第二章 僕と姉のこと(3)

***


 この日も夏空が一面に広がっていた。


 時生と春日井は共に丘を上る。


 時生の両手には百合の花束、そして春日井の手には水がいっぱいに満たされた桶がある。二人が歩くたびに百合独特の爽やかな香りと水の揺れるちゃぷちゃぷという音が耳に入る。それだけで暑さなど吹っ飛んでしまいそうなくらいに、とても気持ちがいい。今日の風が夏にしては湿気を含んでおらずさらさらと流れるようだったので、なおさらそう思ってしまったのかもしれない。


 時生は歩きながら、あの日――七年前の出来事をじっと回想していた。今も鮮明に思い出せる。それだけ強烈な出来事だったのだ。皐月が突然この世を去ったことも、春日井が時生の前に現れたことも。


 全て七年前に繋がっているのだ。それが時生にとっては奇妙でしかない。


「――もう、七年になるんですね」


 やたらか細い声で時生が言うと、その横で黙々と水を運んでいた春日井は神妙な顔つきで首を横に振った。否、と。


「まだ、七年だ」


 七年前の八月は、ちょうど外国との戦役が終結したばかりで、国内に兵士が続々と戻ってきた頃だった。あの頃は、国内が戦争で勝利を収めたことにより湧いており、戦争祝賀会と評して毎晩のように大人たちは浴びるような酒を飲んでいた。みな口々に「帝国万歳」とも言っていた。子供でさえ兵隊のごっこ遊びが流行しており、まるで国を挙げての祭りごとのようでもあった。


 しかし――結論から言うと単に良いことだけではなかったのだ。


 復員してきた兵士たちから感染したと思われる虎列剌が大流行し、明治二八年にはその死者が四万人を超したという。時生の姉も、その中のひとりである。虎列剌は空気感染ではないとはいえ、あの年は本当に異常だった。


 今日のようなとても暑い日に、彼女は病魔に連れていかれてしまったのである。


 彼ら二人を、残して。


 時生と春日井が目指す丘の上の霊園には、決して立派ではないが今も沢山の墓標が並んでいる。ここに来るのは七年目だ。二人はもうすっかり場所も覚えてしまっているため、迷うことなくその中からひとつの墓を目指してゆく。奥の区画に、彼らの目指す墓標はあった。


 今まで吹いていた風が一瞬、凪いだ。


 風化しかけた石を前にすると、時生はなんだかすぐそこに皐月がいるような気がして、いつも胸が詰まる思いがする。この石を椅子にして姉が座ったまま、ここに彼らがやってくるのをただひたすらに待っているように思えるのだ。そのたびに、時生の目は潤む。いくら望んでも叶わないものは確かにここにあるのに、涙が出るということはそれを消化し切っていないということなのだろうか。


 しんと静まり返ったこの場所に、むせかえるような百合の香りが立ち込める。百合は皐月が特に好んだ花だ。時生はこみ上げてきた涙を堪え、花をそっと手向ける。そして、まるで姉自身に触れるかのような優しい手つきで石の墓標に触れた。触れずにはいられない何かが、そこにはあった。


「……姉様。来たよ」


 彼の後ろでは、じっと押し黙ったままの春日井がいる。直接話しかけてしまう時生とは対照的に、彼は墓標を前にすると硬く口を閉ざしてしまう。余計なことは一切話さない。おそらく、口を閉ざしている間胸の内で密やかに二人だけの会話を楽しんでいるのだろう。そう思うから、時生はそれを邪魔しない。否、邪魔できないし、邪魔しようとも思わないのだ。


 この丘の上からは、海がよく見える。瑠璃色をした海水が太陽の光を反射し、より一層白んで瞬く。その閃光の眩しさに耐えきれず、時生は思わずゆっくりと目を細める。


 それから二人は軽く墓の手入れをしてやり、新しく線香を焚いた。燻されたような独特の匂いが百合の香りと入り混ざり、不思議な空気を作る。


 線香の煙が立ち上る様を見て、


「線香の香は、死人の好物なのだそうだ」


 春日井は突然ぽつりと呟いた。独り言かと思うくらいに、とても小さな声だった。


「香りが?」

「ああ。だから、皐月さんは今、喜んでいるのだろう」


 そう言った彼の表情は、再び陰ったのだった。


 彼はこの煙に、言葉に、一体どういう気持ちを重ねていたのだろう。

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