ピクシブとカクヨムに差が出たへの応援コメント
初めまして。
自分も最初はなろうの存在を知らず、ピクシブで一次創作を発表していた作者です。最終的にはなろうに一次創作を公開し、そちらの方が閲覧数も伸びている気配もしますが。
ピクシブに関してはピクシブ文芸と言うサイトも出来たのですが、二次創作の誤爆がデイリー1位になるケースもあるので、やはりピクシブで一次創作小説を発表するのは難しいのかもしれません。
最近は今まではイラストと漫画のみだったピクシブファンタジアで、まさかの小説エントリーが可能となり、そちらでランキングとは無関係に一次創作(ピクファンは二次オリ等は禁止)が伸びているでしょうか。
作者からの返信
初めましてー。
三年が経ちまして、Web全体の動向やカクヨムの読者層もずいぶん変化したのではないかと思われますが、現在、ピクシブは二次創作を導線として一次オリジナルの作品にも読者が流れているようです。
商業作品でも通じるような非常にレベルの高い作品も増えているという話を聞いています。
実際に観測したわけではなく、噂の域ですので、本当のところどうなのかは解らないのですが、発表の場も続々増えていますし、全体的にレベルがかなり上がっているのかも知れませんねぇ。
かつてはWeb小説と一般で市販されている小説では、まるでベツモノというくらい差があったものが、その差がなくなりつつあるように思います。
Web特有のあの、テンプレ文化の動向もそのうち調べてみないとどうなってるか解りませんね。(^^)
読まれる作品を作る為に ~壁~への応援コメント
提供側として、妥協と割り切りが肝心という事ですかね・・・。
頭でわかっていても認められない人は多そうな命題です。
作者からの返信
これ、「君の名は。」を例にすると非常に解かり良いのです。あの監督はそれまでほぼ無名というか、すごくニッチなファンが付いている監督だったそうです。
その昔からのファンとは違い、この作品で知って、この作品くらいしか知らないのにファンだというユーザーが「にわか」というわけです。この人々が後々もファンで居続ければにわかとは呼ばれなくなります。
もうひとつ、この作品の大ヒットでファンを名乗り始めたものの、一段落したちょうど今時分ですね、もう話題に上せることもしなくなる、他の何かに夢中になっているという人、これが「イナゴ」です。
かつては、過ぎた流行をそのまま好きで居続ける人を平気で悪しざまに言う人も多かったんで、それでイナゴと呼ばれたんですが。
まさしくファッション感覚でしかない人たち。
これらの人も、数字の上ではカウントされてしまいますが、あの大ヒットを支えた数字の大部分はそういう人に近いながらまったく種類の違う、もう一つのグループになります。
別に本命といえる何かを持ちつつ、出歯亀根性というか、話題だからと飛び乗った人々ですね、それがヒットの数字の大部分だと思います。
これらをまるで区分できないので、数値はあんまり参考にならない、と申し上げている次第です。(笑
なので、読者ウケを狙うということは、こういう読者層を狙うということだと暴露しているのです。読まれたい方にとって、数字は大事でしょうが、こういう内訳だけどそれでもそんなに大事か?と説いています。
「文芸」の読者は要求が高いへの応援コメント
比喩の使い方は確かに大切ですね。
表現方法の一つの話しをされているのだと思いますが、
小説に限った話ではなくてもこれは同じで、
相手に伝わるように喩え話しとして比喩は使われますが、
読み手の教養が足りてないと、これを読解出来ないわけです。
そこで政治問答なんかになってくると、「バカにもわかりやすく説明しなければならないでしょ」「あなたの主張は理解されて初めて意味がある”論”なのでしょう?」「高尚な理想ばかり言い募っても、無知な一般人に理解されなければ無意味でしょう?」「そのための比喩、相手のレベルを想定して使い分ける例え話」と説いてきました。
この、「相手の程度」「読者の質」の変化という意味でも、
比喩の使い方は本当にセンスなのでしょうねと常々思います。難しい所です。
自分の頭のレベルと読者の質が同じではない所が、
こうした出版社などを通じて厳選されて出される小説などと違う所なのだとは思いますが、
ここ20年WEB上のいろんなコンテンツを見てきただけでも、
読み手の質が下がってきているとは実感します。
きちんとした文章を読める層というのがニッチなニーズになって来ているのかなと危機感を覚えていたりもします。
作者からの返信
読み手のレベルが下がっているというのは実は間違いで、読者レベルの平均値は実は上がっているという気がしているんです。ただ、高尚な方の需要がどれだけ伸びたかを数値化しないんですよね、タダで読める青空文庫とかを合わせても、実は難しい方の書籍の需要は今までにないほど上がっていると思います。
ニッチなニーズはむしろ、低俗とされる方であり、けれど高尚の方が不透明であるために、そちらは盛り上がっていないと勝手に誤解されているようなのです。
Webは高尚を求める場所ではないというレッテルが貼られた、と見るのが正しいのではないか、という気がしています。(確かにレベルの高い作品を探すのは大変ですし…)
読者が○○を邪魔に感じるときへの応援コメント
おお!なるほど。
Mixiとかできる以前から方々でいろんな政治経済歴史の議論を掲示板なんかでやってましたが、妙なファンが出来るんですよ。
曰く、その詩的な文体が好きだとか。
いやこれ論ですからね?
資料がっちり固めて相手を追い込むのが好きだとか。
これ戦争してるんじゃないんですよ?
とかいうやり取りもあったりで。
MixiやFacebookに移行した頃は、それがまだ続いてました。
ところがTwitterメインに変えると、長文自体が読まれない。
どこが違うんだろう?って昨年あたりから漠然と考えていた所、
ユーザーが求めている文章の質の違いなのかなと思っていました。
速報性というか、端的に出来事を知りたいだけ。
詳細はどーでもいい。
ものすごく刹那的というか、短絡的というか、表層的というか。
あまり物事を深く考えたり追求したりしないで、
彼らは「ただ知りたいだけ」で、「誰が」とか「なぜなのか」とか「それでどうなる」とかはどーでもいいんだなと。
だから話の前提を積み上げていくような長文は、読まないし、そもそも読めない。
と、感じていましたが、この話は通じるものがあるでしょうか。
ちなみにそんなTwitterでばかり書いていると、文字制限がきついのもあり、
文章を収めるために変則的な文、特に話し言葉と呼吸感重視にする結果、
自分の文章の句読点のつけ方すら怪しくなってきて凹んでいます。
作者からの返信
ツイッターも二分している感じがしますね、何ツイートも使って長文にしているユーザーと、従来の短文で使っているユーザーで分かれていると感じます。
長文派はトゥゲッターなどでマトメにされやすいので、そちらを見ればどういう感じかは解かります。割合的なものはさすがに見えていませんが、ツイッターがすでに普段遣いであることを考えれば、ちょっと特殊な人、という感じで目立っているかも、と感じますね。
長文派は割と文字制限無視でブログみたいに使っていますよー。(そして長文派の方が人の興味を引いているような気もします)
読まれる文章の大前提は、興味があるかないか、なので、短文に収めることが巧かろうと興味を引く内容でなければ読まれない、ならば無理に短文に収めず長文でしっかり興味を引く方向へ行こうという人の読みが当たっているという感じでしょうかね。
ピクシブとカクヨムに差が出たへの応援コメント
私は何も創作らしい創作できてないですが、Pixcivは初期からのユーザーでした。
Mixiで創作やってるマイミク繋がりで反応返したり、Mixiが落ち目になった時に、繋がっておきたい人を中心にサブのSNSとして活用してました。
で、カクヨムなんですけど、
存在自体を昨年末まで知りませんでしたし、
WEB小説読もうなんてのは、去年の夏になろう小説を読むまで思いもしませんでしたが、カクヨムは年末まで認知すらしてなかったのです。
読者層の違い・・・というモノなんでしょうかね、これ。
角川といえば昔はよく読んだものですけど、最近はなぜか忌避感があったりします。理由はわかりません。
最近のラノベ層には、小説読もうとしたときに、角川という選択肢自体があまり上がってこないのかもしれません。
あくまで主観でしかないけど、雰囲気そんな感じに感じています。
Twitterでもよく「自分の小説は全然読まれない」って凹んでいる人がいますけども、
媒体と宣伝と、中の人の活動から見える人格や言動もあるのかなと最近は思います。
今回の私みたいに目的持って直接飛んで来る例なんて、本当に稀な例で、アテにしちゃだめなんだろうなと。
なろう小説とか数が多すぎる媒体だと、ランキング100位くらいまでしかほんと探さないです。探せないです。
読まれてないランキングでもあれば読みたいと思ってても、見つけようがないです。埋もれてる読まれてないけど面白いとか将来に期待的な作品をキュレーションすれば稼げるのかもしれないけど、そんな時間ないですしね・・・。
私が思いつくくらいだからやってる人いるかもしれませんが・・・。
やっぱりPV稼ぐの大変なんですね・・・。
でもこうやってそのことを記事にして下さるというのは、すごく貴重だと思います。
なのでコメントにしてみました。
作者からの返信
カクヨムの知名度が少しずつ上がってきて、現在は埋もれた作品もいつの間にか読まれているという状態になってきています。ピクシブと同じ感じ。
ただ、カクヨムは読者層が真っ二つという感じがしまして、テンプレ系やWeb小説系を好む層と、一般文芸系を本来は好む層で二分しているのではないかと思っています。現在、ピクシブが一般文芸系の一次創作がほぼ主流に返り咲いているところを見るに、カクヨムが今後どうなるかは興味深いと思いますねー。
地の文で説明などしちゃいけないんです。への応援コメント
ああ、なるほど!
あの妙にメタ的なものも含んだ説明をセリフに織り交ぜた違和感ある文章は、そういう分類(地の文)なんですね。
最近は慣れてきて「これはそういうモノ」「そういう場所(なろう)」と思うようにしてましたが、ここで理由が解りました。
作者からの返信
冒頭などの、飾りで付いている部分と同様に、これの問題もテンプレ系独自の文化と踏まえれば何も問題はないんですけどね。そういうものだ、というだけなので。
一般の小説と同じと捉えさえしなければ、本当に何の問題もないんですが、世間のテンプレ贔屓の方々は同じとしたい方が多くてややこしいことになっています。(笑
「葛藤」本題からのスパートへの応援コメント
ここを読んで思い出したのですが、
昔のアニメのリメイクが流行っていますが、
小学校低学年の子にリメイクの宇宙戦艦ヤマト2199を見せても反応が薄かったのです。大人は旧作を見てのファンなので楽しめたものですが。
で、旧作を見せると子供もハマったと。
旧作を見てからリメイクをもう一度見せると、今度はそっちばかり見る様に。
何が違うのかなと思うと、
旧作というか、古いアニメは物語や構図がシンプルに、どこか勧善懲悪的な部分があって子供に受け入れられやすいのではないかと。
どの世代でも楽しめる作品に仕上がっているのに対し、
リメイクは物語や展開、背景、人物描写に厚みが持たされていて、
この本題から承認、葛藤に割く時間が非常に丁寧に作り込まれているのではないかと感じます。
今どきの作品で、ユーザーの共感を得ようとすると、
この葛藤部分で共感できるかどうか、願望が反映されたあとに、読者が「自分ならどう考えるだろう、やっぱりこんな風に考えるよね」「考えたいよね」と思えるかどうかが、鍵なのかなと。
なろう小説などの説明不足なテンプレが、なぜか抵抗もあまりなく受け入れられるのを見て感じています。
作者からの返信
ヤマトのリメイク版はそうなのですかー。見てはいないので推測ですが、恐らくは旧版を踏まえた作りにしてしまったんではないかと思います。いわゆる内輪ウケという。
テンプレモノにも言えるのですが、昨今のクリエイターさんの多くに、自分は知っているから相手も知ってるだろう、で基盤を作ってしまう方が多いのです。プロでさえ。その結果、まったく知らない一見さんからは、非常に疎外感の強い語りかけをしてくる作品が出来上がります。
テンプレモノの冒頭や世界観紹介の文章は、如実にこの傾向が強く、テンプレに馴染みがない読者は、すごく省略された説明文を読んでいる気持ちになるのですが、これがテンプレに慣れた者には感じ取れないというとても大きな欠点になっているんです。
「本題」物語の核心が語られるへの応援コメント
敢えて起承転結に当てはめると、「起」の部分がこの「本題」になるのかな。
一見すると冒頭と序盤が起のように感じがちですが、物語が動き出す起点という意味ではこちらのような気がしました。
(なので起承転結でまとめると、分類が薄いというか大雑把すぎる事になるわけですね)
理解が追い付いているのか不安ですが、続き読ませてもらいますね。
作者からの返信
これは、「起承転結」という大雑把な作法では創作がやりにくいだろうと思って、もっと詳細に分けたメソッドです。冒頭・序盤・本題の三つで「起」に当たります。
多分に説明不足ですんで、いずれキチンと清書したいと思っている部分でして、解かりずらいと思われます。申し訳ないです。本番リベンジまでご容赦くださいー。
「序盤」世界観披露の場所への応援コメント
ネットゲームなどにおけるチュートリアル的な部分なのかなと感じます。
「死んだ」「異世界来た」の後に来る、
ここは実際どんなとこ?
自分はどういう状態?
自分は何が出来る?
何をする?
とりあえず歩いてみよう。
初期村がある。
猿回し役的な案内NPCが相手をしてくれる。
ちょっとわかったので、操作に慣れるために近くの敵をたおしてレベルを上げよう。
イベント発生してメインになるストーリーが始まる>本題に移行
みたいなのをなぞっているのかなと。
オフラインオンラインに限らず、そういったゲームに親しんで育ってきた世代には、こういった初期展開が常識として染みついている部分があるのかもしれなくて、親和性が高いのかなと思っています。
作者からの返信
チュートリアルが必要とされる物語やゲームというものは、多くのユーザー、読者が、「ほとんど馴染みがないだろうから」説明を要する、そのために置かれるのですよ。
なので、本来、テンプレ的世界観というものはもうこの辺りは不要なのです。中世ヨーロッパ風RPG世界の括りから出るモノには必要だというだけなので。
で、なぜ付いているかといえば、これも冒頭と同じくの小説らしい体裁の為に付けられていて、あってもなくてもいい部分と思います。飾りです。
異世界シャワー問題ありましたが、ツッコミ所がとても大きいにも関わらず、問題なく読めてしまうのがその証左と思いますね。
これはしかし、読者によってはその感覚が感じ取れないものなんです。テンプレの場合は、あってもなくても問題ない箇所なので。
その代わり、これをひとたび、テンプレから大きく外したお馴染み感のない世界を舞台としたなら、テンプレのような書き方でやると失敗するよ、と、それがこのエッセイで言いたい本題です。
「冒頭」つかみはOK!?への応援コメント
なろうから来ました。読むのは好きで、書いてみたいと思いつつ、基本的なことが解ってないので調べもの中にここに出会いました。
なろうの冒頭は確かにテンプレの説明的で、「死んで異世界転生して鬱屈とした現実社会から解放されて異世界を楽しむぞー」という導入的説明を端折る的な感じはしますね。なぜ死んだのかとかそういうのを無視するのは、書き手も読み手も「現実社会はクソ」って思いと、そこから解放されたい願望が背景にあるのかもしれませんね。若い世代が潜在的に持っているフラストレーションに共通共感するのが前提として出来上がったテンプレなんじゃないかと最近思います。
ともあれ、この起承転結などのテンプレに拠らない構成の仕分け方は、私の盲を啓いてくれたので、続きも読ませていただきたいと思います。
こういうの書いて下さってありがとうございます。
作者からの返信
異世界テンプレ系の冒頭は、単純に「異世界に舞台が移ります」という宣言に過ぎないのだと感じますね。別に意味はなくて、ちょっと小説っぽい始まり方をさせてみた、という程度の意図でくっ付いているものと思います。なので、批評の際に、小説構造的にあの冒頭をどう捉えるかという分析は出来ないと見るべきじゃないかなぁとも。(それが悪いという意味ではありません)
このエッセイでは逆に、批評出来るだけの構造を持った作品の書き方を扱っていきたいと思っているのですが、作者自身がまだ手探りの状態でして、とっちらかったメモ状のままになってしまっています。
それでも幾らかはお役に立てる部分がありましたら幸いです。こちらこそ、感想ありがとうございますー。
「作品」とイデオロギーの表出への応援コメント
(半分お遊びなので失礼)
以前から(こっそり)ヒマを見つけ追いかけてますが
白黒なんてのは、所属する側の問題にしか過ぎません。
※自分が思うに、世の中なんて超適当っすよーw
作者からの返信
コメントありがとうですー。(^^)
いやー、コメント欄が付いてたんですねぇ、いつの間にか。ぜんぜん気付いてませんでしたよ。
ほんっと、そうですよね。世の中はテキトーですわ。(笑
一人称は主人公視点と言うけれどへの応援コメント
偶然訪れたのですが、拙作に対して思うところが多かったので、コメントを失礼します。
私の作品では、「一人称は個性というフィルタのかかったカメラ」という意識で書かせていただきました。描写したいけれど意識しないはずのところを、意識させるために工夫や小細工をしたり。あちこちを敢えてカメラに映さず、またフィルタでかき消してみたり。いろいろ試して、とても楽しく勉強にもなりました。
このあたりは、なんとなく書く方・書ける方・いろいろ考えてみる方など様々だと思うのですが、お考えをお伺いできて楽しかったです。
作者からの返信
人称は書き手の定義するところが大きく食い違ったりする最たるモノのようで、それゆえ指南書などにも書けないという事情がありそうです。
小説はマニュアルが作れない、と言われる所以でしょうか。
定義というのは共通させた方が良いとされがちですが、こういう創作などを見ると、一概には言えないというのがよく解ります。
そこを理解してくれない勢力との抗争に、ここ数年、悩まされておりまして、いい加減嫌気が差しております。(苦笑
私の他のエッセイでは、最近は政治色が強い記事ばかり目立つのですが、そちらにも同様に小説技巧関連記事がありますので、興味のあるトコだけを摘まんで読んで頂けると幸いです。(政治色は無視しといてください…