第4話 会社を追われて

「なんか……くさくないです?」

 上山の魂の叫びへの賛同もそこそこに、そう言い放ったのは女性社員の長瀬だった。

「えっ……ぼく?」

 どう考えても自分以外にいないだろうと確信しながらも、としまさはそう聞き返さずにはいられなかった。

「確かに、変なにおいがするね」

「うん、する。薬みたいな」

 社員たちが次々と異臭を訴える中、デスクが言った。

「これは、ヤスデの毒腺から出るにおいだね。ヤスデはシアン化合物やキノン類を主成分とする毒液を出すんだ。通常、ヤスデはムカデより毒の危険性は低いと言われるけれど、この大きさだとどうだろうねえ」

 その言葉を聞いて、オフィスに緊張が走った。

「あの、デスク……シアン化合物って……」

「青酸だね」

「やばくないですか?」

「密閉された空間だと危険かもしれないね」

 おろおろとするとしまさに、デスクが言う。

「田中くん、来てもらって早々で申し訳ないんだけど、しばらく自宅勤務でお願いできるかな? 今日はお休みでいいからさ」

 こうして、としまさは職こそ失いはしなかったものの、職場は追い出されてしまった。上山の言葉もむなしく、会社に出勤できなくなったとしまさは、再び「自分は人間か、ヤスデか」という自意識上の大問題に立ち戻ることとなった。

「なんて情けないことだろう。これまで深夜の残業もいとわず会社に尽くしてきたのに、姿が変わった途端にこの始末だ。毒液が出てしまったのは申し訳なかったけれど、それだって、ちょっと興奮してつい漏らしてしまっただけなのだ。まだこの姿になって間もないのだから、そのくらいの粗相は仕方がない。いや、悲観的に考えるのはよそう。ぼくはヤスデじゃない。理性をもった人間だ。訓練すれば、毒液を出さないようにするくらい、なんてことはないさ。そうだ、家に帰って早速、訓練を始めよう。そうして職場復帰をめざすんだ。いや、しかし実のところ、毒液なんてぼくを追い出すための方便に過ぎず、彼らはこの醜い姿のぼくを見ているのが忍びないから追い出したのではないだろうか(まだ全身を鏡で見てみたわけではないけれど、見なくてもおそらくひどく醜いだろうことはわかる)。ああ、それにぼくの家族たちはどうだろう。朝は誰にもこの姿を見せずに出てきてしまったけれど、ぼくがヤスデになってしまったことを知ったら、家族でさえぼくを同じ家の中に置いておきたくはないと思うのではないか。特に妹のまゆは虫がきらいだった。こんなことなら、普段からもっと妹に優しく接して、尊敬できる兄であるべきだった。こんな非モテで会社に行く以外は半ば引きこもりの兄では、むしろヤスデになったのがよい口実。すぐに追い出されてしまうだろう。こんなヤスデでも、部屋を貸してくれる不動産屋はあるだろうか。いっそ人間であることをすっぱり諦めて、山の奥にでも引きこもって、巨大ヤスデとして暮らすことを考えたほうがよいのかもしれない」

 そんなことをつぶやきながら、としまさは道を歩いた。もう電車に乗る気にはなれなかった。幸いヤスデの脚は、人間のころの二本足よりもすばやく、楽々と彼を運んでくれる。家にはすぐに着いた。

「……ただいま」

 玄関の前で10分も悩んでから、これではむしろ通行人の目がわが家に集まってしまうということに気づいて、としまさは意を決し、玄関の扉を開けた。

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