第一章 僕と夜光魚のこと(5)

 そこまで言ったとき、春日井の言葉を遮るように奥の戸口が開く音がした。そして聞こえるのは、春日井の名を呼ぶ男性の声だ。時生と春日井は振り返り、はて、と首を傾げる。


荻野おぎのか。今日は午後からの予定だが」

「僕、行ってきます」


 そう言うや否や、時生は春日井の腕をすりぬけて戸口まで向かっていたのだった。


 さて、その戸口には暗い色をした洋装に身を包んだ男性が立っていた。片手には白い紙袋が下げられており、中には封書がいくつか無造作につめこまれていた。


「やあ、久喜くき君か」


 彼は今まで被っていた帽子を取り、右手を挙げて挨拶してきた。茶色がかった短い髪が、やや汗ばんで湿っている。よほど外は暑かったのだろう。


「荻野さん」


 時生が荻野と呼んだこの男は、春日井の仕事仲間である。某出版社勤務にして、春日井の担当編集者。加えて、春日井の古くからの友人だそうなので、時生も非常に良くしてもらっている。しかし実のところ、春日井は彼のことを名字でしか呼ばないので、時生は荻野の名前を知らない。それで困ったことにもならないので、未だに確認すらしていないのだった。


「今日はどうされたんです? 先生なら、今奥にいますけど」


 尋ねると、ああ、と荻野は気さくに笑い、紙袋から一通の封書を取り出した。


「今日は先日の原稿の最終確認をしていただこうと思って。本当は午後にお伺いするつもりだったのだが、急用が入ってしまった。申し訳ないが、渡しておいてもらえるかな」

「原稿、ですか。分かりました、確かに預からせていただきます」


 よければお茶でも、と声をかけたが、荻野は首を横に振った。まだ他に行くところがあるのだという。まあ確かに、彼は春日井だけの担当編集者という訳ではない。急用が入ったということは、それだけ重要なことなのだろう。むしろ毎日こうして出版社から通うのは大変だろうな、と時生は思う。彼のそのまめまめしいところが、時生は非常に好ましく思っているのだ。


 それにしても、と荻野は時生の背後に伸びる廊下を見て言う。


「昨日は嵐でもやってきたのかと思うくらいに散らかっていたけれど」

「え、ああ。すみません、お見苦しいところを」


 昨日のうちに時生は廊下に散らばった紙や水を片付けておいたのだが、どうやら気が付かないうちに荻野が来ていたらしい。おそらく昼食の準備をしに土間に入っていたときだろう。荻野にとってそれが非常に愉快だったとみえて、はは、と愉しげに声を上げて笑った。


「いや、春日井は久喜君がいるから成り立つようなものだね。確かに、君が来る前はものすごく大変だった」

「え? そうなんですか」

「うん。締切なんか一度も守ったことがないし。部屋は常に散らかり放題だし」


 部屋が云々、のあたりは結構いつものことだと思うのだが。

 まあ、それは春日井と長く付き合いのある彼だからこそ言えることなのだろう。


「おい、荻野。それ以上時生に妙なことを吹きこむな」


 突然時生の背後から春日井が声をかけてきた。すっかり機嫌を損ねてしまったようで、いつもの仏頂面に眉間の皺が上乗せされている。初めは荻野を睨めつけていた春日井だったが、次にじとりと時生を見つめ、


「君も君だ、時生。荻野の言うことをいちいち真に受けるんじゃない」


 と不服を申し立てていた。しかしそれもある意味ではいつものこと、手慣れた様子で荻野はへらへらと笑う。


「本当のことだろう、春日井。もういっそ、このまま久喜君を娶った方が無難でしょう。春日井は生活力がありませんから」


 その言葉に、さすがの時生もどきりとした。何てことを言うんだ、という気持ち半分、他所にはそう見えているのか、という気持ち半分である。


 その動揺が春日井にも感づかれてしまったようで、春日井は無言のまま時生の背後から頭に手をやり、ぐしゃぐしゃとかき回し始めた。


「用は済んだかね」

「ええ。久喜君に渡しておきましたので、受け取ってくださいね。それでは」


 にこりとやけに爽やかな笑みを浮かべた荻野は、そのまま帰ってしまった。引き戸がゆっくりと閉まる。


 からからという軽やかな音が止み、戸の向こうに人の気配が去るのを確認してから、時生はおもむろに振り返る。そして春日井に先程の封筒を渡すのだった。これならば、自分を経由しなくとも荻野が直接渡せば良かったのではないかと内心思うのだが、荻野はそういう男だ。どうも要らないところに気を回し過ぎる。


「先生、これ」


 ああ、と春日井はその封書を受取る。仰ぎ見た彼は何故かばつが悪そうな表情を浮かべていた。


 時生が彼を見上げたまま「何です」と尋ねるまで、彼はそのまま非常に微妙な表情をし続けていた。左手で首の後ろに手をやり、その、とやたら歯切れの悪い声を上げる。


「その?」

「……悪かった」

 目線は決して合わせない。「厭な思いをしたろう」


 何がです、とは敢えて聞かなかった。時生はその一言で、春日井が気にしている内容を理解してしまったのだった。彼にとっては、荻野の発言があまりに無神経に思えてしょうがなかったのだろう。しかし、時生は全て分かっているつもりだった。そして、こうも思う。


 荻野が言う通り、、と。


 何事も障害などなく、荻野が言ったような関係であったのなら、きっともっと違う二人になっていた。時生だって、事あるごとに胸を高鳴らせることなどなかったろうし、春日井が余計な神経を巡らせる必要だってなかった。


 この『秘め事』さえなければ、もっと楽になれたかもしれない、のに。


 その時の春日井の表情を、時生はおそらくこの先ずっと忘れることができないだろう。悲しみとも辛さともとれない複雑な表情で、それを見た途端時生にも靄のかかった気持ちが胸の奥底からどっと噴き出して来るのが分かる。


「――いいえ。まったく」


 ああ、と思う。


 いつの間にか、春日井の手の中にあった封書が床に落とされていた。代わりにその場所に在るのは、時生、彼だ。


 春日井の右手が時生の顎に触れ、ついと上へ向けさせる。その間時生は決して目を逸らさない。ただ春日井が持つ吸い込まれそうなほど純度の高い黒の瞳を見つめているだけだ。震えもしない、紅潮もしない。それが時生と『あの人』との約束だ。無論、時生が一方的に交わした約束であるけれど。


 口の端から吐息が洩れる。堅い指先が時生の柔らかな口唇をなぞっては、その時が来るのをじっと待つ。時生の胸の奥底から噴き出した靄に、その瞬間名前がついた。愛しさと、虚しさだ。


 春日井恭助、ああ、卑怯な人だ。どこまでも。


 そうして、時生は思うのだ。


 この瞳には、僕のことなんか映っていないくせに、と。


 ときお、と春日井の唇が動いた。しかし時生の耳にはそのように聞こえていない。もっともっと、別の名が聞こえていた。彼にとってそう聞こえるべき、かの人物の名を。


 『あの人』の名前に挿げ替えて。


 さつき、と。


 互いの距離が狭まり、口唇が重なる。この瞬間時生はいつも、罪悪感に苛まれる。――否、背徳感、と言ってもいいのかもしれない。


 春日井が見ているのは、好いているのは、決して己ではない。そして己自身は、春日井のその気持ちすらも利用し、裏切っている。


 だからこの接吻くちづけも、全て嘘なのだ。


 ややあって口唇が離れてゆく。春日井のその切なそうに歪める表情の行方は、きっと、否、間違いなく己への感情ではないのだ。


 時生の胸の内で、慟哭にも似た叫びがこだましている。


 春日井は彼に、今も『彼女』の面影を求めているのである。そしてそれを互いに理解しているからこそ、残酷なのだ。


 鳶色に近い時生の瞳は、熱を帯びながら春日井を睨めつけていた。

 互いを傷つけあうことしかできないのに、どうしても、時生も春日井も、離れることができないのだ。



 ――春日井と彼女……時生の「姉」は、かつて、結婚を約束した恋人同士だった。

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