4-2

 一番から四番まで歌い切った。埃っぽい音楽室の匂いが、ふわっと、最後の余韻を静かに呑み込んでいく。

 自然と、四人で顔を見合わせた。全員、汗びっしょりだった。明日実は潤んだ目をしていたけれど、まだ泣いてはいなかった。和弘が我に返った様子で息をついて、カメラを回収に行く。

 あたしはギターヘッドのロゴを見た。普通の小学生では触れる機会もないはずのブランド。いつ、誰が、なぜ、こんな上等なギターをこの音楽室に置いていったのか、結局、わからずじまいだ。

 記録されないまま忘れ去られてしまったできごとが、ここにはたくさんある。つかまえようとしても、指の間からこぼれ落ちてしまう記憶が。誰にも見向きもされず、時の流れの中に置き去りにされた歴史が。

 あたしは知りたかった。覚えておきたかった。

 だって、ひとりぼっちは寂しいでしょう? 人も、モノも、コトも、孤独なまんまじゃ、やるせないでしょう?

「あたしね、練習したんだ。この音楽室で、ギターを、一人で、ずっと。弾けるようになるまで、何度も繰り返し練習してた。父が教頭先生じゃなかったら、こんなことできなかった。そういう特別、ほんとはイヤだったけど、ギターの件だけは感謝してる」

 なぜだろう。あたしは急に話したくなった。話し始めてしまった。まるで歌うときのように、言葉があふれてしまう。

 フードをかぶったからだろうか。唄歌いのhoodiekidだから、こんなに、言葉が止まらないんだろうか。

「島っていう場所は、小近島はもちろん、大近島だって別の島だって同じで、小さな世界なんだよ。あたしの両親は教師という職業で、変な言い方だけど、その小さな世界では、数少ない知識人階級。特別な存在なんだなって、あたしは肌身で感じた」

 小さな世界は我が家を歓迎した。でも、あたしは小さな世界に溶け込まなかった。溶け込ませてもらえなかった。いつだって温かく接してもらっていたけれど、「松本先生夫妻のお宅のお嬢さま」という、特殊な身分に縛られていた。

 あたしには、地元と呼べる場所がない。実家ってどこ? 二年か三年住んだだけの教員住宅。そんなもの、自分の家じゃない。幼なじみって何? まわりはみんな、生まれたころからずっと一緒の仲間なのに。

 父のせいだ。母のせいだ。あたしはいつでも、よそ者の借り物のいい子でいなきゃいけなかった。あたしは本当は、ずっとここにいていいんだよと許してくれる、小さな世界がほしかったのに。

 あたしは淡々と、言葉を吐き出し続けた。島の教師である両親のもとに生まれて、どんな思いをしてきたか。

「あちこち住んだ中で、小近島がいちばん好きだった。真節小は楽しかった。でも、タイムリミットも知ってた。最初から知ってたよ。あたしたちが卒業するときに真節小が閉校になるって。何で? せっかく好きになったのに、何で消えちゃうんだよ?」

 閉校の手続きや書類整理に追われていた父の姿を、よく覚えている。忙しそうだった。でも、いつかはそういう役目を引き受けることになると、父もわかっていたみたいだ。

 どの島も、子どもの数は急速に減っている。島の小学校で先生を続けていたら、閉校や統合に立ち会う可能性も低くない。

「父は初めての職務で一生懸命だった。それ以上に、真節小にとっての最後の日々になるから、そのために一つひとつ丁寧に、学校行事も日常もこなしていこうとしてた。大変そうで、でも生き生きとしてて。あたしも、父と同じようにしていたかった」

 溶け込める場所がほしい。そんなもの手に入らない。

 両親の仕事が嫌い。両親の仕事が誇らしい。

 相反するものの間で、あたしはいつも揺れていた。心を揺らすのは危険なことだと、自分でもわかっていたのに。だって、小近島という小さな世界に入り込んでしまったら、いずれ来る別れのとき、苦しくて仕方ないんだから。

 物心つくのがひどく早い子どもだったという自覚がある。四歳のころに経験した引っ越しで、あたしは思い知った。小さな世界を好きになればなるほど苦しい、と。だから、最初からサヨナラまでのカウントダウンをして、泣かないように備えなきゃ。

 和弘がカメラの向こう側から言った。

「結羽ちゃんが難しか気持ちでおること、知っとったよ。卒業式のときに言いよったやん」

「あたしが? 何か言った?」

「結羽ちゃんのおかあさん、あの日、岡浦小の卒業式やったけん、真節小に来られんかったろ。結羽ちゃん、そのこと、笑いよった。教頭先生が卒業式の司会ばするけん、おかあさんはおらんでも平気、って」

 そう思っていたのは事実だ。運動会も授業参観も、母は自分の学校の何かと重なって、あたしのほうに来られなかった。あたしにとってはそれが普通だった。真節小には父がいる。母にまで来てほしいと言うのは、わがままが過ぎる気がした。

「あんたにそんなこと言ったっけ?」

「お、記憶力抜群の結羽ちゃんが、珍しく覚えとらんそうです。聞いたよ、おれ。結羽ちゃんがもうすぐ引っ越すっち知って、一秒でも長く話しとこうっち思っちょったけんさ。卒業式の日とか、ずっと一緒におったし」

「スカートをからかわれたのだけは、すごいよく覚えてる」

「似合うっち言うた」

「からかわれてるようにしか聞こえなかったよ、バカ」

「結羽ちゃんさ、泣かんやったろ? 卒業式でも、閉校式でも、引っ越しのフェリーに乗るときも。おれ、全部、泣いたとに。何か悔しかった」

「あっそう」

 あたしは、カメラからも和弘からも顔を背けて、ギターをケースにしまった。急に、気まずさが込み上げてきた。さすがにしゃべりすぎだ。あたしはギターを背負って、顔を背けたまま、和弘のほうに右手を突き出した。

「カメラ。撮影、あたしがやるから」

「おれにやらせてよ。結羽ちゃん、後でまた弾くやろ。どっちみち、そのときはおれが撮影ば代わるつもりでおったし」

「映されるの、好きじゃないんだけど」

「良ちゃんメインで撮るけん、結羽ちゃんは気にせんで」

 ああ、もう面倒くさい。

 あたしは和弘の背中側に回った。この位置なら、和弘も映しようがない。あたしの意図を悟ったらしく、横顔で振り向いた和弘が、小さく笑った。あたしがにらむと、和弘は肩をすくめて前を向く。

 和弘の肩は、ずいぶん広い。筋肉質な腕は太くて、首筋もがっしりしている。知らない男の人がいるって、良一や和弘に対して何度も思ったことを、また思った。

「じゃあ、次、行こっか」

 良一が合図して、あたしたちは音楽室を離れた。

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