拾肆の章 土御門晴栄

 夜が明けた。

 結局、土御門晴信はそれきり姿を見せなかった。

「夜襲をかけるつもりやも知れませぬ」

 耀斎がそう主張し、それに同意した亮斎と共に不寝番をしたのだが、それは徒労に終わったのだ。

「さあ、朝餉あさげの支度ができましたよ」

 うとうとしていた二人に楓が声をかけた。耀斎はハッとして顔を上げる。目の前に笑顔の楓がいた。

「おはようございます、楓様」

「おはようございます、姉様」

 亮斎も顔を上げ、口を揃えて挨拶した。楓はそれがおかしかったのか、

「さあ、お急ぎ下さい」

と笑いながら屋敷に戻って行く。耀斎と亮斎は思わず顔を見合わせた。


 晴信は、洞窟で昔の事を思い出していた。

(あれほど憎んでいた小野一門であるのに、何故、躊躇ためらったのだ、私は?)

 彼は、幼き頃の楓と出会っているのだ。

(そのような事……)


 小野源斎の乱よりも遥か前。晴信がまだ自分の名も知らずに山で生活していた時の事だ。

「あの者か?」

 木の上で野兎の肉を食らっていた晴信を見て、衣冠束帯の若い男が言った。

「何だ?」

 当時、彼は「のぶ」と呼ばれていた。だがそれは彼の本当の名かどうか、誰も知らなかった。

「はい。お気をつけ下さいませ。何しろ、礼儀作法をまるで知らぬ山猿のような子供にございます故」

 衣冠束帯の男の隣に立っているのは、その辺りの名主だ。もうすぐ幕末という時代であったが、田舎はまだ武家社会がしっかりと根付いていた。

「大事ない。私には、彼奴の心がようわかる」

 衣冠束帯の男はフッと笑った。名主はギョッとして、

「いや、ですが、怪我をされては……」

 衣冠束帯の男は蔑むような目で名主を見た。

「自分の身が危ういか?」

「あ、いえ、滅相もございませぬ。私は晴雄様の御身を……」

 図星を突かれた名主は、冷や汗を垂らして弁解する。

「気にせずとも良い。誰も咎められるような事にはならぬ」

 衣冠束帯の男は、それでもあれこれ心配する名主を帰らせ、のぶに話しかけた。

「お前には物の怪が見えるそうだな、のぶ?」

 のぶは、そんな事を尋ねられるとは思っていなかったので、ハッとして男を見た。

「私は、土御門晴雄。陰陽道の宗家、土御門家の当主だ」

 のぶには、陰陽師という言葉も、土御門家という家柄もわからなかったが、その男に興味が湧いた。

「何の用だ?」

 のぶは木から飛び降り、晴雄の前に立った。二人の背丈は、一尺(約三十センチ)ほど違っている。

「お前を迎えに来た」

「え?」

 思わぬ答えにのぶはビクッとして晴雄を見上げた。

 のぶは土御門家に連れて行かれ、当主である晴雄の手でその才能を開花させて行く。

 数年後、のぶは晴信と名づけられ、土御門家一門に加わった。そして跡継ぎのない分家の一つと養子縁組をした。土御門晴信はこうして誕生した。

 ある日、晴信は晴雄に呼ばれ、京に上った。すでにキナ臭い情勢であり、町を勤皇の志士達が歩いていた。しかし、そんな事にはまるで興味がない晴信は、志士達が訝しそうに視線を向ける中、わき目も振らずに土御門宗家を目指した。

 宗家に着いた晴信は、晴雄と共にある老人と面会した。白い衣冠束帯の老人は、晴雄より上座に座っていたので、晴信は緊張した。

(この方はどなただろう?)

 老人から発せられる強烈な気に、晴信は思わず身を引いてしまった。

「この者が、先日お話致しました、晴信にございます」

 晴雄が老人に晴信を紹介する。老人はキッと晴信を見た。

「なるほど、これはまた、天賦の才とも申すべき途轍もなき気を持っておりますな」

 誉められたのか? 晴信は疑問に思った。言葉は確かに誉めているが、老人の顔つきは晴信を警戒しているようだ。

「こちらは、姫巫女流古神道小野宗家のご当主、小野栄斎様だ」

「はは」

 晴信は慌てて頭を下げ、

「お目にかかれて光栄に存じます」

 小野宗家。聞いた事はあった。神代の昔から続く古神道の名門だと。

「下がってよいぞ、晴信」

 晴雄の言葉にホッとし、晴信はもう一度頭を下げ、退室した。


 しばらく、栄斎と晴雄は話をしていた。内容が気になった晴信であったが、二人に知られずに盗み聞きする事などできないと思った。しかし、どうしても栄斎の言葉が気にかかり、そっと部屋に近づいた。

「晴雄殿、あの者、宗家に迎えられるおつもりか?」

 栄斎の声が聞こえた。

(自分の事を話しておられる……)

 一気に緊張が高まり、口の中が渇く。

「幸い、私には跡継ぎがおります故、今は考えておりませぬが、事ありし時は、あるいはと思うております」

 晴雄が答えた。

(え? 私を跡継ぎに?)

 晴信は胸が高鳴った。一門に加えてもらっただけでも、天にも昇る心持ちであった晴信は、一瞬ボオッとしてしまった。

「それはお止めになった方が宜しかろう。あの者には、魔の気があります故」

 栄斎のその一言で、晴信は真っ青になった。

(魔の気?)

 何の事かわからなかったが、良くない事らしいのは理解できた。

「そうでございますか」

 心なしか、晴雄の声も暗く感じられた。

「できるならば、あの者は一門から追い出す方が宜しい。この後、必ずや土御門家に災いを呼び込みますぞ」

 栄斎の言葉は更に晴信を否定した。晴信は頭の中が混乱し、そのまま駆け出した。

「嘘だ、嘘だ!」

 彼は屋敷を飛び出し、門へと走った。その時、横から駆け出して来た女の子に気づいた。しかし、気づくのが遅かったため、晴信は女の子とぶつかり、倒してしまった。

「すまぬ、怪我はないか?」

 女の子はまだ十にも満たないくらい幼い子だった。しかし、その顔立ちは将来必ず美しい女性にょしょうに育つ事を予感させた。

「ありませぬ。楓は強い子ですから」

 女の子は泣きもせず、微笑んで答えた。

「私こそ、申し訳ありませぬ。女子おなごがはしたなく駆けたりして」

 楓と名乗ったその女の子は、しっかりとした言葉遣いで晴信に詫びた。

「い、いや。怪我がなければそれで良い。名は、楓と申すのか?」

 晴信は、そんな幼い子に顔が火照る自分がわからない。楓の堂々とした物言いが、その幼さを消しているのだろう。

「はい。小野楓と申します」

 楓はニコッとして答える。

「え?」

 晴信はギクッとした。

(小野? もしや?)

「では、其方そなたの父上様は、小野栄斎様か?」

「はい。そうにございます」

 晴信は愕然とした。楓は自分より遥かに幼いのに、自分とは比べものにならない程荘厳な気をその身にまとっている。

(これが、小野宗家の血か?)

 そう感じ、晴信は以降小野宗家への憎しみを封印して来たのだ。同時に、自分でも理解し難い楓への思いも。


 しかし、十数年の時を経て、彼はまた小野一門を憎んでいる。

(この次は手は抜かぬ。小野宗家は滅ぶべきなのだ)

 晴信は、呪符を作るため、墨をり始めた。


 夕暮れ時になっても、晴信は姿を見せなかった。交代で見張りをしていた耀斎と亮斎も、すでに限界だった。

「お二人共、少しはお休みなさいませ」

 楓は呆れ顔で言った。

「はい」

 二人は楓にたしなめられたので、項垂れてしまった。その時、楓は誰かが近づいて来るのを感じた。

(誰?)

 晴信と似た感じがするが、彼のような敵意はない。それに晴信より品のある気だ。

「何者?」

 耀斎と亮斎も、ヘトヘトになりながら、門の方を見た。

「お初にお目にかかります。土御門家の当主、土御門晴栄にございます」

 門をくぐって現れたのは、土御門宗家現当主の晴栄であった。

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