寿聖宮夢遊録

高麗楼*鶏林書笈

第1話

 寿聖宮〈スソングン〉は、かつて安平〈アンピョン〉大君が住まわれた処で、ソウルの西方、仁旺山〈イノァンサン〉の山裾に位置しています。地相がたいそう良く、山川も美しく、南側に社稷が、東側には慶福宮があります。仁旺山の山並みはなだらかですが、寿聖宮のあたりは小高くなっていて、頂上に登ると碁盤の目のように仕切られた漢陽〈ハ-ニャン、ソウルのこと〉が一望でき、東の方角に視点を移すと霞がかった王宮がぼんやりと見え、朝夕の陽ざしに照らされたその有様は、まさに絶景と言えるでしょう。そのため、花の季節、紅葉の時期になると、多くの酒客、文人墨客が連日のように押し寄せて来て、途絶えることはありませんでした。

 さて、李氏朝鮮王朝十四代宣祖〈ソンジョ〉王(在位一五六八~一六○八)の頃、漢陽に柳泳〈ユ―ヨン〉という士人層の青年が住んでいました。彼の耳にも寿聖宮跡の風景の美しさの噂が入っていて、常々、ぜひ一度出掛けてみたいものだと思っていましたが、家が貧しく、襤褸を身にまとい、顔色も冴えなかったため、人々の笑い者になることを恐れ、二の足を踏んでいました。しかし、宣祖三十四年(一六○一年)春三月十六日、彼はついに意を決し、濁り酒一瓶を手に供も連れずたった一人で寿聖宮跡に向かいました。予想通り、乞食同然の柳青年の姿を見て人々は指差しながら笑いましたので、彼は恥ずかしさに耐えられなくなり、人目を避けようと知らぬ間に後園の方に入ってしまいました。そこは丘状になっていて、頂に着いた柳青年が周囲を見回してみますと、二度にわたる倭人の戦乱(日本でいう文禄、慶長の役)のため、すっかり荒れ果てていました。美しかった建物は跡形もなく、瓦の破片は散らばり、井戸は埋もれ、ただ東門の一部が残っているだけという有様でした。

 柳青年は西の方向に歩き始めました。花は既に落ちて地面を覆い、池の辺には草が生い茂り、水面にその影を映していました。人跡はまったく無く、芳しい薫りを含んだやわらかな風が吹いてくるばかりでした。

 青年は適当な石を見つけるとその上に坐りました。

「〝地に満つ落花、掃く人無し〟か……」

 大詩人・蘇東坡の詩の一節を詠じた後、無常を感じて思わずため息をついた彼は持ってきた酒を盃に注ぎ、一杯また一杯とたちまちのうちに飲み干してしまいました。普段、酒など飲むことの無い彼は、すぐに酔いが廻ってしまい、その場で眠ってしまいました。

 どのくらい経ったのでしょうか、酔いから醒めた青年が身を起こすと、あたりはすっかり暗くなっていて、空には明るい月が浮かんでいました。

― そろそろ帰るとするか……。

 柳青年が立ち上がったとき、風に乗って和やかな話し声が聞こえてきました。自分のほかに、まだ、この場に人がいることに興味を覚えた彼は、声のする方へと歩いていきました。すぐに秀麗な青年と絶世の佳人が向かい合って坐っているのを見つけました。二人は柳青年の姿を目にすると立ち上がり、親しげに迎えました。

 まず柳青年が口を開き挨拶の言葉を述べたのち

「……日のあるうちではなく、何故、このような時刻にここを訪れたのですか?」

と尋ねました。

「昔から〝傾蓋は故の如し〟と申しますが、これはまさに今宵の私たちのことを言っているようです」

秀麗な青年がこう応じると、柳泳も嬉しくなり、三人はこの故事のように、初対面にもかかわらず旧知のように、その場に坐ると語り始めました。佳人は、すぐに低い声で侍女を呼びました。近くの林の中で待機していたのでしょうか、二人の少女が佳人のもとにやってきました。

「夕方、偶然に旧友に会えて嬉しく思っていたところに、今、又、素敵なお客さまをお迎えでき、今宵はとても楽しく過ごせそうね。お前たちは大急ぎで酒肴を整えてちょうだい。それと筆と硯、紙と墨も持ってきて」

 女主人に、こう命じらた二人は、鳥が飛び立つようにさっと何処かへ去っていき、すぐに紫霞酒と瑠璃の杯、珍しい果物や見慣れない料理が盛られた器と筆記具を運んできました。


「どうぞ召し上がって」

 佳人に勧められて箸をつけた料理も瑠璃杯に注がれた酒も、この世のものとは思えない美味でした。柳青年は、別世界にいるような錯覚にとらわれました。

 杯が三回ほど交されたとき、美女は酒を勧めながら、小鳥がさえずるように詞曲を口吟みました。

   重重たる深き処で故人(とも)と別れ、

   天縁は未だ尽きず因を無される 

   幾番傷す、春繁華の時         

   雲と為り雨と為りて夢真に非ず     

   消え尽く往事、塵と成りて後      

   空(むな)しく今人の涙、巾を満たせしむ

 哀調をおびた旋律を歌い終えると、佳人は感極まったように真珠のような涙を流しながら噎(むせ)び泣きました。驚いた柳青年は〝これはきっと何か深い理由があるに違いない〟と思い、姿勢を正すと改まった口調で問いました。

「私はしがない身の上ですが、幼い頃より学問に親しんでいるため、詩文についても些(いささ)か心得があります。今、こちらの方が詠じられた詞は、格調が高く清々しく、加えて深い悲しみも感じられ、不思議な印象を与えます。今宵は、月は明るく、風も爽やかでこうして集い、楽しく過ごすにはうってつけの時です。なのに何故、こちらの方は、涙を流すのでしょう……。それに私たちは、まだ、お互いの名前さえ知りません。せっかく知り合えたのですから、どうか御名前をお教え頂けませんか?」

 まず、自身の名を告げた柳泳は、青年にも名乗るよう促しました。秀眉を曇らせた青年は溜め息をつき、しばらくしてから、ようやく口を開きました。

「実は訳あって名乗れないのです。しかし、柳どのがどうしてもとおっしゃるのでしたら、拒むことも出来ないでしょう。話せば長くなりますが……」

 青年の話が始まると、佳人は空になったそれぞれの杯に酒を注ぎました。杯を手にした青年は一口含むと、言葉を続けました。

「私は金と申します。十歳の時、詩文が巧いことで学堂で有名になり、その後、十四歳の年、科挙の進士第二科の試験に合格しました。そのため、一時周囲の人々は私のことを〝金進士〟と呼びました。幼い頃から豪放磊落で、それゆえ抑制がきかなくなることもありました。彼女を愛してしまったのも、そんな性格のためでしょう」

 金青年が美女の方に視線を向けると、彼女は恥ずかしそうに下を向きました。

「結果的にこのことが私を不孝者とし、そして天下の大罪人となってしまいました。罪人(つみびと)の名を聞いてどうなさるつもりですか? ……彼女は雲英〈ウニョン〉といい、むこうにいる二人は、それぞれ緑珠〈ノッチュ〉、宋玉〈ソンオク〉といって、いずれも安平大君に仕えていた女人たちです」

 ここまで言うと金青年は、口を閉ざしました。

「途中で止めては、初めから何も言わないのと同じではないですか? 安平大君が御健在だった頃のこと、進士どのが傷心なさった理由を、どうか、お聞かせいただけないでしょうか」

 柳青年が懇請すると、金青年は雲英に

「もう長い年月が経ってしまったが、君はあの時のことを憶えているか?」

と尋ねました。

「どうして忘れることが出来ましょう」

 雲英は温和な声できっぱりと応えました。

「まず、私からお話した方が、柳さまも分かり易いでしょう。あなたは、抜け落ちたところを補いながら書き記して下さいませ」

 金青年が筆を手にすると、雲英はゆっくりと言葉を紡ぎ出しました。

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