3-2 一匹狼少女の決意



 ああ、嫌なことを思い出してしまった。


 何か別のことでも考えて座間澄子ざますみこのデスクの上にあった写真を頭からかき消そうとするものの、意識すればするほどかえって脳裏にこべりついていく。




 私は未だかつて、お父さんほど二面性のある人間を見たことがない。表向きは上司にも部下にも信頼の厚い高学歴のエリート銀行マン、だけどそんな肩書きが家族の私にとっては嘘にしか思えなかった。


 いつも帰りは夜遅く不定期のくせに、夕飯が温かい状態で用意されていないと時計の針がてっぺんを回ってもお母さんを責めたてた。お前はどうしてそんなにトロいんだ、ちゃんと頭で考えて行動しろ、それだから単純作業の仕事にしかつけないんだとか……嫌でも耳に染みついた、一方的な暴言。


 拳を振るったことは一度もなかったけど、夫からそんな言葉を浴びせられ続けたお母さんの心は相当傷ついていたに違いない。


 でもお母さんは決して反論することはなかった。ごめんなさい、私が悪かったわ、次はちゃんとするから……これも鬱陶うっとうしいくらい耳に染み付いてしまった。


 そんな両親のやり取りを見る度に、私はとても胸がざわついた。理不尽なお父さんに対してはもちろんだけど、なぜか罪のないはずのお母さんに対しても苛々いらいらするのだ。


 どうしてお母さんに対してもそう思うのだろう。二人が言い合いをするたびに考えてみたけど、当時小学生だった私には分からなかった。


 私が何もしなければきっと、お母さんはあのまま東京都心の高層マンションでお父さんに罵倒される日々を続けるつもりだったのだろう。




 でも——あれは、確か小学四年生の時だった。




 私は当時中学受験のために塾に入れられていたのだけど、一ヶ月で通うのをやめてしまった。別に勉強は得意じゃなかったし、お父さんが私に受験させようとしていたお嬢様学校みたいな女子校の雰囲気がどうしても好きになれなかった。


 お母さんは続けてほしそうだったけれど、私にその気がないのが分かると「お父さんには言っておくから」と承諾してくれた。私はそれで全て解決した……と思っていた。


 それから三ヶ月くらいが過ぎて、本来であれば模試を受けていたはずの頃、会社の同僚から同年代の娘の模試の結果を聞かされたお父さんは「雪乃はどうだったんだ」とお母さんに聞いてきた。その瞬間、家中の空気が凍りついた。お母さんは私が塾に通わなくなったのをお父さんに伝えられていなかったのだ。


「どうしてお前はそうなんだ! これだから大学も出ていない女は……! 雪乃は私の子だぞ!? お前とは違ってやればできるはずなんだ! どうして塾をやめさせた? ついに娘の顔色までうかがうようになったのか? はぁ、本当にどうしてこうなる……いいから私が納得できるように説明してみなさい!」


 例によってお父さんの説教が始まった。お母さんはひたすら謝るだけ。私が勝手に通う気をなくしたということは一言も言わなかった。


 私のせいにすればいいのに。どうして?


 その時気づいたんだ。お母さんはお父さんに言い返すことは絶対できないんだって。諦めに近い発見だった。本当はずっと、二人が上手くいくことを期待していた。でも、お母さんにはそれができない。それが愛なのか、それとも呪いのようなものなのか、未だによくわからないけれど、とにかくそういうものなんだと理解した。




——そして、そんなお母さんを救ってあげられるのは私しかいないってことも。




「お父さんと別れて」




 お父さんがアメリカに長期出張に出たタイミングで、私はお母さんにそう提案した。


「お父さんには頼らずに、二人で生きていこうよ。私も頑張るから」


「雪乃……?」


「私もう無理だよ。あの男のこと、父親だなんて思いたくない。それに……これ以上あの男に謝るお母さんも見たくないの。お母さんのことまで嫌いになってしまいそう」


 ぎゅっと強く抱きしめられた。お母さんの身体、温かい。顔は見えなかったけど、鼻をすする音が聞こえてきて少しだけ罪悪感を覚えた。お父さんに責められている時は一度も涙を見せたことがなかったのに。


「ごめん……ごめんね……娘にこんなこと言わせてしまう親でごめんね……」


「だからもう謝んないでってば! これは私のワガママなんだから」




 お父さんはすぐには離婚のことを認めなかったけど、マンションのお隣さんが証言者になってくれたのと、その人が専門の相談所を紹介してくれたおかげでなんとか離婚届にサインまでさせることができて、私たちはお母さんの地元であるこの柳田やなぎだ市に引っ越してきたのである。




 別館から渡り廊下で本館へ。「1−5」と書かれた教室の札が見えてくる。


 私はあまりこの街の人たちのことが好きになれなかった。みんな当たり前のように一軒家に住んでいて、仲の良い両親や兄弟がいて、何かに追われることなく、縛られることなく、思い思いに過ごしている感じに……どうしても馴染めなかった。


 いや、その気になれば輪の中に入っていけたのかもしれない。


 でも私にはそうすることはできなかった。私がお母さんをお父さんから引き剥がしたのだ。お母さんはこの街で介護士の仕事を始めたけれど、夜勤や度重なる残業で昨日みたいに急に倒れてしまうことが最近ちらほらある。二人で生きて行くためには、私がちゃんとしなければいけない。高校に入ってからはバイトを始めたけど、もう少しシフトを増やそうかな……そんなことを考えながら教室に入った。


 担任の黒柳が三者面談の案内をしている。お母さんは一週間後には退院する予定だけど、どのみち日中は仕事だからどうせ来れないだろう。私には関係のないことだ。


 三者面談に向けて、校内を清掃するクラス委員を決めるらしい。教室中がブーイングで湧く。


「お前らがそういう反応をするだろうと思って、実はもう誰にやってもらうか決めてある。うちのクラスで部活をやっていない二人——桜庭と水川、よろしくな」



——は?



 私は思わず顔を上げる。なんでよりにもよって、あいつと。


「……無理なんだけど」


 帰宅部にしているのはバイトがあるからで、決して暇じゃない。もちろん校則ではバイトは禁止だから、黒柳がそれを知っているわけはないんだけど。それでも、なんで自分の親が来るわけもないイベントのためにクラス委員なんて。


 抗議しようと思ったけれど、始業のチャイムで黒柳に逃げられてしまった。桜庭がこちらをちらりと見てきて、私はあえて目をらした。



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