3. 老獪な暗躍 -A Secret Maneuver for Square Princess-(1)

 まず目に入ったのは真っ白な天井だった。全身がゆったりと包まれているのが判る。両方とも今までに経験したことがないものだったので、フィルは少し混乱した。

「おはようございます」

 声をかけられて初めて、フィルは自分が目を覚ましたことに気が付いた。身体も頭も非常に重い。身体を起こそうとすると誰かが手を貸してくれた。フィルの身体を包んでいたのは驚くほど軽く手触りの良い毛布だった。

「お加減はいかがですか?」

「あ、大丈夫です」

 返事をしながらフィルは相手の顔を見た。使用人の服に身を包んだ女性だった。その銀髪を三つ編みにした女性が以前助けたメルだと思い出すまで少し時間がかかった。

 咽が酷く渇いていた。サイドテーブルに置かれた水差しに手を伸ばすと、メルがそれを手渡してくれた。

「ここは……?」

「ブリューゲル家の屋敷です」

 それから彼女は静かに一礼して部屋を出て行った。

 咽を潤わせながらフィルは頭を整理した。なぜ自分はブリューゲル家で眠っていたのだろう。そこまで考えてパーティーの最中に起こった事件を思い出した。窓の方を見ると高くから陽が射し込んでいる。どうやらかなり長い間気を失っていたようだった。発動体もなしに連続して魔法を行使したのが祟ったようだ。

 ドアがノックされる。フィルが返事をすると急いたようにドアが開きレティシアが早足で部屋に入ってくる。目が合うと泣きそうな顔になった。

「フィル!」

 名前を呼びながらレティシアはフィルの右手を両手で握りしめた。その行動にフィルはかなり驚いた。柔らかい両の手のひらは少し冷たかった。

「良かった。目を覚ましてくれて……」

「うん、ただ魔法を使いすぎただけだから」

 レティシアの今にも零れそうな瞳がすぐ近くにある。フィルは部屋の壁を見ながらそう言った。ドアのところでメルが心配そうにこちらを見つめていることに気づく。

「あの後、どうなったの?」

「ええ……」

 フィルが問いかけるとレティシアは硬い表情になって話し始めた。

「お父様は亡くなりました。即死だったようです。ハテムは腕に軽い切り傷を負っただけで済みました。他に怪我人は居ません。犯人は捕まって警邏の牢屋に収容されたそうです。だけど何にも話そうとはしないし、何者かも判っていないみたい。ブリューゲルの一族を狙ったのは間違いないでしょうけど」

 レティシアは冷徹な声で事実だけを手短に言った。まるで感情が無いようだった。しかし両手はフィルの手に重ねられたままだった。長い睫毛がそっと伏せられている。

「フィルのおかげでこれだけの被害で済みました。本当にありがとう」

「いや、僕は大したことは出来なかった」

「いいえ。発動体も無かったのに魔法を使ってくれて。私なんか指輪をしていたのに、全然そんなことに頭が回らなかった」

 レティシアが額を両手に押し当てた。音を立てずに扉が閉じる。メルは何も言わずに部屋を出て行った。

「ティア……」

 フィルは左手をレティシアの頭の上に置いた。幼い頃フィルが泣いているとウィニフレッドの母親がよくこうやって撫でてくれた。泣き疲れて眠ってしまうまでずっと。

 レティシアは声を殺して泣いていた。ぎゅっと握りしめられた手に熱い雫が零れるのを感じた。時折、隠しきれない嗚咽が混じる。その水音はどこか懐かしかった。その華奢な肢体を抱きしめたくなるのを、フィルはぐっと堪えた。

 母親が病で亡くなったとき自分は泣いたのだろうか。父や兄が涙を流していた記憶はあるが、自分のことについてはまるで記憶がなかった。流行病で村中に病人が出て多くの人が亡くなった。母が倒れた時点でもう覚悟していたように思う。

 しばらくの間は寂しい思いもした。だけどその度にウィニフレッドたちが支えてくれた。遊びに連れ出してくれたり一緒に魔術の鍛錬をしたり。日々の喧噪の中で悲しみは薄れ、時折思い出すだけの記憶となった。まだ幼い頃に亡くなったせいかもしれないが、フィルにとって母親とは端から思い出の中の存在でしかなかった。

 どれほどの間そのままでいただろう。控えめにドアがノックされた。それを聞いてレティシアがびくりと身体を震わせる。しかし彼女は気丈にも立ち上がって目尻を拭った。

「どうぞ」

 ベッドの上からフィルは返事をした。扉を開けたのはメルだった。なんだか渋い顔をしている。後ろから顔を覗かせたのは金獅子の民の男性だった。

「フィラルド・セイバーヘーゲンだな?」

 警邏の制服を着ている。身なりからすると位の高い人のようだった。そこまで観察して、妖魔討伐のときの隊長だと気がついた。ウィニフレッドの直属の上司だと言っていた。彼はフィルのことを覚えていないようだった。

「そうですが……」

「貴方はどちら様ですか?」

 フィルが答えかけたときレティシアが厳しい口調で問い返した。それを聞いて彼も態度を改めた。妖魔退治のときとは別人のようだった。

「失礼しました。私は警邏のコスタです。突然の訪問で申し訳ない。昨夜の事件について話を聞きに来たのですが」

「そう……」

 レティシアはフィルの方に一瞬目を向けた。

「彼はまだ意識を取り戻したばかりです。話なら別室で伺います。しばらくお待ちください」

 そう一方的に言い放って、レティシアはコスタと名乗った男を半ば無理矢理部屋から追い出した。そして扉のところでメルの方を振り返る。

「応接室に案内します。メルはフィルの支度を手伝ってあげて。急がなくて良いわ」

「かしこまりました」

 メルの返事に一つ頷いて、レティシアは部屋の外に出た。少し荒い音を立てて扉が閉まった。

「申し訳ありません。なんとか止めようとしたのですが……」

「いえ、別に……」

 フィルはそう言いながらベッドから下りようとした。メルが手を貸してくれる。床に下り立つと少しふらついた。やはり昨夜は無理をしすぎたようだ。それでもしばらく我慢していると落ち着いて来た。

「ありがとうございます」

「え? ああ……」

 メルにいきなり礼を言われてフィルは一瞬混乱した。しかし、以前夜道で助けたときのことを言っているのだと思い当たって首を振った。

「たまたま通りがかっただけです。それにウィニフ……警邏の娘ですけど、彼女の方が僕なんかより」

 メルは何も言わずに男物の衣服を出した。パーティーのときに着ていた借り物の服ではない。フィルには少し丈が長いようだった。弟のものではないだろう。亡くなった父親のものだろうか。

「おかげで私はここにいられます」

「え?」

「あんな事件があったため実家から戻るように言われました。族長様にもそう薦められました。でもお願いして屋敷に残していただきました。そのおかげで一人にしなくて済んだ」

 メルの言葉の意味がよく解らずフィルは首を傾げた。しかしメルはそれ以上説明してくれなかった。

「お嬢様は泣かれましたか?」

 フィルがシャツに袖を通しているとき、メルは突然そう訊いた。

「え?」

 フィルは怪訝な目を向けたがメルはじっと見つめるだけだ。ひどく真剣な眼差しをしていた。灰色の瞳が真っ直ぐにフィルを捉えている。

「ええと……」

 正直に答えて良いものかフィルは悩んだ。かといって上手く言葉を濁すことも出来ず、結局言い淀んだ。しかしその反応だけでメルは察したようだった。

「あの後、奥様はすぐに気を失いました。意識が戻ってからはハテム様について部屋に籠もりきりで、時折涙を浮かべているようです。ベルント様も大変ショックを受けられたようで、放心状態が続いております」

 メルはフィルの格好を整えながら独り言のようにそう言った。

「警邏への通報や軍への連絡。各部族の代表者への連絡や葬儀の手配。これほどの名家の直系が亡くなったとなれば様々な手続きが必要です。ましてや今回の様なケースになってしまえば……。それを今、実質的にこなしているのはお嬢様です。たった十六の娘が一人でその大役を担っている。父親が死んでまだ一日と経っていないのに悲しむ暇さえ与えられない」

 殊更に淡々とメルはそう言った。しかしその手は震えていた。フィルは黙ってそれを聞いていた。

「あの子はそれでもやり遂げてしまう。それだけの才覚と責任感を持った銀狼の自慢の娘。でもだからといってあの子が傷ついていないわけではないのです。もちろん外部の客や屋敷の使用人の前でそんな姿を見せることはありません。家族にすら甘えることもないのです。あの子は幼い頃から、ずっとそうだったのです」

 メルがレティシアのことをお嬢様、ではなく、あの子、と呼んだことにフィルは気がついた。いつだったか、ずっと前からメルがこの屋敷で働いていると聞いたのを思いだした。メルの眼差しは故郷の村を彷彿とさせた。

 フィルは借り物の衣服に着替え終わった。乱れが無いかメルに一通りチェックをして貰ってからフィルは扉を開けた。

「あの夜、メルさんが無事で良かった」

 フィルは先に立って案内する背中に声をかけた。

「貴方たちのおかげです」

「ティアの家族を守れたことを、誇りに思うよ」

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