大江戸いろは(短編集) でんでら

TACO

でんでら

第1話 お伝

 その老婆の名は「でん」と言った。

 元は名のある遊郭で格子にまで登り詰めた美女だったと自分で言うのだが、瘡毒そうどくで鼻がもげ、もう老齢で皮膚はたるみ、身体は枯れきって、かつては美女だったかどうかを想像することなど、誰の目にも困難を極めた。


 お伝は遊郭を追われた女達が産んだ父親の知れない子ども達を集め、面倒をみていた。随分と若い頃に瘡毒に侵され、それまでいた遊郭から捨てられたと言うから、お伝自身には子はなかったが、年増の夜鷹たちはお伝の人柄を頼り、夕刻になると我が子をお伝に預けに来る。

 やがて母親たちは昼間の育児すら面倒くさくなって、お伝のかたわらに住み始めた。

 一人、二人、三人と、そうした面倒くさがりな夜鷹が増えて、結局、お伝を慕う十八人の夜鷹と、彼女達が産んだ二十四人のこどもが、お伝の作った小さな小屋で、折り重なるようにして生活するようになった。


 夜鷹の母親達は、朝が遅い。朝どころか、夕刻になってやっと起きてくる有様だったから、お伝の朝は忙しかった。

 何せ、上は八つから下は先月産まれたばかりの赤子まで、総勢二十四人のこどもの面倒を一人で見ている。

 女の子は成長すると、吉原の遊郭の忘八達がちょいと小屋を覗きに来て、「ウチの禿かむろに」と引き取っていくのだが、男の子はそうはいかない。去年、体格に恵まれた男の子が一人、「うちの妓夫ぎうに」と吉原の老舗遊郭、桃源楼とうげんろうに引き取って行かれたが、男の子達が九つ、十の年頃になると、お伝は街に出て、「丁稚でっち(小僧)は要らぬか」と方々の御店おたなを歩き、引取先を探してやらねばならなかった。


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 そんな夜鷹の里に、変わった風貌の男が出入りするようになったのは、お伝がそうして夜鷹たちと暮らすようになってから十五年目のことである。

 男には、顔がなかった。

 小さい頃に囲炉裏に落ちて顔が焼けただれたと言い、顔に大きな紺の布を巻いている。

 五尺八寸約174センチあれば大男のくくりとなるが、男の身体は六尺約180センチを超えていた。男のあまりの大きさと、顔に布を巻き付けたその風貌に、子ども達は最初こそ驚き、恐れおののいて男を「妖怪」「オバケ」「ぬりかべ」などと呼ばわって、近くに寄ろうともしなかったが、男はそんな子ども達に遊女からもらったという甘い菓子を分け与え、字を教え、剣の稽古をつけた。

 男の名はと言うらしかったが、夜鷹の里では誰もその名前では呼ばない。母親達も、子ども達も、お伝ですら、その男を背の高い河童妖怪の化身だと信じて、「川男かわおとこ先生」と呼んだ。


 川男かわおとこは、どこぞで知り合ったゴロツキ共を遊郭に連れて来ては、見た目が悪くて客の付かない大部屋の遊女をそのゴロツキ共に紹介してやっていた。見世みせで張り出しをするほどの遊女を買うなど夢のまた夢のゴロツキ達だったが、川男の紹介した大部屋の遊女なら、自分の稼いだ日銭で充分に堪能できる。遊女の方も、固定客がつくのは大歓迎だったから、一生懸命に男達をもてなした。


 川男は男達が楽しむ時間を、夜鷹の里の子ども達と戯れる時間に充てていた。

「……変な男だ」

 お伝が川男をそう、評価する。

「お前は、女は抱かんのかえ」

「……いや……? 望まれれば断らぬが」

 川男は「据え膳食わねば男の恥」と首を振る。

 だが、川男に惚れ込んだ夜鷹の一人がどんなに川男を望んでも、川男はけして、その夜鷹を抱こうとはしなかった。

「あれは、抱いてやらぬのか」

「……あの人は、坊やの母親だから……」

 一人の女性として見られれば遠慮なく抱くが、坊やの母親として見る女は抱けぬと、川男は答える。

「母を抱けば、坊やの父親のような気持ちになってしまう。それでは、他の子ども達を坊やと同じようには教えてやれぬからな」

 なんとも生真面目な川男の答えに、お伝は呆れたように目を細めた。


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 川男に惚れに惚れきった夜鷹の名は、梢という。

 まだ二十四で年季の明ける年ではないし、男から移る病気などにも冒されてはいない。だが、十九の年に客の子を孕み、遊郭から追い出された。夜鷹の里のことは噂に聞いて知っていたから、遊郭を追い出されたその足で迷わずにお伝を訪ね、子を産んで、生活のために夜の街に立つことにした。

 里の子は、皆総じて名前がない。そもそも、夜鷹たちの名も、お伝という名も、本名ではない。遊郭に来てすぐに忘八ぼうはちから与えられた名を名乗っていたから、母親達は故郷の親がつけた自分の本当の名前すら忘れているか、知らない者が多かった。

 それに加え、劣悪な衛生環境で、死産する子、産まれてすぐに亡くなる子が多く、長じたとしても十にもならぬ間に禿かむろとして遊郭に引きとられたり、どこぞの御店に丁稚奉公に出されたりする子ども達に、名前などつけて情を通わせてはならぬというお伝の考えもあった。


 だが、川男が里に出入りするようになってから、「おい、お前」で全員が振り向くのが面倒だと、二十四人の子ども達全員に、名をつけた。

 梢の子の名は、陸馬りくまと名付けた。まだ五歳の子だったが、似たような年齢のこども、誰と比べても足が速かったので、そう名付けた。

 陸馬にはその下に、三つになる「わか」、去年産まれた「うた」という妹がいる。

 うたが産まれたときにお伝に付き添って梢の出産を手伝ったのが川男だったが、産まれたばかりのうたを手慣れた様子で抱き上げて、おむつを替え、産着を着せるその姿に、梢が惚れた。

 それ以来、梢の話題は寝ても覚めても川男の話。

 ついには当の川男にまでその話が耳に届いたが、川男は知らぬ顔。脈のないことは誰の目にもあきらかだったが、それでも梢は「惚れることは自由だ」と、諦めた様子すら見せなかった。


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 陸馬が川男に「俺の父になれ」と言い始めたのは、妹のうたが産まれてから半年も経たない頃だった。

「ムリだ。俺は妖怪だから」

 川男は冗談交じりに「産まれてくる弟か妹が、でんでらでも良いのか」と、陸馬を脅す。

「……でんでら?」

「妖怪と人間が交わって子を為すと、その子は人間にもなれず、妖怪にもなれず……我が身、我が両親を呪いながら、夜の街を彷徨うでんでらになるのだ」

 川男の話を聞いて、陸馬が大きく首を振る。

「ダメだ、弟をでんでらにはできない!」

 まるっきりのでまかせだったが、陸馬があまりにも怖がるので、川男は調子に乗った。

 でんでらは赤い着物を着ていて肌の色も赤く、口が割けてキバがあり、髪は短く青く天を突き、目の玉はぎょろりと大きく黄色に輝いているのだなどと脅かすもので、陸馬は夕暮れ時になるとでんでらが出てこないかなどと、怖がるようになってしまった。

 夕飯も食べない。寝る前の小便にひとりで立てない。

 そんなことが十日も二十日も続いて、ついにお伝が陸馬に何故一人で小便が出来なくなったのかを問いただし……やっと、川男が陸馬を脅したのだと知る。

 お伝が川男を叱りつけると、川男は「でんでらは強いのだ」と、陸馬に付け加えた。

「でんでらは顔は妖怪のようだが、心は強い。だから、悪い者を退治してくれる。陸馬の心が正しければ、でんでらはお前を襲ってくることはない」

 川男がそういうもので、陸馬は夜は寝小便をしないように寝る前には小便に立ち、母やお伝を気遣って、妹達の面倒をみるようになった。


 そんな陸馬を見て「悪い子はでんでらが食べに来る。良い子はでんでらがお菓子を持って遊びに来る」などとお伝が付け足すものだから、里の子ども達は川男の口からのでまかせをすっかり信じ切り、「でんでら様」などと呼んで、でんでらに食べられてしまわないように、母達やお伝の言うことをよく聞くようになった。

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