追い詰められているのは白ウサギのはずだった。それなのに、おれはいま、心理的な不利を感じている。余裕を保っているのは、白ウサギのほうだと思ってしまっている。実際、おれたちの命は彼女に握られているのも同然だ。白ウサギはもうひとつの起爆装置を持っている。それはここまでのすべての努力を消し炭にする、爆発力のある切り札だ。

 風見が再び起爆装置を奪おうと動こうとするが、前回の経験をしっかりと活かして、白ウサギはきびんにそれに反応する。

「少しでも不審な動きを見せたら、そこがあなたたちの死に場所になる」

 さすがにひるんだのか、風見も今度は派手な一歩を踏みだせなかった。このタイミングや雰囲気では、いま周囲に、「新しく未来の死体はあらわれているのか」と訊くことはできない。だけどひるんだということは、風見は危険を感じたということだ。

 嫌な予感がした。

 いや違う。厳密にいえば、味わったことのない予感だ。おれのなかの、どの予想にもなかった展開。

 本当なら、おれたちはもっと早くこのケースを解決できていたのではないか。その機会は確かにあって、おれたちはもう、そのタイミングを逃してしまったのではないか。

 勝利は通り過ぎていった。勝つべきときを、見誤った。ここから先は、何もかもが不確定な未来が広がっている。そんな不安があった。この先の時間を過ごすのを、おれは怖いと思っていた。

 教会内が静まりかえる。誰もしゃべらない。唯一、窓から侵入してくる風の音が、おれたちのまわりをただようだけ。

 出口はすぐそばにある。あるはずなのに、その一歩が届かない。白ウサギは決してこちらから目を離さない。

 棺桶のなかの、タイムリミットを告げている時計は00:00のまま動かない。いつ爆発してもおかしくない、と告げてくるようだった。白ウサギの行動ひとつで、おれたちの生死が決まる。だからこそ、それを刺激するおれたちの行動や言葉もカギとなる。この場を支配しているのは、そういう意味の、沈黙だった。

 そして、口を開いたのは風見だった。しゃべる直前の、彼女の息づかいが聞こえた。

「凪野くんだけは、助けてほしい」

「はい?」

 と、鼻で笑う白ウサギ。

「あの窓から、凪野くんだけでも逃げてもらいたい。だめ?」

「教師が生徒にものを言うときの礼義を知らないの? 敬語を使いなさい」

 少しの間があいて、風見が白ウサギにむかって頭を下げた。

「お願いします。凪野くんを、助けてください」

「残念ね、却下よ。私は二人を殺せと言われてるの」

「それは違う」

 言い切る風見に、白ウサギが驚いたように眉をひそめた。そのあとすぐに、不快そうな顔にかわる。おれはしゃべることができなかった。どんな言葉で刺激してしまうか、わからなかった。それに風見にはもしかしたら、策略があるのかもしれない。

「あなたは死神に、私を殺せと言われてるはずよ」

「それは……」

「あの男が殺したいのは私だけ。邪魔だから消したいのは、私の存在。凪野くんは関係ない。そうでしょ。たまたまそばにいるから、巻き添えを食らっているだけ」

「会話をしながらさりげなく近づこうとしていない? リモコンを奪うつもりでしょう、そうはいかない」

「私を殺すことができれば、あなたの目的は完遂される。これからも爆弾をつくり続けられるかもしれない。爆発を、たくさんの場所で見届けられるかもしれない。違う?」

 尋ねられて、ついに白ウサギは黙った。風見もおれも、その場を一歩も動いていない。

 そして気づく。風見は本気だ。本気でおれだけを避難させようとしている。本当は、ふざけるなと非難したい、大声でどなりつけてやりたい。だけど刺激すれば、二人とも死ぬ。

「二十秒よ」

 白ウサギは言う。

「二十秒の間に凪野くん、あなたは好きにしなさい。それ以上は動いたら爆発させる」

「ちょっと待ってくれ!」

 叫ぶがすでに、白ウサギの口からはカウントダウンがはじまっていた。風見はおれを向き、行ってと目でうながしてくる。

「おれは残る」

「だめよ、凪野くん」

「お前はいつも勝手なんだよ!」

「大丈夫、誰も死なせないから。私も、凪野くんも、白ウサギも。だからお願い、私を信じて」

 私を信じて。

 風見の言葉。

 遊園地のチケットをかけたテストで、風見を信じずにチケットを買った自分を思い出す。結果的にテストはかいざんされたものだった。だけどそんなことは関係ない。彼女を信じ切れなかった自分が、あのとき確かにいたのだ。

 私を信じて。

 その彼女の言葉が、気づけばおれの足を、動かそうとしていた。

 白ウサギはカウントダウンを進めている。

「本当に、信じていいのか」

「私が凪野くんの予想や期待を裏切ったことがあった?」

 何度もあるよ。

 数えきれないくらい。

 七年ぶりに再開してから二か月あまり。彼女と関わるたび、行動するたび、会話をするたび、おれは裏切られっぱなしだ。

 だけど。

 だから、今度こそ信じたい。今回も裏切られて、あっさりと危機を脱するところを見せてほしい。

 おれはとうとう、割れたステンドグラスへと駆けだした。

 窓枠に足をかけ、あとは飛びこえて教会の外にでるだけとなったとき、一度だけ、風見がおれを呼んだ。

「凪野くん。少し前、中庭で私に質問してくれたでしょ?」

 中庭で質問。なんのことか、不思議とすぐに思い当たった。

 荒田の件を解決してすぐ。

 告白という手段をつかって彼をとめた風見に、おれは荒田のことが本当に好きになったのではないかと質問した。

 くだらない質問だった。結局、荒田の乱入によって聞けずじまいの質問だった。どうでもいいことだと思っていたのに、心のどこかで残っていた。それは風見も同じだったようだ。

 白ウサギのカウントダウンは十秒を切っていた。だがその一瞬だけ、彼女の言葉が耳から消えて、風見の声だけが聞こえてきた。

 風見の答え。

「私が好きなのはね、凪野くん、あなたよ」

 笑った気がした。

 こんな状況ですら、彼女は笑えるのだ。

 白ウサギのカウントダウンが五秒を切る。

 やはり戻るべきか。風見のもとに。

 違う。だめだ。それはできない。

 信じると、決めたから。

 だからおれが残してやれる言葉は、ひとつだけ。

「風見」

「うん」

「ぜんぶ終わったら、うちにこい」

 告白への回答。

 家を失った風見に向ける言葉。すべての帳尻を合わせるような、都合のいい言葉だったかもしれない。風見の顔をまともに見ずに返事をしたことも減点だ。

 決して、満点ではなかったかもしれない。及第点か、もしくはバツがつくような返事だったかもしれない。けれどそれでいい。それをネタにまた、彼女とひと盛り上がりできればいい。愛や恋は、必ずしも満点ではなくてもいい。

 白ウサギのカウントが一を数えた。

 風見に背をむけて、おれは窓枠を蹴って、外にでた。

 土と雑草がおれの着地をうけとめる。そのままわきを通り抜けて、教会の前まで避難する。足もとがコンクリートにかわり、そこにはヒビがはいっていた。

 園内はからっぽになっていた。近くの木々が燃えている。あちこちでサイレンの音もした。パトカー、救急車、消防車、どれだろう。たぶん、すべてだ。音が反響しているせいで、何人が何台の車とともにやってきているのかはわからない。

 教会を振り返る。

 なかには白ウサギと風見、そして爆弾。

 対決はまだ続いている。おれは彼女を信じている。おれが脱出してから、すでに数分がたっていた。

「風見……」

 と、つぶやいた瞬間だった。

 目の前の教会が、爆発を起こした。

 かっと教会全体が光り、そして、爆炎。

 衝撃で体がふっとんだ。頭を強くうちつけたのか、視界がぐらつき、意識を失いそうになった。

 音が耳に届いてこない。スローモーションの世界がやってくる。自分の足が、手が、ゆっくりと動き、起き上がっていく。

 再び教会を見る。

 が、そこには何もなかった。さっきまで建物があったはずの場所が、あとかたもなく消えている。

 がれきと、燃えている木材だけがあった。時間が飛んだみたいに、教会が一瞬で崩壊していた。なかには白ウサギがいる。風見がいる。

 耳に音が戻ってきた。最初に聞こえてきたのは、自分自身の絶叫だった。

「夜子! ああ、そんな!」

 手おくれだとわかっている。

 わかっているのに、駆けださずにはいられなかった。いますぐがれきのもとへ行き、木材の山をかきわけ、風見を探すべきだと思った。

 駆けそうとした体を、誰かに抑えられた。邪魔だと思い、そいつを殴る。二人目が加わって、おれは地面に叩き伏せられる。オレンジ色の宇宙服みたいな装備をしている集団だった。消防士だ。ぐらつく視界の奥で、こちらに向かってくる消防車が見えた。

 誰かでてくるぞ、と消防士のひとりが叫んだ。倒れながら、がれきのほうを無理やりむくと、体を燃やしながら女性が這いでてくるのが見えた。

 白ウサギだった。言葉にもならない声で叫び、火に抱かれながらのたうちまわっていた。数人の消防士が彼女にかけよっていく。それで白ウサギの姿が隠れて、見えなくなる。

 風見は。

 風見は、どこだ。

 無事なのか。

 私を信じて。彼女の言葉が、頭にひびく。そしてなぜか、生徒準備室で聞いた白ウサギの声がよみがえる。

『じゃあわたしが奪っちゃおうかな。風見さんを』

 私を信じて。

 風見を信じろ。

 私を信じて。風見を信じろ。信じろ。信じろ。信じろ。

「これは無理だ」

 断ち切るように、言葉が落ちてきた。おれをとり押さえている消防士のひとりだった。気づけばがれきの一部分だけを燃やしていた火が、全体にいきわたっていた。

「誰かがいても、もう助からない」

 きみはもう大丈夫だからな、と、おれをとり押さえているもうひとりが言ってきた。

 おれは風見の名前を呼びつづけた。


 気を失う最後まで、叫びつづけた。

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