シン・ゴジラに観る高2の精神

 中二病というのは、無邪気に妄想の世界に入り浸っているうちに現世との境界を持たなくなる事あるいはその兆候が見られる事であります。

 高二病というのは、中二病の者を恥ずかしい奴だと嗤う事であります。だけど、高二病の外枠には、そういう意識自体が恥ずかしいよねと眉を潜める大人が居ります。


 そして、クリエイティブな仕事というものは多かれ少なかれ、中二病的な「ぼくのかんがえた○○」をひけらかすのがその業務内容ですので、多くのクリエイターはいかにして恥ずかしくない体裁を付けるかで腐心するわけです。


 シンゴジラだって、一番最初のアイデアはきっと「ぼくのかんがえたかっちょいーかいじゅう!」だったはず。これを恥ずかしくない体裁にまでもって行った集大成が、あの映画なわけです。

 かっちょいーかいじゅう!には、自衛隊や政府の内部事情というリアリティ、映像的精巧さ、テーマの重厚感に加えて、俳優陣の演技力、などなどが元々の中二臭を消し去りにかかるわけです。結局映画を観れなかったんで、米軍が無茶な横槍入れるだろうシーンがどう処理されただろうかとか、残念ながら想像するに留まっておりますが。(涙

 東京湾に最接近したであろう米軍原子力空母とか、観たかった……。


 さて、恥ずかしいか、恥ずかしくないか。


 買う買わないにも関係しますよね。タダなら読むけど、というのには重大な意味が隠されています。金を出すという行為は、本当のところ、最上級の賛辞だから。

 良いものだから金を出すのが根本原理なわけです。表面では理想論だの綺麗ごとだのを言っていようと、心の片隅では誰もが、金を使うほどの価値があるかどうかをまず審議しているわけです。


 恥ずかしいかどうかは、このハードルを左右します。価値自体は変動しないだろうけれど、金を出すかどうかは恥ずかしさによって比較変動するわけです。


 自身にとって、ただ恥ずかしいだけで価値が低いのならば金を出さないわけです。ソシャゲで、重課金の方が推しに何十万と注ぎ込むのは、その人にとっては恥より価値が勝っているから。けれど、価値観が違えば、その人のその行為までが恥ずかしく映ります。


 バーキンのハンドバックを何十万で買うことも、ソシャゲの押しに何十万注ぎ込むことも、両者に価値を見出さない者にしてみれば同じく馬鹿げて見えるわけです。

 それでも、世間一般ではバーキンは知名度があります、価値も認められています、一緒にするなと怒られるでしょうし、それは当然です。


 ソシャゲを恥ずかしいものとする世間の空気は、バーキンを恥ずかしいものとする空気に比べて圧倒的に濃いからです。それに対して最上級の賛辞を送るという行為もまた恥ずかしいとされてしまうわけです。


 これは相対的価値というものであって、いくら人それぞれの価値観ではないかと屁理屈を捏ねても無駄なところでもあります。あなたの言うソレは絶対的価値に過ぎません。絶対的価値という物差しにおいては、他者は無関係ですから。


 前にも似たような事を書いた気がします。筆者はトリ頭ですんで、笑って許してください。三歩で忘れるんです。


 読者層は一つではないし、タダ見の層というものがあるし、サブ垢ってのがあるし、人気=面白いではないし、そもそも話題に乗っただけ、てのも考慮して……


 狙って書くというのは、実はあんまり得策じゃないですよね。せいぜいレーベルのカラーを分析して、どういう系統がそのレーベルにおける売れ線なのかを探る、という程度のことでしょう。

 それが、書き方講座などに見る「読者層の想定」ではないかと。

 かなりドンブリ勘定。




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