転章 記憶の朦朧

 今日は平和な1日だった。

 授業で木材を触ってて指にトゲの入った子のトゲを抜く以外は、特に怪我をする子もいなく、さぼりに来る子も今日は珍しくいなかった。

 空もすっかり夕焼けの鮮やかな色がくすみ、部活や委員会活動をしていた子達もそろそろ帰る時間だろう。

 私も今日の日誌を書いたら上がろうと思って、日誌を書いていた。

 最後に自分の名前を書こうとして……違和感を覚えて手が止まった。


 私の名字……鬼無里(きなさ)のはずなのに、何で違う名字を書いてしまったのかしら?

 修正テープで消して、もう1度書き直そうとペンを走らせ……また違う苗字を書いてしまった。

 何重にも修正テープを貼るなんておかしな話だけれど……。また修正テープで消そうとしてたら、ペンを落としてしまった。

 私は拾い上げようとして、自分の左手の指にはまっている物に気がついた。

 指輪? それは銀のコロンとしたものだった。

 私、おしゃれで指輪なんてつける趣味はないのに、いつからつけていたのかしら。

 私は指輪を手に取って……目を見開いた。


『D to A』


 指輪にはそう刻まれていた。

 ――ああっ!

 私の瞳からは、自然と涙が溢れ出て来た!


 私は、とても大事な人と結婚して、名字が変わった。

 その人の結婚の証として、結婚指輪を肌身離さずずっと付けていたのだ!

 好きな人は、自分のルールを全てねじ曲げてしまうほどに、強い。指輪やネックレスで着飾る事を嫌う私の性癖すら変えてしまったのだ。

 なのに、なのに……

 私はその人の事を忘れていた!!

 何で?

 私はそう考えた。


 思えば、最近あの人は滅多に家に帰らなくなった。

 残業なんて、一緒の職場だから嘘だって分かってしまうし、飲みに行くと言っているけれど、あの人はそんなにお酒の飲めない人だと私は知っている。

 そして、今まで怪我してくる事なんて滅多になかったのに、最近は怪我して帰ってこない事の方が少なくなってしまった。彼が帰ってくると、家の中にむわりと死臭が広がって、それが余計に私を不安にさせた。


「何を隠しているの?」


 何度も聞いた。

 なのに、何も教えてなんてくれなかった。

 別に言っても怒らないのに。ただ心配なだけ。


 ああ!

 ああ――!!

 ああ――――!!


 そんな大事な人の事を、どうして忘れてしまったのかしら!!


 ――――私ノ大事ナ人ヲ奪ウナンテ 許サナイ――――


 何かが、聴こえた気がした。

 誰の声?

 その時、身体が瞬時に冷えた。

 風邪? でも身体に熱なんてなく、むしろどんどん冷えていくばかり。

 何?

 一体何なの?

 そして私は気付いた。


 自分の指輪をはめた手が、どんどんと黒く、透明になっていく事に――――。

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