レトロゲームとその他のおもいで

しかすけ(志歌寿ケイト)

その1 ファミコンが来た

我が家にファミコンが来たのは1985年、私が6歳の時のことである。


私が生まれ育ったのは、名古屋市郊外の住宅街。団地と戸建てが入り交じる街の、小高い借地に建てられたおかしな構造の平屋に住んでいた。たぶん父が造ったのだと思う。道路から自家駐車場の横を抜け1階分の階段を登って庭のある階層に到達し、その庭を端から端へ行ったところで真鍮製の鍵のある木製ドアを開けるとようやく入れた。当時としても時代遅れというか、各部屋がユニットのようでもある変な家だった。


当時の私はファミコンがあることを知らず、通っていた保育園近くの団地住まいの友人宅で、シャープのファミコンテレビC1(多分)をちょっと見たことがあるだけだった。しかもほとんどゲームはやらずにラジカセから音楽を流して踊り狂っていた。


そしてある日、突如として父親がファミコンを買ってきた。父は「ドリフを観ると馬鹿になる」と言うような人だから意外にも思えた。しかしそういう発言が本心かどうかいまいちよくわからない、ややエキセントリックな人なので、単なる気まぐれかもしれない。パチンコで取ったわけではないようである。


付属していたゲームは「F1レース」(1984/11/2 任天堂)と「ホーガンズアレイ」(1984/6/12 任天堂)で、明らかに父が自分でやるために買ったものだった。父は車もモデルガンも好きだったようだ。ゆるいモデルガンを譲られたこともあった。ファミコンもすぐ飽きた(か、それどころではなかった)ようで、私に譲られた。


銃も車もあまり興味がなかった私はどちらもうまくできなかった。「F1レース」ではブレーキの使い方がわからずコーナー手前でシフトダウン(2段階しかない)でブレーキをかけていた。その走法ではせいぜい5面くらいまでしか行けない。専用光線銃で遊ぶ「ホーガンズアレイ」はそこそこやっていて、こちらのほうが楽しかった。やっていることが単純明快だからか。特に缶を撃つのが好きだった。この銃は箱はないが今も自宅にある。


当時の私は自宅に友人が来ることが少なく、保育園当時はゲームが活躍する機会は限られていた。近所のでかい家の子の廊下を走るとかのほうが楽しかった。


一方で、保育園に行くのはあまり好きではなかった。そもそも年長の2年間しか行ってないのだが、パワー系の2人くらいの児童に目をつけられて嫌がらせを受けていたし、そいつらに突き飛ばされて机の角でこめかみを切り、縫ったこともあった(今も傷がある)。昼寝の時間はまったく眠れず狸寝入りで保母さんのコーヒータイムの会話を盗み聞き。帰りには執拗に家に来るように迫る同級生A山さんの誘いをかわす手立てを常に考えていた。いわば、いじめとストーカーでストレスがたまっている状態である。


保母さんからは頭と絵は褒められたが、だからといって何か良くなるわけでもなかった。人との遊びとしては、石垣の花崗岩を観察するのと、ツツジの蜜を吸うのが好きだった(信じられないがそういう仲間がいたのだ)。あとは保育園の知り合いではない、ちょっとホモっ気のあるKくんと、ふたりきりで暴力団組長宅近くの公園で砂を漁って綺麗な長石を探すとか、そんなことをしていた。運動は全然できなかった。逆上がりができずヤケを起こしたこともあった。


保育園児時代、ゲームはそれ以上増えなかった。


翌年私はそのまま小学生になるのだが、すぐに強制的な転機が訪れる。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る