九月のおにぎり君

 今宵は中秋の名月。

 私の住まいは平屋一戸建ての賃貸です。その庭に縁台を出して月見を楽しんでいました。縁台には月見団子、ススキ、そして輪島塗りの大盃。手酌で月見酒を楽しみながら、私は月ウサギを想像しました。


「月ではウサギが餅をつく、か。望月で餅つきとは出来の悪い駄洒落だな」


 まるで意味のない言葉ですが、酔っぱらっている時の独り言なんて、いつでもこんなものです。盃が空になったので、一升瓶から酒を注ぎ、団子でも食べようかと手を伸ばした時でした。


「はっ!」


 何者かの気配を感じたのです。居る、間違いなく近くに居る。私は団子を手に取るのをやめ、盃の方を振り返りました。居ました。


「おにぎり君っ!」


 おにぎり君が現われる所、必ず丸い物あり。今度はこの大盃か……いや、違う。おにぎり君の目は大盃を見ていない。では、あの月見団子か……いや、違う。月見団子も見ていない。では、一体どの丸い物を伴侶にしようとしているのだ。


 私はもう一度冷静におにぎり君の観察を始めました。彼は盃を覗き込むように見ています。何を見ているんだ、盃でなければ、酒? いや違う。で、では、まさか酒に映った月?


「き、君はスイカ割りのスイカちゃんの次は、酒に映った名月ちゃんを伴侶にしようとしているのかっ!」


 その時、おにぎり君の声が頭の中に聞こえてきました。


『ああ、黄金色に輝く円の中でウサギが餅をついている。見詰めているうちに狼男に変身したくなってしまいそうな魅惑的な姿態。丸い盃の中に住む丸い名月ちゃん、もうサイコー!』


 どうやらおにぎり君は、名月ちゃんが酒に映った月だとは思っていないようです。困ったものです。このまま真実を隠し通すべきか。いいえ、今まで私はおにぎり君を甘やかしすぎました。辛いだろうと思って敢えて何も言わず、その結果、更に辛い目に遭わせてきたのです。この態度は改めるべきです。


「おにぎり君、真実を知るんだ」


 私は盃を揺らしました、名月ちゃんも揺れます。


『あれ、名月ちゃんが震えている。寒いのかな』


 まだ気付かないようです。私は盃の酒を飲み干して、空の盃をおにぎり君の前に置きました。


『あれ、名月ちゃんが居ない。お手洗いかな』


 どこまで鈍いおにぎりなのでしょう。そもそも名前が名月ちゃんなのですから、空に浮かぶ名月の影であることはすぐに気付くはずです。苛立った私はおにぎり君を仰向けに寝かせて強引に空の名月を直視させました。


『あれ、名月ちゃんがあんな所に居る。いつの間に』


「いい加減に気付きなよ、おにぎり君。君が見たのは酒に映った影に過ぎない。本物は決して手の届かない空の上に居るんだ」


 おにぎり君の体が小刻みに震えました。ようやく真実に気付き驚愕したのでしょう。


 私の中に大きな使命感が広がり始めていました。これまで言おうと思いながら言えなかった事、教えようと思いながら教えなかった事、それらを今、洗いざらいぶちまけた方がいいのではないか、そんな思いがふつふつと湧き上がって来たのです。酒の酔いの力を借りて、私の思いは言葉になって溢れ出てきました。


「おにぎり君、君は間違っているよ。どうしてそんなに丸い物を求めるんだい。考えてみるがいい。世の中には完璧に丸い物なんてないんだ。真円も球体も概念でしかない。現実の物は必ず歪みを持っている。完全に円滑な人間関係なんてない。集団ができれば必ず仲間外れが起き摩擦が生じる。完全に円満な解決なんてない。どんな結果にも必ず不満を持つ者が現われる。完璧な大団円を迎える小説なんてない。ケチをつける評論家は必ず居る。現実世界では一見丸く見えたとしても、必ずどこかに角があるんだ。丸い物を求めるなんて馬鹿げていると思わないかい。直線だって曲率ゼロの曲線だと思えば、曲がっているような気になるだろう。そもそも君はおにぎりなんだ。おにぎりの伴侶に一番相応しいのはおにぎりなんじゃないのかい。丸い伴侶を求めるってことは自分自身の三角を否定するのと同じだよ。悪いことは言わない。丸い伴侶探しなんてもう止めるんだ。そして身の丈に合ったおにぎりちゃんと一緒になって、幸せな家庭を築くんだ。困ったことがあれば何でも相談に乗ってあげるよ。口で言い難いのなら手紙でもいい。住所と宛名は表札に書いてあるから、後で確認……あっ、おにぎり君、ど、どこへ」


 突然おにぎり君が空高く舞い上がりました。私の説教が余程腹に据えかねたのでしょう。とんでもない勢いで飛んで行きます。もはや追いかけるのは不可能な速さです。


 遠ざかるおにぎり君に向かって私は叫びました。


「おにぎりくーん! 負けちゃ駄目だあー! それから、念のために言っておくけど、空に浮かぶ名月ちゃんに近付こうとしても無理だからねえー! 君の高速移動能力を以ってしても、とてもたどり着けないくらい遠くにあるんだからねえー!」


 私の叫びがおにぎり君に届いたかどうか、私には分かりませんでした。おにぎり君の姿が消えた、名月が輝く夜空を見詰めながら、私はもう一度おにぎり君に会う時が、きっと来るに違いないと感じていました。

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