おはよう。初めまして。

 バリアフリーに改造された中古マンションの一室で、朝綺は一人暮らしをしてる。


 部屋じゅう、あちこちに手すりが付いている。家具がすべて壁や床に固定されてるのは、家具も手すりの役割を果たすからだ。朝綺の体が今より自由だったころは、手近なものにつかまって動き回ってたらしい。


 あたしとおにいちゃんが朝綺の部屋に行ったとき、朝綺はまだ眠っていた。


「寝顔、見てみる?」


 おにいちゃんがいたずらっぽく訊いてきた。あたしはうなずいた。


「ラフ……」


 一目でわかった。朝綺はラフにそっくりだ。違う。ラフはやっぱり、朝綺の姿を3Dスキャンして作られたキャラだったんだ。


 閉ざされたまぶた。男のくせに長いまつげ。人工呼吸器の半透明のマスクに覆われた、鼻と口の形。ちょっとシャープで、ほとんど完璧な、フェイスライン。


 でも、ラフのほうがずっと日に灼けてた。朝綺は、透きとおってしまいそうに色が白い。朝綺の髪は、ラフみたいな伸ばしっぱなしじゃなくて、つい昨日切ったばっかりだから、きちんと整えられてる。


 目覚まし時計が鳴った。おにいちゃんが声をかけた。


「おーい、朝綺ー。そろそろ起きろー」


 朝綺は少しの間、目を閉じたまま、顔をしかめてた。起きたくないって、無言の抵抗。子どもっぽい。


 目覚ましが鳴り続ける。朝綺の枕元だ。でも、腕の上がらない朝綺には遠すぎる場所。


「ほら、起きろってば」


 おにいちゃんに繰り返し言われて、朝綺がかすかに声をあげた。


「……起きてる……」


 ラフの声だ。


 朝綺は、起きたとか言いながら、まだ目を閉じてる。朝綺の手がグリーンのシーツの上を動いた。ベッドに固定されたリモコンのタッチパネルを操作する。


 ベッドの背もたれごと、ゆっくりと、朝綺が起き上がる。おにいちゃんが目覚まし時計を黙らせた。


 朝綺はまつげを震わせながら目を開いた。キラキラと、漆黒のまなざし。なつかしくなるような、あの顔立ち。


 あたしは、ポシェットの肩ひもをギュッとつかんだ。朝綺がおにいちゃんを見て、それから、あたしを見た。目が大きく開かれる。


 おにいちゃんが人工呼吸器のマスクを外した。


 朝綺は微笑んだ。照れ笑いみたいな、生きた表情。白い歯がこぼれた。


「おはよう。初めまして」


 ラフと同じ声で、朝綺は言った。


「は、初め……まして……」


 朝綺に会ったら、笑おうと考えてた。でも、あたしのほっぺたはうまく動かなかった。あたしは不機嫌な顔で、朝綺と向き合ってる。


「お姫さまって、シャリンそのままなんだな。顔も表情も声も」


 朝綺は嬉しそうだった。



***



 朝綺は、二の腕や太ももの筋肉がもうほとんど動かない。パジャマから着替えるのにも介助が必要ってことで、あたしは寝室の外へ追い出された。


「ど、どうしよう……」


 思考がストップしてる。ポニーテールの先っぽをいじり回しつつ右手の親指に噛みつきながら、あたしは寝室のドアの前でおろおろしてる。


 噛みついた右手の親指は包帯が巻かれてる。おにいちゃんが手当てしてくれた。


 おにいちゃんとニコルは、気が利いて便利なところがまったく同じだ。姿は違うけど、そんなの問題じゃない。おにいちゃんの手当もニコルの補助魔法も、あたしにはしっくりくる。


 でも、あたしと朝綺の関係って、シャリンとラフの関係とは違う。あたしはシャリンじゃないし、朝綺はラフじゃない。だから、旅の記憶を共有してても、結局、初対面だ。


 普通にしていたい。でも、普通って、なに?


 ふと。

 ドアが内側から開かれた。あたしは飛びのいた。


 朝綺が、肘置きとキャスターが付いた椅子に座ってる。おにいちゃんが椅子の背もたれを押してる。


 朝綺のコーデはさわやかなカジュアル系だ。オフホワイトのボタンダウンシャツ。ダメージ入りのジーンズ。ラフと同じキレイな顔立ちに、すごく似合ってる。


 あたしは一瞬、ものすごく不安になった。七分丈のTシャツとデニムのスカートって、変じゃないわよね? 子どもっぽい? あたしに似合ってる?


 朝綺はちょっとあたしから目をそらしてて、あたしも朝綺のほうをまっすぐ見られなくて、おにいちゃんだけが平常運転だ。


「麗、キッチンでお湯を沸かしといて」

「わ、わかった」

「はい、どいたどいた」


 椅子を押して、朝綺を洗面所へ連れて行く。


 あたしがキッチンに立ち尽くしてたら、おにいちゃんは一人でキッチンに戻ってきた。ひそひそした声で説明する。


「ドア、絶対に開けるなよ。朝綺は、麗には見られたくないはずだから」

「ど、ドア? えっ?」


「あのな、洗顔とひげりが全介助。トイレは、脱がして座らせてやった後、朝綺を一人にする。朝綺は腕を使えないから、紙で拭くことができない。ウォシュレットで洗って、送風で乾燥させる。当然、時間がかかる」

「…………」


 あたしは小さくうなずいた。

 おにいちゃんはひそひそと説明を続けた。


「ぼくはその間に、ベッドメイキングと寝室の掃除と朝食の準備。朝綺に呼ばれたら、朝綺がズボンを履くのを介助。それから朝食。日によっては、朝食まで一時間くらいかかるんだ。麗、おなか減ったらクッキーでもつまんでな」


 テーブルの上にはガラス瓶があって、クッキーが入ってる。おにいちゃんの手作りだ。


 あたしは気を取り直した。ポシェットから出したのは、ハンカチみたいに畳める素材のPC。それを広げながら、おにいちゃんに笑ってみせる。


「時間がかかるくらいで、むしろちょうどいいわ。あたしもやることがあるから」


 明精女子学院の退学届けは、昨日の夕方、提出しに行った。おにいちゃんが保護者として同行してくれた。


 万知が起こした一連の事件は世間に隠せなかった。退学者がたくさん出たみたい。詳しい報道なんて、見る気も起きないけど。


 そう、どうでもいいんだ。万知がどうなったのか、知るつもりもない。二度と出会わずにすむなら、邪魔されずにすむなら、それでいい。


 だって、あたしは行き先を見付けたから。


 やるべきことはたくさんある。エリートアカデミーの学位認定書の取り寄せ。特異高知能者ギフテッド証明書の発行。所定のフォームでの履歴書の作成。


 先方の教授とのメールで連絡を取って、試験と面接の日取りの設定する。これから学ぶべき分野を、基礎から徹底的に勉強する。


 あたしは大学院で研究をする道を選んだ。あたしなら、できる。



***



 確かに、朝ごはんを食べ始めるまでに一時間近くかかった。

 テーブルのそばに大きな機材が置かれてる。冷蔵庫と匹敵するくらい大きな装置だ。


「これ、何の機械?」


 あたしは、料理をするおにいちゃんに尋ねてみた。


「朝綺に訊いてみなよ。まあ、見てればわかると思うけど」


 おにいちゃんのメガネは、料理の湯気に薄く曇ってる。朝ごはんのメニューは、トーストとスクランブルエッグと野菜スープ。うちでも、おにいちゃんがよく作るメニュー。


 朝綺がテーブルに着くと、機材の正体が判明した。ロボットアームのメインコンピュータだった。


 二本のロボットアームは、朝綺の左右のテーブルに固定された。アームからは、ごちゃごちゃしたコードが伸びてる。コードはこんがらがりながら、メインコンピュータに連絡してる。


「レトロな造りね」


 朝綺は、ふぅっと力を抜くように笑った。


「このデカブツは、大学時代のサークルのボックスに転がってた。四十年くらい前の試験作ってとこだな。修理したらこのとおり、キッチリ動くようになったんだぜ」

「へ、へぇ」


「古いマシンだけど、操作性や最小出力は、最近のやつと大差ないんだぜ。最近のロボットアームの利点は車いすにも装着できることだけど、装着作業は界人に任せることになる。結局、おれひとりじゃ使えない。つまるところ、使い勝手は、最新のも旧式のも変わらない」


 しゃべってると、ほんとにラフだ。ちょっと荒っぽい口調で、どことなく自信に満ちてて。


「操作はどうやってるの?」

「ゲームのタッチパネル型コントローラをカスタマイズした。おれ、手首から先は、まだそれなりに器用だからな」


 ほら、自信のある話し方をする。


「あんたの器用さは知ってるわ。ゲームの操作能力は、あたしと並ぶレベルでしょ。相当、うまいわよ」

「サンキュ。でも、ショートコマンドだけだよ。それより、その右手の親指はどうした?」

「べ、別に、なんでもない」


 自分で噛みついただなんて、言えるはずない。


 緑色のエプロンが似合うおにいちゃんは、三人ぶんのカップにティーオーレを注いだ。


「じゃ、食べようか」

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