*優しき眼差し

 当然のごとく、相手がそれを待つ訳もない。ギャラルは雄叫びを上げるとシレアを仕留めるべく、鋭い爪と牙を剥いて襲ってきた。

 けれども獣の攻撃が届く前に詠唱は終わり、シレアの頭ほどもある炎が宙に出現し真っ直ぐギャラルに向かってゆく。

 火弾ファイアボールはふらつくことなく獣をめがけて飛んでゆくが、当然のように難なく避けられてしまう。

 再び獲物を捕らえるために向き直ったギャラルの眼前に、剣を構えたシレアの姿が──獣がそれに気づいときにはすでに遅く、青年はその切っ先を大きな口に突き入れた。

 ギャラルは驚きと痛みに暴れて叫びを上げる。しかし、ここで力を緩めれば手負いの獣の反撃に遭ってしまう。

 暴れるギャラルを制してさらに剣を押し込むと、しばらく小刻みに痙攣し、やがて動かなくなった。

 シレアは完全に死んだことを確認して、ゆっくりと剣を引き抜く。

「はあ……」

 疲れを溜息に乗せ、動かなくなった獣を見下ろしてその体にそっと触れた。闘っている間に伝わってきた生命の脈動も今はなく、その温もりも急速に失われていく。

「いきなりこれでは先が思い遣られる」

 肩をすくめてナイフを取り出し、ギャラルの毛皮を剥いで肉を小さくまとめていく。

 そして、やや傾斜のきつくなった道を再び登り始めた。寒さはいち段と増してゆくが気にしてもいられない。

 道と呼べるものはやがて途絶え、微かに残された獣道を頼りに進む。少しでも踏み外せば崖下に真っ逆さまだ。

 重ね着をするにはまだ早い。現状では返って汗をかき、体力を消耗させてしまう。充分寒いが限界まで耐えなければ。

 次第に風は強くなり、雪がちらつき始めた。用意していた毛皮の首巻きを取り出し、首にまいて先を目指す。

 予想よりも歩みが遅い。陽は傾き、山間を抜ける風が夜をつれてくる。これ以上は無理だと諦めて比較的、風の弱い岩陰を見つけてマントにくるまる。

 これからさらに険しくなるであろう予感に顔をしかめ目を閉じた。


 ──まぶしさに目を覚ますと吹雪は去り、青空がシレアを迎える。さっそく発とうと周囲を見渡すも、獣道すら失われていた。

 諦めて地図を頼りに再び足を踏み出す。夜、晴れていれば星の位置を見て進むことが出来るだろう。

 地図というものは、人間が歩んできた歴史を脈々と受け継いできたものだ。先駆者たちが刻んだ足跡、それに続く者たちが新たな情報を加え、あるいは書き換えて地図の隙間を埋めていく。

 ある程度の情報を持つまでとなった地図は数多く複製されて、多くの旅人の助けとなっている。それぞれが手にした地図には、手にした者の痕跡がまた刻まれていくのだ。

 歩きながらカルクカンに出会えるだろうかと考えていた矢先、空はみるみると暗くなり雪が降り始めた。風は強さを増し、吹雪が再びシレアに立ちはだかる。

 それはあたかもシレアにつきまとうように止むことなく、それでも諦めるものかと厚着をして足を動かした。

 視界は真っ白だが足元だけはかろうじて確認出来る。あまり無理はしたくないが悠長にしてもいられない。

 ここまで登ると、さすがに生きているものの気配はまるで感じられない。不安要素が一つでも減るのは有り難い。

 しかし、その道程はなおも厳しく少しずつ、少しずつ歩く事で十日を要した。ここまで時間を費やしたことを思えば、ギャラルに出会ったことは幸運だったかもしれない。

 あの獣の肉がなければ、この先も生きていられたか解らない。

 そこから二日経ち、山を登って十二日目──遠方の眼下に広がったのは、岩肌や積雪ではなくまぶしいほどの緑だった。

「頂上か」

 安堵して、今まさに向かおうとしている盆地を見下ろす。少しの森と平原、小さな湖が山に囲まれてそこにあった。

 薄い雲が邪魔をして詳細までは確認出来ないけれど、何かの群れがいたように思う。あれがカルクカンであればとはやる気持ちを抑えて山を降りるため、安全な踏み場を探す。

 こちら側は地形が少し緩やかなのか、八日とかからずにふもとに到着した。

 とはいえ、ここまで気を張り詰めて無理をしたせいだろう、体力もすでに限界に近い。平原を見渡しているこの間にも、意識はじわじわと遠のいていく。

 たどり着いた安堵感も加わってか急速に視界が狭まり、いつしか目の前は真っ暗になった──


 ふと、頬にあたる風に目を覚ます。どこにも痛みはない、どうやら無事でいるようだ。安全確保もせずに眠ってしまうなど不甲斐ないと自分に呆れる。

「ん?」

 シレアは、ぬめりのある何かが頬に触れていることに気がついた。まるで大きななめくじが這っているような。

 だけれども、なめくじにしては動きが速い。これは……大きな舌のようにも思える。ゆっくりと目を開き、震える腕で上半身を持ち上げた。

[ケエェー!]

 すると周囲に何体もいたのか、それらが大きく鳴いて一斉に離れていった。驚きつつも、逃げたものを確認して目を丸くした。

「これは」

 カルクカンの群が自分を取り囲んでいたのだ。初めて見る数に言葉を詰まらせる。カルクカンは馬と同様に、人によく慣れると聞いた事がある。

 とはいえ、まさかここまでとはと驚嘆し、眼前の光景をしばらく眺めていた。

 すらりと伸びた尾はしなやかなムチのように動き、艶を帯びた肌は太陽に照らされて色とりどりの光を放つ。まるで夢の中にいるような感覚に思わず溜息が漏れた。

 そうしてシレアは、まずは体力を回復させるためにカルクカンを眺めながら体を安める事にした。

 森には食べられる木の実が豊富にあり、水も充分にある。これなら回復もすぐだろう。


 三日後──体調はまだ完全とはいかないが、ここからは捕らえた一頭を調教しながらで問題はない。バックパックからロープを取り出し、先端を輪にする。

 それを適当に草の中に投げ、その先を手に持って地面に腰を落とし空を見上げた。簡単な仕掛けだが、滅多に人の来ない土地ならひっかかるだろう。

 いくら人なつこいとはいえ、捕まえようとする相手に近づくほど馬鹿でもないはずだ。ここは気長に待つとしよう。

 ──と思いきや、一頭のカルクカンが警戒心も見せずひょこひょこと近づいてくる。

「えーと?」

 あまりにもの出来事に言葉もない。

「ああ」

 そういえば、馬には運命の相手がいると聞いた事がある。

 人と馬の間にある絆は、必ず互いを引き合わせる。それがカルクカンにもあるというのだろうか?

 シレアはカルクカンをじっと見つめた。青みがかった緑の体と黄色い瞳はただ静かにシレアを見下ろしていた。

「私と、来るか?」

[ククルルゥ!]

 それに応えるようにカルクカンはひと鳴きした。

 とはいうものの、乗りこなすにはやはり調教が必要だ。時間はたっぷりあるのだからと、事前に調べていた手順で調教を開始する。

 そうしているうちに他のカルクカンとも仲良くなり、あのとき自分を守るために集まっていたのだと理解した。

 彼らには、「弱っている仲間を守る」という習性があったのだ。人というものに触れていないカルクカンたちには、シレアが仲間に見えたのかもしれない。

 あるいはここを訪れた人間もまた、カルクカンと仲良くなれたのかもしれない。

 体力も回復し、シレアは一旦集落に戻るためソーズワースと名付けたカルクカンにくらを乗せる。

 刻一刻と近づく別れの時を感じているのか、カルクカンたちはシレアとソーズワースを遠くから静かに眺めていた。

 名残惜しそうに小さく鳴き始め、それはやがて大きくなって輪唱のごとく草原に響き渡る。

 それを背に、シレアはソーズワースと共にそびえ立つ山脈に再び足を向けた。


 ──聞き終わった少女たちは、ぽかんと口を大きく開けてシレアとカルクカンを交互に見やる。

「すごい!」

「凄い!」

「それほど起伏のある話でもなかっただろう」

「そんなことないよ!」

「このお馬さん優しいんだ」

 ソシエは少し怖々こわごわとソーズワースを見上げた。よくよく眺めるとその顔立ちはくちばしの大きな、毛のないオウムのようにも見える。

「大きな爬虫類に思われがちだが、そうではない」

 言って立ち上がったシレアは、ソーズワースの首を優しくさする。気持ちよさそうに目を細めるカルクカンの表情にセシエとソシエは可愛いと思った。

「乗ってみるか」

「えっ!?」

「だ、だいじょうぶ?」

「噛みつくことはない」

 それを聞いた双子は安心したのか、早く早くとシレアにせがんだ。

「お肌すべすべなのね」

「セシエはやく~。次はあたし!」

 裏口から水を汲みに出たカナンは、そんな妹たちをしばらく見つめていた。


 ──朝食を済ませ、カナンはシレアの前に紅茶を差し出す。

「ありがとうございます」

「ん?」

 礼を言われるようなことをした覚えはないと眉を寄せる。

「あの子たちのあんな顔、久しぶりに見たの」

「ああ……」

 そういうことかとコップを手にした。まともな紅茶を飲むのは久しぶりのためか、漂う薫りに顔がほころぶ。

 旅先で手に入るものといえばほとんどがハーブティだ。何せ、雑草ならそこらに生えている。それらを乾燥させればハーブテイとなる。もちろん、毒草には気をつけろ。

 ハーブティも嫌いではないが、それしかないとなるとさすがに飽きてしまうのは仕方がない。

「父さんたちが死んでから、あの子たち、ふさぎ込んでしまって」

 向かいの席に腰掛けて続けた。

「宿を継いだわたしのために必死で笑って、一生懸命に元気なふりをして」

「あの子たちはあの子たちで考えているのだろう」

「え?」

「お前が思うほど彼女らは弱くはないよ」

 両親の死をしっかりと受け止め、生きている今を強く感じている。

「もう少し、あの子たちに頼ってもいいのではないか」

 シレアの言葉にカナンはしばらく呆然とした。

「そんなこと、考えてもみませんでした」

 いつも無理矢理お客さんを連れてきて、謝るのに大変だったけど、そのおかげでお客が一人もいない日はなかった。

 いつも何かやらかしてくれて、忙しさで泣いてる暇なんかなかった。

「そうか、あの子たち。わたしのために」

「お前は一人ではないよ」

 その瞳に吸い込まれそうになったカナンは頬を少し赤らめた。

「じゃあさ、これから四人でっていうのはどう?」

「そうそう」

 テーブルの下からニョキッと頭が二つ飛び出した。シレアは双子の顔を一瞥し、無言で視線を外す。

「あ、いま聞こえないふりした」

「カナンのこと嫌い?」

「ちょ、ちょっと!?」

 シレアは慌てるカナンをちらりと見やり、双子に顔を近づけた。はらりと肩から滑り落ちる髪に、二人は綺麗だなと目をやる。

「私は流れ戦士だ」

 ささやいてゆっくりと立ち上がり、カナンとは視線を合わせず部屋に戻るべく階段に向かった。

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