんです」

「ああ、新吉。お帰り」

 信五郎が新吉の隣を見つめる。

「どうしたんだね、テツジの旦那に、はる菜は気に入っていただけたのかい」

「それ以前の問題だ」

 新吉は深刻な顔つきでずかずかと郭に上がり込み、親父の部屋のど真ん中にどっかりとあぐらを掻いて座り込む。

「なにが、それ以前なんだい」

 信五郎が、心配げに新吉の顔を覗き込んだ。

「連れていったは良いんだが、当の若旦那が、やっぱり若女将が可愛すぎて手一杯。妾なんぞ要らんとおっしゃる」

 息子の言葉に、忘八が慌てた。

「だ、だったら、はる菜はどうするって言うんです」

「すまねえが、新吉、お前がはる菜をもらってくれねえかって」

「へ?」

 信五郎が、目をぱちくりさせて、新吉を見つめる。そんな父親の子狸のような顔を、新吉は子鹿のような潤んだ瞳で、じいっと見つ返した。

「で、聞きたいんだが親父様。どこからどこまでが芝居だい?」

 息子の言葉に、父親の方が返答に詰まる。

「……芝居もなにも……。あたしも驚いてるですがねえ。おかあさん。ちょっと、おかあさん」

 信五郎が、慌てて二階にいる女将を呼んだ。

「うるさいねえ」

 まだ不機嫌な顔で現れた女将のおりくは、信五郎の話を聞いて、ケラケラと笑い出す。

「なるほどねえ。テツジのダンナの事だから、この身請け話もなにか魂胆があると思って、あっさりとはる菜を放り出したんだが。なるほど、そういうことかい」

 母が大笑いするので、新吉はそこでやっと、この話はすべてが哲治郎一人の画策だと理解した。

「なんでえ。親父様もお袋様も、知らなかったのかい。若旦那が引き受けると見せかけて、はる菜を郭から出して、自由の身にする。でもってやっぱいらねえと、俺に払い下げる。話の流れがあんまりにも綺麗すぎるし、若旦那に一文の得にもならねえ。だからてっきり、親世代の小芝居かと思ったのに。若旦那の一人芝居かよ」

 息子の呟きに、母のおりくはすべてに合点がいったようだが、信五郎は未だに要領を得ないらしい。そんな父親を心底呆れたような顔で見つめ、新吉はがっくりと肩を落とす。

「テツジのダンナは、昔からそういうお人なんだよ……で、お前の気持ちはどうなんだい? 昨日、違う男のために手首を切った娘だよ」

「……実は俺もさっき、別の女に失恋したばっかりなんだ」

 母の問いかけに、新吉は素直にそう答えた。

「テツジのダンナの妹さんかい?」

 母の問いに、新吉は頷く。

「だから、俺もはる菜もお互い心が傷ついてて、いきなり結婚なんて言われても、到底考えられねえ」

 そう、溜息を吐く息子を、母は「脈無しか」とあきらめ顔で見つめる。

「……お互い、時間が必要なんだが、幸い、俺たちはまだ十七と十九。恋に落ちるも縁づくも、まだまだ時間は多分にある。だから、俺が若旦那に金を返し終わる頃までに、お互い嫌いあって別れてなきゃ、結婚しようと思う。うん」

 自分を納得させるように、新吉はひとつ、ひとつ、言葉を選びながらそれを母に伝え、最後に力強く頷いた。息子の言葉を聞いて、父と母が、両手を重ね合って小躍りする。そんな両親を、息子がギロリと睨み付けた。

「親父様とお袋様は……どうなんだよ。俺が遊女上がりの女、女房にしても良いのかよ」

「身請けされた女の過去を問うのは、江戸の男にとっては野暮の極みってもんですよ」

 信五郎がそう呟いて、自分の文箱から五十両入った束を取り出す。

「若旦那にお返ししな。お身請けはお流れになったんだ、いただく筋合いのない金だ」

「要らねえよ。親父様からはる菜を身請けしたのは若旦那。次は俺が、若旦那からはる菜を身請けする番だ。親が奉公に出た息子のやることに口出しすんじゃねえよ」

 新吉は父親の差し出した五十両をさしもどすと、ぷいっとそっぽを向いた。

「嫁をもらうのにも、親頼ってるようじゃあ、一家の主になんてなれねえからな」

 そういきがる新吉に呆れたように笑いながら、女将がそっと、息子の手を取る。

「本当はねえ。新吉。はる菜は、お前の嫁にしようと思ってもらってきた子なんだよ」

 女将の言葉に、新吉が目を見開く。

「あたしもほら。十二の年に、こちらにもらわれてきただろう? そしたらこの忘八がね」

 女将が、ばしっと信五郎の肩を叩く。

「あたしを見初めてくれてねえ。あたしを嫁にしたいから、禿にしないでお取り置きしておくって。この子狸が」

 女将は恥ずかしそうに、バチバチと信五郎の背中を叩いた。

「いたい、おかあさん、痛いですってば」

「先代の女将さまにも気に入っていただけて、あたしは芸事の修行より、そろばんの修行に明け暮れた。それで、十五の年にこの人に嫁入りしたのさ」

 ご公儀の許可を得ているとは言え、郭の仕事は女を使う嫌われ仕事。

 忘八の息子達は、例え町娘と恋に落ちても、大概は相手の父親に叱られておしまい。なので、どの郭でも忘八は伜の嫁を探すことに躍起になっていた。それなのに桃源楼の跡取り息子の信五郎は、子狸のくせによくもあんな美人で読み書きも達者、そろばんまで弾ける女将を……と、信五郎とおりくが結婚した頃は、どの郭の忘八たちも、噂したものである。 

 そのおりくが息子の嫁候補にしたいと思ったのが、丁度女衒からもらわれてきたばかりのはる菜だった。取り立てて美人ではないが、間違っていることがあれば折檻を受けることを覚悟で若衆に立ち向かっていく肝の強さが、女将の目にとまった。なにより新吉と仲が良いのがよかった。あの子は新吉の嫁にする子だと、信五郎にはことある毎に言い聞かせていたが、はる菜の実家がよくなかった。信五郎に仕送りはまだかと泣きついてきた。そこで仕方なく、信五郎ははる菜を部屋持ちにした。

「だから、あたしは反対したんですよ。そしたら案の定、あんなよく分からないお侍様に騙されて。あの子は馬鹿なんですから、ちょっとした色男にならころっと騙されることくらい、あんた忘八なら想像できたでしょうよ。花魁だって必死で止めてくれたのに」

 女将は大きく溜息をついて、夫を睨み付ける。が、それには新吉が大反対した。

「冗談じゃねえ。あの花魁、徳田様に二股かけられてたんだぞ!? しかも花魁のくせに、金も取らずに。親父様、あんた、花魁の管理どうなってんだ!」

「……嘘に決まってるじゃあ、ありんせんか。そう申し上げたら、はる菜はあちきに遠慮して、徳田様のお通いをお断りするとおもうておりましたんに。アホの子の一途さには、かないんせん」

 突然、忘八の部屋に花魁が現れ、丁度悪口を言っていた格好の新吉は思わず、母の後ろに隠れた。きよ菊は新吉の前に座り込み、じっと新吉の顔を見つめる。そして、新吉の前で手を付いた。

「お袋様から新様の奥様として、はる菜の身の安全を頼まれておりましたんに、最後の最後で助けてやることかないませず、誠にもうしわけのう。桃源楼の大切な若女将に傷を付けて、親父様や新様には何とお詫びを申し上げて良いのやら」

 自分の前で両手をつく花魁を見て、新吉が慌てて顔を上げさせる。

「お前、はる菜のことが嫌いなのかと思ってた……だからあんなにき……」

「ええ、嫌いです」

 きよ菊が、新吉の顔をみつめ、何か言いかけた言葉の上からかぶせるように、きっぱりとそう言い切った。

「あちきとは正反対。どこかの誰かに、よお似た御気性。ひたすら一途に、あちきの好いた人を持って行く」

 伏し目がちに、誰に聞かせるともなくそう呟いた花魁は、じっと新吉を見つめた。

「はる菜なんか、だぁいっきらい」

 新吉の顔を見てはっきりとそう言い放ち、花魁はさっと立ち上がって、そのまま部屋を出て行った。

「……なんだよ、あれ。」

「まあ……はる菜の気性は、大黒屋のおりさ様にそっくりだから」

「確かに、勝ち気で頑固な気性は似てるっちゃ似てるが……それと花魁と、どう言う関係が」

「さあて。なんできよ菊は、大黒屋をきらってるんだろうねえ」

 女将の意味ありげな言葉に、新吉はただぼんやりと、立ち去った花魁の背中を見つめる。


――さち香はそんな馬鹿な女じゃねえだろう


 ふと、若旦那の言葉が脳裏に浮かぶ。


――ひたすら一途に、あちきの好いた人を持って行く


 花魁のその言葉が、新吉の胸をちくりと刺した。

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